第7話 夢

 いつの出来事か、もう忘れた。当時の私は目の前に広がる海に反射するオレンジ色の夕陽を堤防に登って眺めるのが好きだった。


 危ないから登るなとよく怒られていたが、時間が経つにつれて、次第に水平線の向こうへと消えていく太陽が綺麗だった。幼いながらに感動したのを今でも鮮明に覚えている。


 ある日、私の目には普段見かけない人物が私の定位置で黄昏ているのを見つけた。だから、私は思わず声をかけた。


「おじさん、どうしたの?体調悪いの?」


 するとおじさんは私の方を見て優しく笑った。


「体調は悪くないよ。ちょっと昔のことを思い出してね」

「ふーん」

 

 不思議だった。どうしてこんなにも優しそうなおじさんが悲しそうな目をしているのか。


「おじさんも景色見てたの?」

「あぁ、そうだよ」

「私もこの景色好き!」

「どうして?」

「綺麗だから!」


 私の答えを聞いて、おじさんはまた笑った。


「あ、そうだ!」


 そう言って右ポケットを探る。


「これ見て!私の宝物」


 私の好きなお花の押し花をおじさんの前に出す。


「懐かしいな……勿忘草の花か」

「この花の名前が分かるの!」


 クラスの子たちはみんなバラやチューリップ、桜が好きな子ばかりで皆、私の好きな好きな花の存在自体を知らない。だからつい嬉しくてお喋りをしたかった。

 

「私この花好き!」

「どうして?」

「私の名前と同じ色だから!」


 桃月葵。私と同じ色をした名前だから小さな可愛らしいこの花を好きになった。


「おじさんはなんのお花が好き?」

「おじさんもこのお花が好きだよ」


 おじさんと好きなお花が同じで嬉しかった。仲間ができたような感覚。

 

「どうして?」


 私に共感してくれる人が居ないから、気になった。おじさんがその花を好きな理由を。

 

「好きな人がこの花が好きだったからだよ」

「おじさんの恋人?」

「違うよ」

「どうして好きなのに恋人じゃないの?」

「死んじゃったんだ」

「かわいそう……今も好き?」


 おじさんは苦笑した。子供の私でも分かるくらいにおじさんは真剣な眼差しで口を開いた。


「好きだよ。未だに忘れることができないんだ」


 悲しそうな表情。私の少ない人生では経験したことの無いくらいの絶望だったのだろうか。私はおじさんに同情出来なかった。私より何倍も生きているおじさんに、同情するのは失礼だと、幼いながらに思った。


 だから、私は少しの励ましの意味を込めて右手に握っていたものをおじさんに差し出す。なぜだか分からない。でも、私はおじさんにそれをあげたかった。


「おじさん!これあげる!」


 おじさんは困った表情で受け取る。


「宝物なんじゃないの?」

「宝物だよ。でもおじさんに元気になってもらいたいって思ったの!」


 おじさんが心の底から笑える日が来て欲しいと心から思う。私の宝物ひとつでおじさんの心を覆っている黒い霧を晴らせたら良いなって思った。だから私は宝物をおじさんにあげる。


「そのお花がおじさんに元気をくれるよ!」


 私はできる限り口角を上げて、笑った。屈託のない笑みをおじさんへ贈った。


「ありがとう。おじさん少し元気になったよ」


 おじさんは嬉しそうに微笑んだ。私もその表情を見て嬉しくなる。


「ほんと?」

「本当だよ。明日を生きる活力になったよ」

「かつ……りょく?」

「ガソリンだよ。このお花のおかげで明日も頑張れる」


 私のお花でおじさんが頑張れるなら、それは私にとっても嬉しい。


「ほら、見てごらん。すごく綺麗だよ」

「ほんとだ!」


 その日の沈みゆく夕陽はなんだか、いつもより二割増で綺麗に感じた。


 ――――――――――――――――――――――


「ふわぁー。なんだ夢か……」


 カーテンから差し込む陽の光で、私の睡眠は覚まされた。


 最近、この夢をよく見る。もういつか覚えていない昔の記憶。いや、それとも夢なのか。どちらなのか判別できないくらい遠く、脳の片隅に眠る記憶。おじさんには幸せになって欲しいが、今となってはもう確認する方法もない。


 隣に眠っているはずの、男の子に視線を向ける。しかし、そこには誰もいない。


 この同棲も夢だったのか?脳裏に一瞬不安がよぎるが、ベッドから香る彼の匂いで気持ちが落ち着く。彼は今、私と暮らしている。安心した。なら、どこにいるの、もう起きたの。彼は早起きが得意では無いはずだけど。


 ――ガチャッ


 私が彼の居場所を目覚めたばかりの回らない頭で考えていると、部屋の扉が開く。


「あれ、起きたんだ。おはよう」

「おはよう」


 愛おしい。そう言えば、全く気にしていなかったけど私今、寝起きすっぴん。すごく恥ずかしい。


「どうして顔を隠すの?」

「恥ずかしい……」


 すっぴんはまだしも、寝癖、寝起きの浮腫んだ顔を見られたくない。


「いつもと変わらないじゃん。綺麗だよ」


 ドキュンっと私の心を射抜かれたのを感じた。目元だけを覗かし、平然を装い感謝する。


「ありがとう。やけに優しいね」

「思ったことを伝えただけだよ……」


 彼はバツ悪そうに苦笑する。じっと見つめられる。


「私の顔好きだよね。見すぎ」

「え、どうだろね」


 こうやってすぐに、はぐらかすのが彼の癖なことはもう私にはお見通しだよ。


「もうちょっと、寝たい……」

「だめ」

「お願い……」

「もう十一時だよ。買い物行かないの?」

「あと十分」

「はぁ……分かったよ」


 彼は私のお願いを受け入れてくれる。彼は現金な人間だって言い張るけど本当は思いやりのある人間だってこと、私は知ってるんだ。彼は私のお願いを最初は否定するけど受け入れてくれる、優しい人です。


 私は十分の眠りについた。だが、十分と言って二度寝する人間は時間通りに起きたりはしない。結局、一時間近くの二度寝を私は楽しんだ。それはもう寝起きの良かったこと。陽向くんに少し叱られちゃったけど……。


 

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