⑤彼女は笑顔だった

 ――冷たい風が、頬を撫でた。

 数日前に送られてきたメッセージを見つめていた僕は、静かにスマートフォンの電源を落とすとそれを学生服のポケットにしまう。

 そうした後で顔を上げ、近くにある看板へと視線を向ければ、認めたくない現実が襲い掛かってくる。


「まひる……」


 もうどこにもいない幼馴染の……好きだった女の子の名前を呟いた瞬間、再び風が吹いた。

 同時に、告別式の会場へと改めて視線を向けた僕は、もうじき訪れる彼女との本当の別れを想像して顔を伏せる。


 まひるが亡くなったのは、メッセージが届いた日からまた数日前のことだった。

 血塗れの制服を着たまま、学校の中で首を吊っているところを見回りの教師が発見したらしい。


 時を同じくして、まひるのクラスでは夕陽辰彦という男子生徒の死体が発見された。

 夕陽くんの遺体には無数の刺し傷が残っており、その顔は恐怖で引き攣っていたそうだ。


 警察の捜査が入るまでもなく、夕陽くんを殺したのはまひるで間違いないという話になった。

 このことは他の生徒たちに知らされることはなく、僕もまひるからのメッセージとこれを見せたまひるのお母さんから話を聞いて知ったことだ。


 まひるが人を殺し、その後、自ら命を絶ったという残酷過ぎる現実を、僕は受け入れざるを得なかった。


 僕たち家族が住んでいたアパートを襲った火事の原因は設備の老朽化にある可能性が高く、放火ではないという調査結果が出ている。

 だから、まひるが本当に不審な反応を見せる夕陽くんを現場で見ていたとしても、彼があの火事に関わっていた可能性は低い。


 もしも僕があの日、まひるのことをもっと気に掛けていたら……夕陽くんを殺すことはなかったのだろう。

 友人たちは慰めてくれたが、後悔は募るばかりだ。


「……朝倉新一あさくら しんいちくん」


 自分にはこの悲劇を回避するためにできることがあったんじゃないかと僕が考え続ける中、静かな声が響く。

 名前を呼ばれたのだと、一拍遅れて気付いた僕が振り返れば、そこにはまひるのクラスメイトであった八坂小夜という女子生徒の姿があった。


「平気……なわけがないわよね。ごめんなさい」


「いや、いいんだ。心配してくれてありがとう」


 八坂さんとは委員会が同じで、話をする機会が多くある。

 決して親密な関係ではないが、それでもこうして気遣ってくれる彼女に感謝を告げた僕であったが、八坂さんは驚くべきことを言ってきた。


「……ごめんなさい、朝倉くん。私、全てを知っているの」


「え……?」


「あの日、委員会で遅くまで学校に残っていて、二人の遺体を見た……こう言えば、わかる?」


「っっ……!!」


 真っ赤な目を僕に向けながらそう告げてきた八坂さんが、何を考えているかはわからない。

 どうして彼女がこのタイミングで告白してきたのかもわからずに固まる僕へと、八坂さんが言う。


「あなたが気に病む必要はないわ。これは避けようのないことだった」


「……そんなことないさ。僕がもっと、まひるを気に掛けていれば良かったんだ。そうすれば――」


 顔の傷のことも受け入れて、前を向いて歩いていけるようになったと思っていた。

 もう安心だと……そう、思い込んでしまっていた。


 本当はそんなことなどなかったのだ。変な想像に取りつかれてしまうくらい、まひるは追い詰められていた。

 そのことに気付いていれば……この悲劇は避けられたのだと思う。


「上手く言葉が見つからない。安っぽい言葉を使うなら……だ。死ぬことよりも、この現実の方がもっとつらい」


「……そう」


「……だけど、それ以上に……怖いんだ」


「……何がそんなに恐ろしいのかしら」


 静かな口調で、淡々と、八坂さんが僕に問いかける。

 きっと、世界で彼女だけにしか吐露できない本音を吐き出すように……僕は、心の中に在る恐怖を放し始めた。


「……まひるは、夕陽くんを殺した。何度も彼を刺して、返り血を浴びて、息の根を止めて……その後、首を吊って死んだ。人を殺す恐怖も、自ら死を選ぶことへの怖れも、まひるは味わったはずだ。だけど……んだ。命を落とす寸前までも、死したその後も」


 棺の中のまひるは、とても安らかな笑みを浮かべていた。

 学校の友人たちはそんな彼女の笑顔を見て、安らかに逝けたのだと言っていたが……全てを知っている僕は彼らと同じようには思えない。


 どうしてまひるはあんな笑顔を浮かべることができたのだろうか? 人を殺すことも、自ら死を選ぶことも、どちらも気が狂いそうになるくらい恐ろしいことだろうに。

 まひるに殺された夕陽くんがそうであったように、恐怖を感じるのが自然であるはずだ。

 それなのにまひるは……とても幸せそうに笑っていた。恐怖など、微塵も感じていないというように。


「わからないんだ、僕には……あれだけ一緒にいた幼馴染が何を考えていたのか、全くわからない。あの棺の中にいるのはまひるのはずなのに、安らかな笑顔を浮かべているはずなのに……どうしても、理解できない何かがそこにいるようにしか思えないんだ」


 あそこで眠っているのは、本当にまひるなのだろうか? 少なくとも僕が知るまひるは、人を殺してあんな笑みを浮かべられるような女の子じゃなかった。

 何が彼女をそうしたのか? 顔に傷を受けたあの日から、まひるは僕が知らない彼女に変わっていたのだろうか?


「今、その答えを知る必要はないわ。そう遠くないうちに、四宮さんの想いを理解する日がくるでしょうから」


「え……?」


 そうやって怖れ、惑う僕へと、八坂さんが静かに言う。

 その言葉に驚いて顔を上げた僕に向けて、彼女はこう続けた。


「そろそろ四宮さんが火葬場に向かう時間よ。最後の挨拶を済ませておいた方がいいんじゃないかしら」


「……そうだね。そうさせてもらうよ」


 淡々とした口調でそう言われた僕は、今までの考えを振り払ってその言葉に同意する。

 これで最後だ。もう二度と、まひると会うことはできない。

 だから、今はただ彼女に別れを告げよう。それが今、僕がすべきことだ。


 会場に戻った僕は、ちょうどまひるに最後の別れを告げていたクラスメイトたちに交じって彼女に近付く。

 多くの花と思い出の品に囲まれた彼女を見つめながら、込み上げる感情を抑えながら、僕は呟いた。


「さよなら、まひる。僕の、大好きだった女の子……」


 棺が閉じられ、顔が見える覗き窓が閉まるその瞬間まで……まひるは笑顔だった。

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