③タクシー内

「片山先輩、どうして……!?」


「どうしてもこうしてもないだろ? お前が酔った小夜ちゃんを連れて店から出ていくのが見えたからよ、怪しいと思ってつけてきたんだ」


 そう話す片山先輩の背後で、タクシーの扉がバタンと閉まる。

 僕が制止する隙もなく走り出したタクシーの中、先輩はニヤニヤと笑いながらこんなことを言ってきた。


「お前もなかなかやるよな。人畜無害なふりして、女の子をお持ち帰りしようとするだなんてよ」


「そんなつもりはないです。僕はただ、八坂さんの具合が悪そうだったから――」


「そういう時は先輩である俺に相談するべきだろ? そうしなかったのは、お前も小夜ちゃんとワンチャン狙ってたからだよなぁ?」


「……お前?」


 ニタニタと笑いながら話す片山先輩が何の気なしに発したその一言に、僕は眉をひそめる。

 その反応を見て、少しだけ笑みを引っ込めた先輩が急に黙る中、僕は彼へと言った。


「……八坂さんがこうなったのは、飲んでいたジュースにアルコールが入っていたからです。彼女に飲み物を用意したのはあなたですよね、片山先輩?」


「ああ~、そうだったかな? もしかしたら店員がうっかりしちまったのかも――」


「とぼけるなよ。全部、わかっててやったことなんだろう?」


 今度は僕が詰問する番だった。

 わざとらしくとぼける片山先輩を睨みつけながら、自分でも慣れていないと思いながら……それでも、これ以上八坂さんに変なちょっかいをかけさせないために、僕は彼へと言う。


「僕があの店から八坂さんを連れ出したのは、あなたを信用できないからだ。あなたが八坂さんが酔い潰れたことを知ったら、何をするかわかったもんじゃない」


「……なるほどな。朝倉くんはヒーローを気取っちゃってるってことか。若いねえ」


 喉を鳴らして、僕を嘲るように片山先輩が笑う。

 伏せていた顔を上げた彼は、ねっとりとしたいやらしい笑みを浮かべながら……猫撫で声で僕へと言った。


「なあ、朝倉くん。少し大人になれよ。ここで俺と仲良くしておいた方が、君にとってもいいと思うけど?」


 そう言いながら、視線を僕の背後にいる八坂さんへと向けた片山先輩は、浮かべている笑みに欲望と凶悪さを含ませながら財布を取り出すと、タクシーの運転手さんへと声をかけた。


「運転手さん、ちょっと頼みがあるんだけどさ。俺たちの話、聞かなかったことにしてくれない? あと、ドラレコがあったらその記録も消しといてよ。お礼はするからさ」


 そう言いながら、片山先輩が財布から取り出した万札を料金受け渡し用のトレーの上に無造作に放り投げる。

 信号待ちのタクシーの中、十枚以上はあるであろう一万円札をポンと放り投げた先輩のことを、僕はギョッとしながら見つめていた。


「タクシー運転手なんて、そこまで給料が良いわけじゃないだろ? 別に俺に手を貸せって言ってるんじゃない。あんたは何も見てないふりをすればいい。たったそれだけで、その金はあんたのものだ」


