④助手席に、座っている
「は……?」
蒲生さんの答えに、目を点にした僕が助手席を見やる。
彼はここに客が乗っていると言ったが……どこからどう見ても、助手席に人の姿なんてない。
何を言っているんだと改めて蒲生さんへと視線を向ければ、ちょうど同じタイミングで片山も彼に向かって嘲笑と呆れが入り混じった言葉を投げかけた。
「おっさん、何言ってんだ? もしかしてあれか? 助手席にはお化けが座ってるから、後ろから蹴ったら祟られちゃいますよ~、ってこと?」
「……はい、そうです。そこには、目には見えない何かが座っているんです」
「馬鹿らしい! 妄想ヤバ過ぎだっつーの! おっさん、一度頭の病院に行っとけよ! ぜってーなんかの病気だからさ!」
吐き捨てるように、片山が蒲生さんへと言う。
確かに彼の言う通り、蒲生さんの言っていることは突拍子がないのだが……どうしてだか、僕は片山と同じ考えにはなれなかった。
冷ややかな目で淡々と語る蒲生さんが、何かの悪ふざけや妄想に憑りつかれてこんなことを言っているとは思えないのだ。
「……私も勤めていた会社が潰れてから十年近くこの仕事をやってるんですがね、そんな話はごまんと聞きますし、実際に出会ったこともあります。信じるか信じないかはお客さん次第ですけどね」
「へぇ? じゃあ今もこの席に誰か座ってるっていうのか? 俺の目には、何も見えねえけどな!」
「………」
ガンッ、と片山が再び前の座席を蹴り上げた。
その瞬間、ゾクリとした寒気を感じた僕が蒲生さんを見やれば、無言でハンドルを握り、車を走らせる彼の姿が目に映る。
青から赤へ、目の前の信号の色が代わり、ゆるゆるとスピードが落ちる中……蒲生さんは、バックミラー越しに僕の目を見つめながらもう一度口を開いた。
「今、お客さんが座っている席ですかね。大体は、そこに座ることが多いです」
「っっ……!?」
蒲生さんの言葉に、ビクッと体を震わせる。
片山はそんな僕の反応を嘲笑しながら、呆れた様子で言ってきた。
「おいおい、お前マジで信じてんの? こんなの、人生負け組おっさんの妄想に決まってんじゃねーか」
「……安心してください、お客さん。今はそこに誰も座っていませんし、後部座席に座るお客はまともな方が多いんですよ。鏡に映って自分がここにいることを訴えるくらいで終わり……私やお客さんに危害を加えたりなんかしません」
「……助手席に座るお客さんは、そうじゃないんですか?」
僕も蒲生さんも、もう片山のことは無視していた。
理由はわからない。ただ、この話はちゃんと聞いておかなければいけない気がする。
心臓が早鐘を打ち、全身に冷や汗が流れ、それがクーラーの風に吹かれて寒気を感じさせる中、僕が蒲生さんへとそう問いかければ……彼は車を走らせながら、こう答えた。
「ええ、危ないです。そういう奴らはね、人に近付くことを恐れない。それに、ルールを守るつもりもないですから」
「ルール……?」
「タクシーに乗る時は、基本的に後部座席を利用する……お客さんもそうしたでしょう? そういうルールを守らずにいきなり助手席に乗り込む奴っていうのは、往々にして我がままお客さんなんですよ」
「……運転手さんは、そういうお客さんと出会ったことはあるんですか?」
「……ええ、何度か。危ない目にも遭いました」
ヴン、というエンジン音が響く。車内の空気が、一段と寒くなったように思える。
吐いた息が白いもやになっていることを見て取りながら、それでも蒲生さんの話に意識を傾ける僕は、震える声で彼へと尋ねた。
「そういう時って……どうするんですか? なにか、対処法が……?」
「……簡単ですよ。無視すればいい。気付いていないふりをするんです。さっきそちらのお客さんが言ったように、何も見ていないことにする……それが一番の対処法です」
蒲生さんの声が弾んだように聞こえたのは、僕の気のせいではないはずだ。
こんな荒唐無稽な話を続ける彼は、どうしてだかどんどん楽しそうな雰囲気を纏い始めている。
だけど……鏡越しに合う蒲生さんの瞳には感情がなくて、わずかに見える表情からも何を考えているかが読み取れなくて、それがとても不気味に感じられた。
「……安心してください。こんな話をしましたが、このお守りがあれば大丈夫です」
ピリピリとした緊張感が寒気と共に高まる中、不意に蒲生さんがそんなことを言いながらバックミラーから吊り下げられている小袋を取った。
ピンク色のそれへと視線を向ける僕へと、彼は少しだけ温もりをにじませた声で言う。
「娘がね、わざわざ私のために用意してくれたんですよ。こいつのおかげで助手席に乗り込んでくるようなお客さんはいなくなりました。だから、安心してください。お客さんは大丈夫です」
「……!」
鏡に映る蒲生さんの目が、静かに歪んだ。
多分、笑みを浮かべたのだろう。だけど、どうしてだか……暖かい声を聞いて、その笑みを見ても、欠片も安心できないでいる。
(お守りのおかげで助手席に乗り込む客はいなくなったと蒲生さんは言った。だったら、さっきの警告はなんだったんだ……?)
