第6話 願い

 荷解きを終えた頃には、日が暮れていた。葵の手を借りることができ、思いのほか早く済ませることができた。


「手伝ってもらったから何か、お礼をさせて欲しい」

「特にないんだよねー。何もしなくていいよ」

「僕のポリシーに反するから」

「そうだったね。じゃあ、私の好きなタイミングで陽向くんを連れ出す権利をちょうだい!」

「そんなことでいいの?」

「いいのいいの」


 そう言って葵は僕を連れ出す権利を得た。疲れたが、葵のおかげで一人で全て行うより幾分か楽だった。だから、葵のお願いは割に合ってないと思う。葵が良いって言うなら僕は何も言わないがな。


 ――ぐぅー

「お腹鳴ってるよ」

「知ってるから、わざわざ言わないで!」

 

 恥ずかしそうにする葵。叱られる僕。思えば、僕たちは昼飯も抜いていて、腹の虫が鳴ってもおかしくない。


「お腹空いたし、どこか食べ行こうか」


 僕の提案に葵が頷き、初めての二人のご飯は外食となった。


「そう言えば葵、君は何が好きなの?」

「勿忘草の花が一番好きかな。私の名前と同じ色してるし」

「そうじゃなくて……」

「あはは、冗談だよ」


 冗談でないと困る。そうでないと会話の脈絡が無さすぎて、会話のできない人とした認識になる。

  

「ハンバーグがいいな」

「本当に好きだよね」

「うん!美味しいんだもん。陽向くんも好きでしょ?」

「好きだよ」


 少女のように無邪気な笑顔で、僕の顔を見つめる。


「一緒だね!」


 僕は素直な人間だ。だから正直に包み隠さずに言おう。


 僕は葵のその表情に、心を奪われた。葵はあの時盗撮した時のように、僕の心を奪った。見惚れた。


「どうしたの?」


 葵が虚像になりかけていた僕を心配そうに見つめる。

 

「なんでもないよ……それじゃあ、行こうか」

「うん!」

 

 元気の良い返事を聞いて、僕たちは近くのびっくりトンキーへ向かった。


 ――――――――――――――――――――――


「ぐっすり眠れそうだね」


 葵は僕のベッドに寝転び、大の字で寛ぐ。そういう僕は、冬用の毛布を床に敷いている。

 

 腹八分目と言う言葉は葵には存在しないらしい。僕の家に訪れた時にも感じていたが、葵の食べっぷりには感嘆を漏らさずには居られない。気がついたら、大きなチーズハンバーグがあっという間になくなったんだ。


「いっぱい食べてたもんね」

「そうだけどさ、人から言われるとちょっと恥ずかしい……」


 葵が少しいじけた表情で言う。僕は分かった。葵が拗ねた表情をすれば、葵の興味を引くものを提案すればコロッと表情が戻る。

 

「今度、ハンバーグ食べ放題のお店連れて行ってあげるよ」

「やったー!絶対行こうね!」


 うっとりとした目を僅かに輝かせながら、ベッドではしゃぐ。


 ほらな。結構チョロい。


「もう寝ようか」

「そうだね」


 ボタンを押し、部屋を消灯する。暗闇の中、毛布という名の寝床につく。


「どうしてそこで寝るの?」

「葵がそこで寝てるからだけど」


 葵が僕のベッドを使っているから、僕は床で寝ている。床は多少硬いが、毛布のおかげで寝る分には困らない。ただ少し暑いが。

 

「隣空いてるけど」

「いや、ここで大丈夫」

「別に占領してる訳じゃないんだからおいでよ」

「断る」

「私の横で寝れんのかね」


 私の料理が食べれんのかね、みたいに言うなよ。


「はぁ……私そんなに身体大きいわけじゃないから、陽向くん一人なら全然寝られるよ?」

 

 そういうことじゃないんだよ。僕のベッドはシングルベッドで、必然的に葵との距離は握りこぶし一つより近くなる。

 

「分かったよ」


 ま、僕と葵の関係値はまだ浅い。仮に一夜の間違いで関係が崩れたとしても、傷心はしないだろう。それに、葵は頑固だから結局僕が折れることになるんだろうしな。


「近いね」

「そうだね」

 

 二人の体重が掛かり、キッと軋むベッド。僕と葵の距離は一寸ほど。僕の鼻孔に女性の甘い香りが届く。

 

『初めての夜だね』


 僅かに震えた緊張を含む声。


『急にどうしたの?』

『何をしてもこの夜の闇の中に消えちゃうね』

『何を言ってんだか……』

『えっちな関係になっても誰にもバレないよ』

『えっ?』


 見つめ合う。葵がゴソゴソと暗闇でも落ち着かないのが伝わってくる。ゴクリと唾を飲む。そういう僕も、心臓の鼓動が収まらない。僕に纏う空気の温度が上がる。

 

『私、身体のメリハリは良いと思うの』

『どういうこと?』

『恥ずかしいから……』


 葵が何を伝えたいのか、ある程度は想像出来る。だけど決定な一言がないと、行動に移せない。


『言葉にしてくれないと分からない』

『私を好きにしても良いから……シよ?』

『じゃあ……』


 Yesと葵から許可が出たのなら、僕は理性のままに動いてもいい。欲望のままに葵を……。


「ねぇ、ちょっと暑くない?」


 か細い声で、僕は現実世界に引き戻される。破廉恥な妄想に後ろめたさを感じ、葵にそっと背を向ける。


「え?もう寝ちゃった?」


 もちろん反応はしない。必殺、寝たフリだ。


 この状況、僕の下半身を巡る血流を鑑みるに、寝たフリでこの場を乗り切るのが得策だ。呼吸を整えろ、鼓動を抑えろ、体温を落ち着かせろと自分に言い聞かせる。


 トンっと背中に掛かる、葵の両手と額の感覚。


「こんなの初めてだよ……」


 僕も他人との同居なんて初めてだよ。


 眠気で視界が意識が遠くなっていく。


「ねぇ陽向くん、助けて……」


 葵らしくない弱々しく、震える悲しげな声。

 

「私を幸せにして!」


 僕ができることなら助けもするし、幸せにもするさ。同居人だしな。


 葵の声が次第に鼓膜に届かなくなる。


「先に……」


 もう限界だ。

 

「私、君がこの世界から……」


 その言葉は眠りについた僕に届くことはなかった。そして、ベッドに流れる一筋の涙にも、彼女が抱える悲しみにも僕は気づくことがなかった。


 

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