「………」


「沈黙は肯定と受け取るぜ。じゃ、契約成立ってことで。ああ、それとクーラー弱くしてもらっていい?」


 運転手さんが何も言わない様を見た先輩が口の端を吊り上げながら笑い、ハンドルから手を放した彼がクーラーを弱めたことを確認してさらにその笑みを強める。

 そうした後、改めて僕へと顔を向けた片山先輩は、自慢気な表情を浮かべながら口を開いた。


「この程度の金、俺にとっちゃ安いもんだ。俺には金もコネも知恵もある。朝倉くんもさ、俺の言うことを聞けば……甘い汁を吸えるよ?」


 ……腐っている。そう、素直に思った。

 多分、これが初めてじゃない。片山先輩は、同じような方法で何度も気に入った女子を酔い潰して、襲っている。


 その犯罪行為を自身が持ち得る全ての力を使ってもみ消しているのだろうと、だからこんなにも醜悪な表情を浮かべられるのだろうと、そう僕は感じた。


「タクシー代は俺が払ってやるからさ、ホテル行こうぜ。結構楽しいもんだよ、3Pってさ」


「………」


「まあ最悪さ、朝倉くんも黙っててくれればいいよ。その分、お小遣いも弾んであげるからさ」


 クックックと喉を鳴らして笑う先輩……いや、この男に、僕は何も答えなかった。

 その代わり、ハンドルを握る運転手さんへと身を乗り出すようにして声をかける。


「運転手さん、行き先を変えてください。近くの病院までお願いします」


「……は?」


 僕の横顔を見つめる片山が、ポカンとした表情を浮かべて声を漏らす。

 少し間を空けて、なるほどといった様子で頷いた彼は、居酒屋で見せた苛立ちを隠そうともしない態度で僕へとこう言ってきた。


「なるほどね。そういう態度を取るんだ? 俺と仲良くするつもりはないってことか……クソが、舐めんなよ?」


 なんとでも言えばいい。ここで八坂さんを差し出すつもりなんて毛頭ないし、こんな下種な真似をする人間と仲良くなるつもりもない。


 今、僕が考えるべきは、八坂さんをこの男の手から守ることだ。

 僕たちが住んでいるマンションがどこなのかバレたら、八坂さんの身にも危険が及ぶ可能性がある。

 その危険を排除するためにも、片山に情報を渡すわけにはいかないと……そう考えた僕の行き先変更の申し出に対して、タクシーの運転手さんは淡々とした声で言う。


「病院、ですね? この時間ですと、開いているのが少し離れたところにある大きな病院しかないんですが……それでもよろしいでしょうか?」


「大丈夫です。よろしくお願いします」


「ちっ……!」


 片山の大きな舌打ちが車内に響く。

 だけど、僕も運転手さんもそんなこと微塵も気にしていなかった。


 ドガッ、と音を響かせながら足を延ばして助手席を蹴った片山は、僕を押し込むように脚や腕を広げてスペースを作ると、忌々し気な声で愚痴る。


「あ~あ、時間を無駄にしちまった! カスが、俺を舐めんじゃねえぞ? 絶対に後悔させてやるからな」


 なんとでも言え、と思いながら僕は片山を無視する。

 明日からの大学生活の中でこいつが何をしてくるかはわからないが、思い通りになって堪るかと反抗心を燃やしながら僕が無視を決め込む中、静かに車を走らせていた運転手さんが口を開いた。


「……お客さん。助手席そこ、蹴らない方がいいですよ」


「はぁ? なんだよ、急に?」


 自身のマナーの悪さを注意された片山であったが、機嫌を損ねている彼は運転手さんのその言葉に素直に従うつもりはないようだ。

 僕を押し退けながら、怒りを燃え上がらせた彼が運転席に向かって吠える。


「てめぇ、何て名前だ? 後でクレーム入れてやるから、覚悟しとけよ?」


「……私の名前は蒲生といいます。そこに名前と顔写真、連絡先が記載されたカードがありますので、クレームを入れたければご自由にどうぞ」


「あ……? 蒲生……?」


 視線をこちらに向けることもせず、淡々とした声でそう答えた運転手さんの態度に、片山が少しだけ怯む。

 教えられた名前をぼそりと繰り返す彼をよそに前方へと視線を向けてみれば、料金表示も兼ねているカーナビのすぐ下に運転手さんの顔写真付きの社員証のようなものが取り付けられている様が目に映った。


蒲生利通がもう としみちさん……かな?)


 そこに書かれていた彼の名前と顔写真を、心の中で反芻する。

 流石はタクシー運転手というか、片山なんかよりも面倒な酔っ払いの相手もしているから、この程度じゃ動じないんだろうな……と考えていた僕は、視界の上の方でゆらりと揺れる小さな何かに気付き、そちらへと目を向けた。


(なんだ、あの袋……?)


 僕が見たのは、バックミラーからぶら下がる小さな袋だった。

 ピンク色をしている、僕の人差し指くらいの大きさのそれの存在に意識を奪われている僕がぼーっとする中、蒲生さんは静かな声でこんなことを言ってくる。


「車を綺麗に扱ってほしいという意味もありますが……これ、お客さんの安全のために言ってるんですよ」


「はぁ? どういう意味だよ、それ?」


 自分の安全のためだと……そんなよくわからないことを言う蒲生さんへと、片山が目を細めて当然の疑問を投げかける。

 その声にわずかに振り向いた彼は、感情の籠っていない視線を僕たちへと向けながらこう答えた。


「……助手席そこに、客が乗っているんですよ」

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