第18話 手紙
真っ暗な世界で、六十年間僕は生きた。
わしの目には無機質な天井が映る。
わしは今、最期のときを迎えようとしていた。
人生の記憶は、もうほぼない。認知症だった。
「加賀美くん、これを読みんさい」
突然、僕の視界に古い色褪せた一通の手紙が差し出される。
シワだらけの、切れ長なまぶたの女性。僕はその女性の存在に気づかなかった。
震える手で、差し出された手紙を受け取る。
差し出し宛ての氏名はない。
色褪せ手紙を開こうにも、弱りきった指先には力が入らない。それを理解した女性が手紙を開き、わしに手紙を渡す。
『加賀美 陽向くんへ
拝啓。
悲しんでいる陽向くんへ。
私は普段手紙を書くことがありません。普段は同じ家で暮らしていたもんね。だから少し緊張しています。字は意外と綺麗でしょ?陽向くんは達筆だもんね。
まず最初にごめん。何も言わずに君の前から突然いなくなって本当にごめん。
私が居なくなって少しは悲しんでくれたのかな。泣いてくれたりしたのかな。悲しんでくれているとほんの少しだけ嬉しいな。でも私の予想だと陽向くんは泣いてはいないと思う。君は誰よりも優しくて、強い人だから自分のことをきっと後回しにしちゃってるよね。』
「これは誰からの手紙じゃ?」
萎縮した声帯からやっとの思いで、隣に座る女性に尋ねる。
「これは、あなたの大切な人からのメッセージですよ」
そうなのか。とは言っても、今のわしにはこの手紙の人間が誰なのか皆目見当もつかない。だが、わしの直感では恐らくこの手紙の差し出し人は女性であろう。
『陽向くんと出会ったのはたしか五月くらいだったよね。数ヶ月あっという間だったね。
今でも盗撮くんと呼んだ時の顔を思い出すとお腹が痛くなるよ。かわいかったなー。ほんとだよほんと!』
はて、盗撮のこととはなんじゃ。
『陽向くんにとっては数ヶ月だけど、同棲、本当に楽しかったね。』
わしはこれまでずっと一人で暮らしていたような。でも、黒い記憶に白いモヤがかかる。
どこか記憶の隅で、忘れた記憶があるような。
そして再び、目で手紙を読み進める。
『照れくさいから、伝えたいことだけ書いとくね。
陽向くんが好きです。
陽向くんを大好きです。
陽向くんを愛しています。
陽向くんに重いって思われるくらい愛したかった。
陽向くんに愛されたかった。
陽向くんともっと一緒にいたかった。
陽向くんと人生を歩んでみたかった。
陽向くんと年老いてシワシワのおじいちゃん、おばあちゃんになるまで一緒に笑っていたかった。
陽向くんと一緒に死にたかった。
だから、陽向くんは生きて。
私の分まで生きて。
幸せに、楽しく生きて。
笑って、笑って皺でクシャクシャになるくらい人生楽しんで。
私の代わりにもっと生きて。
そしてたまに少しだけ私のことを思い出してくれると嬉しいな……
ありがとう。大好きだよ。さようなら。』
全て読み、僕の心臓はキュッと締め付けられた。この感覚は何十年ぶりだろうか。
わしは何かを忘れている。でも、手紙を読んでも彼女が誰か分からない。
「あっ……」
弱った握力が色褪せた手紙を落とす。その手紙を隣に座る女性が拾い、わしに手渡してくれる。
「勿忘草……か」
手紙と同封された、押し花。青と白の二色の押し花がひとつずつ。その内の、青色の勿忘草の花にひどく懐かしさを覚える。
「あおいろ……」
『ねぇ、盗撮です!』
『盗撮くん、私と同棲してください』
遠く、昔の記憶。
『すごく美味しいよ』
舌の細胞が求めている、彼女の味付け。
『告白だよ。僕は葵が好きだからね』
僕がした初めての告白。
『私は幸せ者だよ』
そう言って、僕はしょっぱいキスをした。
あぁ、思い出した。
「葵……」
わしは忘れてた。細胞から愛していたと思っていたのに、わしは忘れていたのか。
「忘れすぎよ……」
涙ぐむ、三次さん。
葵の手紙はわしの最期の人生に、色のなくなった暗闇の無機質な凪の世界に、最期に青と白の波をくれた。
そして、彼女は暗闇に太陽のような光を射してくれた。
あの時、我慢していたものが六十年越しに込み上げてきた。ダメだった。堪えようとしても、弱った身体には抑えることも隠すこともでにない。
拭おうにも身体は言うことを聞かない。溢れるこぼれる涙。最初で最期の彼女の死に対する涙。
意識が遠くなっていく。息が浅くなっていく。目が見えなくなっていく。
目の前に白いモヤがかかり走馬灯が流れる。
子供の頃の父に憧れてカメラを持ちシャッターを切り、その撮った写真を両親に見せて、二人の笑顔が僕は嬉しかった。
次は父の葬式で母が泣き崩れる姿。僕たちはこの先どうなるのか心配だった。
それからしばらくが経ち、颯汰さんと良い出会いをする。あの日の堤防から見る景色はいつもより綺麗だったな。
そして、僕は葵を盗撮した。勿忘草に包まれるシンプルでミニマリズムな世界だった。
盗撮がきっかけで同居、いや同棲が始まった。
たった数ヶ月だったが、彼女との生活は楽しかった。充実していた。
僕は葵に恋をした。気持ちを伝え、唇を重ね、身体を重ねて愛を確かめ合った。
そして最後に彼女は突然自殺した。
それからの無気力な六十年は走馬灯に映っても、僕にはなんの記憶もなかった。
記憶に残る光の終点が一点に迫る。
終点に達した時、その走馬灯の記憶は逆再生になり僕は白い光に包まれた。
僕の最期は、満足だった。
そして、モニターに表示されている僕の脈拍の波は凪になった。
盗撮をしたら、同棲が始まった。 土山 月 @taKumisan
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