第15話 黄金柱
翌日、朝早くから約二時間弱かけて予定通り目的地に到着した。僕の予想通りに女性陣は車内で移動時間の半分は爆睡していた。
「空気が綺麗だねー」
前方数メートル先から同居人の声が聞こえる。
見渡す限り一面の青空と山々に包まれた澄んだ空気が美味しい。夏に差し掛かっているにも関わらず、都心部の四方八方から反射するコンクリートの熱もなく、澄み切った自然が三人を包み込んでくれる。
将来は田舎の綺麗な空気の中で生活するのもないかも知れないな。
「洞窟ってどこにあるの?」
「もう少し歩いたところかしら」
同じ歩調の三次さんが返答する。葵は普段見ない大自然に興奮して、ルンルンな足で数メートル前で辺りの緑を見渡しながら鼻歌を吹いている。
子供っぽいところあるよな。
「なんだか、少し冷え込んできたね」
「まあ、洞窟付近だし、川流れてるからね。ブランケット貸そうか?」
「いや……少しの間貸してもらって良いかな?」
「ええ、どうぞ」
遠慮しておくよ、と喉元にまで来ていた言葉を無理やり飲み込み、三次さんの厚意とカーキのブランケットをありがたく受け取る。そして、借りたブランケットを羽織り顔を上げると、興奮気味の葵の声が聞こえる。
「あ!見えたよ!ほらほら、すごいよ!」
「すげぇ」
「すごいわね」
僕たちは言葉を失う。僕たちの目の前には大きな洞窟への入り口が、待ち構えている。辺りは草木に覆われ、洞内に続く道にはや根付きの橋が架っている。
その橋に沿って歩き、洞内に入ると気温が一気に下がる。洞窟は公園の地下百メートルにあり、洞内の観光コースの距離は約一キロ。洞窟は特別天然記念物にも指定されており、洞内の気温は四季を通して約十七度と一定である。夏は涼しく、冬は暖かく観光できる。
しかし、そのメリットが今は僕たちを苦しめる。情報を全く仕入れず訪れたせいで、薄着の彼女には少し肌寒いらしい。
「寒いね」
僕たちに歩みを合わせて、間に入った葵が地肌を軽く擦りながら、摩擦で体温を温めている。
「そうかな」
だが、僕は暖かい。三次さんのブランケットのおかげで大変心地の良い気温で観光できている。
「用意周到だね」
「まぁね」
幻想的な自然の造形物から、ドヤッと葵に視線を変える。
「天気予報とか見ないくせに」
「直感派の人間だからね」
「直感の冴えてる人って素敵だよね」
あからさまに褒めにかかった葵を不自然に感じる。
「なに?すごい不気味なんだけど」
「いやいや、失礼なことを言わないでよ。本当に心の底からすごいなって」
「なら、直感の優れる僕を揶揄うんじゃなくて、敬った方が良いと思うよ」
葵の隣を歩く、三次さんの呆れた視線が冷たいが、葵にはその視線が見られていないのでそのまま続けて鼻を伸ばす。
「そうだね。ところで陽向くん」
「どうしたの?」
「好きな色って何色だっけ?」
「緑だけど」
「そうだよね」
僕は彼女に好きな色を教えた覚えはないが、僕の部屋は緑色の物が比較的多いから予測はできるか。
「カーキのブランケットは素敵だと思うけど、女性ものはちょっとね……あ、もちろん多様性だから否定はしないよ」
葵の引きつった笑みに伸びた鼻が一瞬で縮まる。よくよく、ブランケットを見てみると女の子っぽい柄が薄らとチラホラ散らばっている。そこまで注力して見ていなかったため、自分のこれまでの発言に羞恥が高まる。
「調子乗ってごめんなさい」
早口で謝罪すると葵は悪戯が成功したように笑い、三次さんは呆れている。
「もう、ほら良いから見て見て!凄いよ」
「ほんとすごいわね」
「さっきからすごいしか聞いてない気がするんだけど」
「加賀美くん、心から感動したら語彙力なんてなくなるのよ」
