第13話 酔いどれ
腹に突き刺さる鋭利な刃物。鋭い痛みが、絶え間なく押し寄せる。
左手にはどす黒い鉄臭い液体が流れる。腹筋に力が入らない。動けない、声が出せない。
迫り来る『死』という文字。
痛い、痛い、痛い、誰か……僕を助けてくれ。
――――――――――――――――――――――
「うわっ!……はぁ、夢か」
心臓の鼓動が激しい。悪夢のせいか、背中に滲んだ汗がベッドにまで染み付き、気持ち悪い。
目覚めの最悪な朝だ。
「なんなんだよ。やけにリアルな感触だったな……」
腹部に手を当てるが、当たり前に何も怪我はしていない。
それにしても、現実世界で感じるような痛みだった。まるで夢ではなく、本当に刃物で刺された記憶が身体に残っているかのような、気持ち悪さだった。
「汗でも流すか」
ベッドから立ち上がり、扉を開けると一気に味噌の匂いが鼻に届く。
僕より先に葵が起きて、朝ご飯を用意してくれる。この習慣が僕の身体に染みついてきた。もちろん、彼女には感謝しているし、この習慣を当たり前だとは思っていない。
「でも、この生活もいつか終わるのか……」
葵の言葉が頭に浮かぶ。彼女は死んでしまうと言う。
最初はこの生活がいつ終わっても良いと思っていた。でも、今はこの生活が一日でも、一秒でも長く続いて欲しいと心の底から思う。
「朝から考え事はやめよう」
葵が死ぬからと言って、僕たち二人の関係が大きく変わるわけではないし、僕は今まで通り接するだけだ。
強いて言うなら、僕の心に新たに生まれた気持ちの変化に気づかないふりをして、いつもと同じように過ごすだけ。
「おはおぅ」
洗面所の扉を開けると、寝巻き姿の葵が歯を磨いていた。
「おはよう。シャワー浴びるから、歯磨き終わったら教えて」
トイレでも行っとくか。
「一緒に入る?」
口を濯ぎ終わった、葵が僕に言う。どうせ揶揄っているのだ。あえて、その冗談に乗ってやろう。
「入ろうよ」
「変態」
「冗談だよ」
「ちょっと本気だったでしょ」
「どうだろ」
正直言うと、少しだけ願望もあった。だけどそんなことを本人には言えないし、逆に見抜かれていたことに悔しさを覚える。
「はぁ……相変わらず変態だね。あ、ご飯できてるから食べておいてね」
相変わらず変態と呼ばれる行為は盗撮と、今の返事しか心当たりがないのだが。
「ありがとう」
「はーい」
歯磨きを終え、何やら支度をし始める。
「どこか行くの?」
「うん、遊びに行ってくる!」
大学生だしな。友達くらい居るだろう。それに葵は美女だから彼氏は居ないとしても、異性からの誘いはあってもおかしくないだろう。
もし彼女に恋人ができたら、この生活も強制的に終わるんだろうか。
「気をつけて」
「誰か気になる?」
「いや別に」
「男の子とかもよ?」
「相手が男でも、僕には関係ないよ」
相手が男でも僕には関係ないし、どうすることも出来ない。僕と葵は恋人ではないのだから人間関係に、つべこべ言う資格はない。
「夕方には帰るから心配しなくて良いよ」
「うん、僕がご飯作っておこうか?」
「作れないじゃん」
葵が苦笑する。
「でも料理は味じゃないから!愛が伝わればなんだって美味しいから」
「うん、じゃあ頑張って作っておくよ。だから、一旦シャワー入らせて」
「そうだったね。どうぞ」
そう言って、葵は一旦洗面所から退出する。
彼女なら、気にしなくて脱いで良いよと言うかと思ったが素直に僕の言うことに従ってくれて良かった。
「行ってらっしゃい」
「行ってくるね」
玄関で葵を見送った。オシャレな格好で、ワクワクを抑えきれんばかりの笑顔は、僕の心を締め付けた。
誰と遊ぶのだろうか。この笑顔を誰か他の男が、隣で歩きながら見るのだろうか。彼女は僕には見せない顔をするのだろうか。
「女々しいな……」
誰もいない玄関で扉に向かって呟く。
恋心は僕をダメにしてしまう。女々しく、自分に自信をなくし不安になってしまう。
それと、オシャレな葵も良いけど、僕は寝巻き姿のラフな彼女も良いなと思う。
――ピコンっ
僕のスマホにメッセージ通知が届く。
《夜ご飯楽しみにしてるね!》
そのメッセージに付け加えるように、目を輝かせるクマのスタンプが届いた。そのメッセージに返信をして、僕は一日の始まりを迎える。
さぁ、晩ご飯は何にしようか。朝ご飯を食べながら、今日の晩ご飯について考えた。
――――――――――――――――――――――
「おかえり。今からご飯温めるから」
玄関の扉が開く音がし、僕は自室の扉を開け葵に伝える。
「ただいまぁーありがとー。介護してぇー」
「うわっ」
そう言って、僕にもたれかかる。それに気のせいだろうか、目がとろんとしている気がする。
「酒くさい……」
「女の子に臭いって失礼だぞぉー」
「おい、君年齢は」