無言で視線を助手席へと向けた僕は、蒲生さんの言動の矛盾に気付くと共に息を飲む。
この席に誰も座っていないというのなら、安心していいと言うのなら、どうして先ほど、助手席を蹴り上げた片山のことを注意したのだろうか?
何かが変だ。異様な雰囲気も、冷や汗も止まらない。体を震わせる寒気が、どんどん強くなっている。
緊張気味に喉を震わせて吸い込んだ空気が、肺を凍らせるくらいに冷たくなっていることに驚いた僕が目を見開く中、ここまで黙っていた片山が唐突に口を開いた。
「はっっ! 馬鹿話は終わったか? 意味わかんね~話をぐだぐだ続けんじゃねえよ、カス!!」
ガツンッ、と暴言を吐き捨てながら足を伸ばした片山が助手席を蹴る。
忌々し気な表情を浮かべた彼は、吐く息が白いもやになっていることに気付いて顔を顰めると、蒲生さんへと怒鳴り付けるように言った。
「おい! さっき冷房弱くしろって言ったよな? 逆に強くなってんじゃねえか! 底辺職の人間はそんなこともできねえのかよ? 使えねえな!!」
「……すみません、ね」
「謝ってる暇があったらとっとと冷房を切れって! 寒過ぎんだよ、このタクシー!」
僕が感じているものと同じ寒気を、片山も感じているようだ。
怒鳴り散らす彼に謝罪した蒲生さんは、続く彼の言葉にも一切動じることなく……こう、答える。
「すみません、それはできないんです。もうとっくに、冷房は切ってますから」
「……え?」
とんとん、と指で風の噴射口を突きながらの蒲生さんの言葉で、僕も気付いた。
このタクシーのエアコンは、もうずっと前から止まっている。駆動音も、さっきから全く聞こえていなかった。
じゃあ、この寒気はなんだ? 車内を満たすこの異様な寒気の正体はいったいなんだというんだ?
「お、おい……降ろせ! 今すぐ俺を降ろせ!!」
「……すみません。それもできないんですよ。残念ながら、ね……」
タクシー内を満たす寒気に、緊張感に、異様な雰囲気に、片山は一気に余裕を失って半狂乱になって叫んだ。
しかし、蒲生さんはどこまでも冷静で、静かで、淡々としていて……そんな彼の様子を見ていた僕は、今、このタクシーの周囲に人の気配が全くないことに気付く。
ついさっきまで人気の多い街の中を走っていたというのに……タクシーは今、街頭一つない暗い道に停車していた。
(ここはどこだ? いつこんな道に迷い込んだ? 何がどうなってる?)
疑問が頭の中を埋め尽くす。同時に、本能がけたたましいくらいに警鐘を鳴らす。
何か……何かがマズい。そう、僕が考えるよりも早くに感じ取った瞬間、蒲生さんが口を開いた。
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