そういうものなのかと疑問に思いながら、上を見ると高さ十五メートルの黄金柱が堂々と僕たちに佇む。説明を読むと、洞窟の天井付近から流れ出した地下水が壁を伝い、そこに石灰分が付着して数万年の時を経て作り上げられたという天然の造形物だと。
「すげぇ」
感銘の言葉はそれだった。
「葵、ほらね」
「優花、ほんとだね」
本当に心から感動したら凄いしか出てこなかった。神秘的且つ数万年というロマン溢れる目の前のそれに心を奪われる。本当にすごい。
「ふぅー」
「ふわぁー」
葵が僕の耳に細い息を吹き込み、耳の内をくすぐられる。
「へへっ、ふわぁーってなに」
悪戯が成功してニッと葵が笑い、僕の魂の抜けたような声をいじる。
「耳は弱いんだよ」
「へぇー、良い事聞いた。今度から耳から攻めてあげるね」
おいおい、誤解を招く様な言い方をするなよ、という言葉を出す前に案の定、三次さんの視線が痛い。
「あんたたち、どういう関係なの?」
「ごか……」
「私たち二人の関係は秘密だよ」
僕の言葉を葵が遮り、言葉を被せる。
「あんたたち付き合ってるの?」
「三次さん、誤解だよ。僕たちは付き合っていないし、変な関係でもない」
「えー、でも同棲してるよ」
「ちょっと君は黙ってて」
「はーい。じゃあ、他の所見てきまーす」
葵が喋るとややこしくなる。なんなら、彼女はわざと爆弾を落とし、僕が三次さんに対して焦るところを楽しんでいる。
「僕たちはただの同居人。決してやましい関係じゃないよ」
「そう」
僕たちは一度同じベッドで寝た。だが、やましいことどころか、触れ合ってすらいない。他には葵が僕を揶揄い、たまに僕がそれに乗っかるだけ。後ろめたいことをした事も一切ない。
「あのね、加賀美くん」
僕の耳元でコソッと三次さんが僕に言う。それに僕はこくりと頷き、三次さんが言葉を待つ。
「私は、あなたたち二人がえっちな関係でも口出しする権利はないことを知ってるの」
女性のえっち、と言う言葉に心臓が急に跳ねる。
葵に聞こえないように配慮した三次さんの小さな声に僕はもう一度頷く。
「でもね、家族のように過ごしてた葵が傷ついた姿は見たくないの」
昨日も言っていたな。葵が傷つくことをしないでくれと。本当に葵は大切にされているんだな。家族との折り合いが悪そうな葵を、三次さんが支えてくれていたんだなと思う。
「大切なんだね」
「ええ、とてもね」
「僕はできた人間ではないけど、彼女を傷つけることはしない」
昨日も誓った。僕が葵を傷つけるようなことがあれば、自分自身を軽蔑し、存在を否定する。
「ええ、それはもう信じてるわ。だから、守ってあげてほしいの」
「僕一人じゃ無理だよ。だから、僕にできないことは三次さんが支えてあげてよ」
「当たり前よ。だから、葵が言っていたもうす……」
「私に内緒でなに話してるのー?」
三次さんが言いかけた言葉は戻ってきた葵の言葉で、僕の耳には届かなかった。
「世間話だよ」
「人見知りか」
「なんでだよ」
「なんとなく」
ムッとした子のわけのわからない理屈を聞き流し、歩幅を広げる。そして、再び三次さんが近づく。
「葵のこと好きなのね」
「……好きだよ」
声に出かけた、はぐらかすための言葉は喉の奥に押し流し、正直に三次さんには葵のことが好きだと伝える。
しかし、この感情を全面に押し出すわけにはいかない。この居心地の良い関係を壊したくないから。
同居という関係を崩したくないからこそ、葵の親友である三次さんには素直な気持ちを打ち明けた。正直に打ち明けたのだから、多少は三次さんも僕を信用してくれるんじゃないだろうか。
「でも、この気持ちは伝えることはないから内緒だよ」
「言葉にしないと伝わらないわよ」
「そうだけど、関係が崩れるのが怖いんだ」