「二十歳いぇい!」
ブイサインを僕に向ける。誕生日をもう迎えていたのか。
「言ってくれれば、お祝いしたのに……」
僕の言葉は酔っている葵には届いていない。
「なんだか、夫婦みたいだねぇ」
「どうだろね」
「照れちゃってぇー」
ええい、酔っぱらいの相手はめんどくさいな。そう言う自分も照れくさそうじゃないか。
「ソファ昼間に届いたから、そこで寝てなよ」
「もう届いたんだぁー」
先週、ネットで注文して今日の昼間に届いた。実物で見た方が良いかとも思ったが、僕たちの直感がこれが良いと一致したからネットにしたのだ。
「それで、ご飯食べる?」
「食べます!お腹ぺこぺこですぅー」
片手を勢い良く上げ、再び僕にもたれかかる。酒くせぇ。
「じゃあ、ソファで待ってて」
僕は彼女の腕を解き、一旦部屋に戻り掛け布団をリビングへ持っていくことにした。どうせ、寝るんだから。
「温まったけど、どうする?」
僕はカレーを温め終わり、ソファで眠る葵を揺さぶる。
「んぅ……あれ、私寝てた?」
「ぐっすりと。気持ち良さそうないびきをかいて」
「えっ!嘘だ!恥ずかしい」
顔を赤らめ、両手で覆う。
「冗談だよ。酔いは冷めたの?」
「良かったぁ」
安堵する。実際、いびきはかいていないがとても幸せそうな顔で眠っていた。
「酔いは?」
「あ、冷めたかも」
「ご飯食べる?」
「食べたい」
「じゃあ、注ぐから席座って」
「良いの?自分でやれるよ」
「いつもしてもらってるから」
いつも葵は料理の盛り付けまでを全てしてくれているのだから、僕がしないわけにはいかない。それに、今の彼女には任せられないしな。足元ふらついてるし。
「はい、どうぞ」
僕は椅子に座る葵に並々に注いだ白米とルーを彼女の前に置く。
「カレーじゃん!いただきます」
「いただきます」
「うわぁー、美味しい。それに染みるねー」
そう言って一口運ぶ。すると幸せそうな顔になる。酔った後に味の濃い食べ物は数倍増しで美味しく感じる。
「それは良かったよ」
「最高だよ!」
たった一言で、こんなにも心が嬉しい気持ちになるのか。たった一言が、こんなにも疲れを癒してくれるのか。
「……ありがとう」
照れくさかった。それと同時に、僕もこれから毎日欠かさず伝えようとも実感した。
「そういえば、明日の夕方から今日遊んだ友達が泊まりに来るから」
その言葉を聞いて、複雑な感情だった。もしも男だったのなら、この短い生活の終わりを打診されるかもしれない。
やはり、僕の心は女々しいのだと実感をする。
「それで、葵。君はいつ誕生日を迎えてたんだ?祝うことはできたのに」
口の中のカレーを胃に落とし、問いかける。
「え、あ、そうだったね。伝え忘れてたね」
そう言って、スマホの画面を向けるとそこに表示されていたのは。
「今日……」
今日の日付である七月二十五日が表示されていた。
「正解。私さ、意外とお酒弱いんだよね」
「そうなんだ。酔って潰れないように気をつけなよ」
「心配ありがと」
酔った大人の介護ほど面倒くさいものはないからな。
「それと男と飲む時に帰れそうになくなったら、僕を呼んで。迎えに行くから」
酔った意識朦朧としている女性を自分の欲満たしの為に扱う人間に彼女を連れられては、こちらも気が悪い。
「どうしてそこまで心配してくれるの?」
僕に試すような視線を向けてくる。
「同居人だからだよ」
「同居人だから、現金な陽向くんが心配して迎えに来てくれるの?」
「そうだよ、葵が深く落ち込んでたら僕まで気分が落ちる。居心地のよい空間にしたいだけだよ」
少し早口になってしまったかもしれない。一応、筋は通っていると思うし、本音でもある。
「ふーん、そっか。私が生きている間は、必ずこの家に帰ってくるから心配しなくて良いよ」
「分かったよ」
「でも、心配してくれて嬉しいよ。ありがとね」
どういたしまして、と言って僕は食器をキッチンへと持っていく。お腹も満たされたし、眠気も迫ってき始めた。早めに寝るとするか。
「明日、洗うから水につけておいて」
「りょうかーい。あれ、もう寝るの?」
「うん、もう寝る。おやすみ」
「おやすみ!明日よろしくね」
頷き、リビングから立ち去るために扉に手を掛ける。
葵の友達が明日泊まりに来るらしい。明日は一日中、部屋に引こもるとするか。
「あ、そうだ」
「どうしたの?」
「言い忘れてたけど、誕生日おめでとう」
「ありがと!一緒にお酒飲もうね」
笑顔で再びブイサインをしながら僕に飲む約束を取りつける。
「また今度ね」
僕はまだお酒を飲める歳ではないから、またその時が来たら一緒にお酒を飲もう。今からもう少し先のその時が、少しだけ楽しみだ。
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