「臆病なのね」
「そうだね」
そう、僕は臆病なんだろう。だから、損得で物事を判断してしまうし、変化を恐れてしまう。
幸いにも僕は母さんから無償の愛を受けることができた。でも、それは僕が運が良かったから。この世界には無償の愛を受けることのできない人が五万といる。
もし恋人になれたとして、この先僕は彼女に見返りを求めず、打算のない愛を捧げてあげられるのか、彼女は僕を好きでいてくれるのか。運が良かった故に不安になってしまう。
だからこそ、居心地の良い関係に変化を求めない。それに、彼女はもうすぐ死ぬんだ。言葉で伝えたところで……。
「人はいつ居なくなるか分からないわ。それが明日かもしれない」
誰しもが明日という未来を保証されているわけではない。人はひょんなことで死ぬ。
「だからね、加賀美くん。未来を生きるんじゃなくて、今を生きなさいよ。未来の自分に悔いが無いようにね」
「ありがとう」
三次さんの言葉を僕の心に響いた。未来は確約されていないのだから、今、この瞬間を生きる。それがきっと、未来にも繋がるのだろう。
「ねぇ、さっきからなに話してるの?教えてよ!」
心配そうに葵がこちらを見つめる。幸いにも、僕の言葉は聞こえてなかったようでひと安心だ。
「秘密よ。喜ばせたいからってローストビーフの作り方を教えてって言われたなんて、言えるわけないじゃない」
「あ、そうだったんだ」
ほっとしたような顔で、微笑む。
「サプライズで喜ばしたいだなんて、可愛いところあるね」
「やかましいよ」
そう言って、三次さんの咄嗟の作り話に心の内で感謝をする。
彼女が居なくなる前に、僕は気持ちを言葉にして伝えることができるだろうか。
「陽向くん!あれ見に行こ!」
指さした先には神秘的な百枚皿。僕は腕を引かれ、彼女に着いていこうとしたが。
――コッ、ドン!
洞内は多少の水滴で湿っており、小石に躓いた葵は鈍い音を立てて転倒した。粗めのコンクリートに擦れ、葵の綺麗な足にかすり傷ができる。
「走るからだよ」
「痛てて。ショートパンツだから、尚更痛いよ」
「ほら、手を貸すよ」
「ねぇ!心配して!か弱い女の子が転けたんだから心配してよ!」
「その調子なら問題ないね」
出血もないし、調子もいつもと変わらない。ただのかすり傷だ、問題ないだろう。
「ふんっ!あ、優花、転けちゃったよ」
三次さんが、駆け寄ってきて、ムッと口を尖らしている葵の服に着いた砂埃を手で払う。
「葵、膝擦りむいてるじゃない」
「痛くないから大丈夫だよ!」
そう言って、屈伸をして異常の無さを伝える。
「はい、ちょっと大人しくして」
三次さんはハンドバックを漁り、絆創膏を取り出し彼女の傷口に貼る。ピンクの可愛らしい絆創膏でその二人の光景を微笑ましく思った。
「優花、かわいい絆創膏だね」
「葵には似合うでしょ」
「やったー!」
嬉しそうにする彼女に僕からも声をかける。
「似合ってるよ」
苦手だが口角を上げて、上手く笑顔を作って優しく葵に伝える。
「笑顔下手くそだね」
「おい」
頑張ったのだから、失礼なこと言うなよ。
「最近のナルシストでも、片側の口角だけ上げたりしないよ」
「おい」
「でも、ありがとね」
「どうも……」
葵の屈託のない笑みに、照れくさくなり思わず目を逸らしてしまう。
こんな他愛もない会話をこれからもずっとできるのなら、僕は葵との関係性を特別望んだりしない。このまま、彼女との時間が続けば良いのに。
どれくらい僕は葵と一緒に居ることができるのだろうかと神秘的な空間で考えても、数万年の時を経た天然物の前にはちっぽけに感じた。
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