第5話 寝室
今日から彼女との暮らしが始まる。
僕の部屋と彼女の部屋は2LDKの部屋の対角に位置している。僕は玄関から入ってすぐ横、七帖の洋室。彼女は廊下を抜けて、リビング横にある僕と同じ七帖の洋室が自室になる予定だ。
現在進行で、僕の荷物が業者の手によって運び込まれている。
振り返れば、ちょうど一か月前だ。催しに参加していた僕たちは再会し、トントン拍子で同居の準備が始まった。再会当日に物件を探し、契約した。
今、思い出すと、なぜあの時強引に断らなかったのか。盗撮、犯罪と脅されても、普段の僕なら強引にでも断っていたはずだ。それなのに、僕は彼女との暮らしを了承した。多少の興味というものがなかったわけではない。だが、それが彼女との暮らしを決定づける理由ではないのは確か。
考えても過去のことは変わらない。目の前の作業の手伝いでもするか。部屋の配置も考えないとな。
――ガチャッ
「お疲れ様です!」
玄関から扉を開く音と共に元気な挨拶が部屋中に響き渡る。
「あ、居た」
僕の部屋を覗き、彼女が僕の横に位置取る。
「君は奥の部屋で良かったんだよね?」
「…………」
真横の彼女は僕の言葉が聞こえるはずなのに反応をしない。これは意図的な、無視だ。
「ねぇ、君どうして無視するの」
「…………」
「ねえ!」
「……呼び方」
あぁ、そうだった。あの夜、葵って呼んでと言ってたな。
「葵」
「どしたの?」
「奥の部屋で良かったの?」
「大丈夫だよ。もう荷物、終わりそう?」
僕は荷物を新居に少ししか持ってこなかった。だからもうすぐ終わるだろう。
それにしても、葵はリュックサック一つのみ。少なすぎないだろうか。そして唯一の荷物を僕の部屋に置いた。
「自分の部屋に持っていかないの?」
「何言ってんの。二人の愛の巣だよ?」
「何言ってんのって、こっちのセリフなんだけど……」
愛の巣って。僕と彼女の関係値は、恋人ではない。僕たちの間には、愛なんて感情はない。
「二人で寝ないの?」
「寝ないよ。逆にどうして一緒に寝るつもりなの……」
「その方が距離が縮まるから」
「物理的な距離の話か、心理的な距離の話か分からない」
「両方だよ」
物理的な距離なら、一緒に寝てまで近づける必要がない。現にこうして、僕と葵との距離は握りこぶし一つ分。
そして、心理的な距離に関しても一緒に生活するうちに、距離は縮まるだろう。
だから葵の提案を受け入れる必要ない。自分のテリトリーを確保し、一人で安らぎたい。葵と共に寝るメリットがないのだ。
まあ、一番の理由は葵の容姿は優れているから。それもすごく優れている。街を歩けば、男は一度目線を寄越すくらいに容姿が綺麗だ。それに加えて、ずるいくらいにスタイルも良い。
世の男なら、僕が何を言いたいかわかるだろ?
そう、僕は葵と毎日共に夜を過ごす中で、恋心はなくとも理性に歯止めを効かせられる自信がない。僕が葵を欲望のままに襲い、僕に対して憎悪の感情を持たれてみろ。そうなれば、居心地が良くあるべきはずの家は180度違う、居心地の悪い場所となる。
「メリットよりデメリットの方が大きいよ」
「私は損得で判断しないの」
聞き覚えのあるセリフ。だけど僕は違う。恋人ならまだしも、他人に対しては損得を第一に判断する。
「僕は現金な人間なんだよ。損得で判断する」
「私たち性格、真反対だもんね」
葵が、そう言い微笑み、僕は苦笑する。
陽気な葵と陰気な僕。なるべく誰かと居たい葵と一人を望む僕。葵が言うように、僕たちの性格は真反対だ。
「凹凸な二人だからこそ惹かれ合うんだろうね」
また訳の分からないことを言い始めた。正直に言おう。僕は確かに葵に初対面の時に見惚れたよ。でもそれは外見の話。まだ葵のことを深くは知らないし、恋心も芽生えてはいない。
「はいはい、話が逸れてるよ」
だからこそ、適当に流した。
「リビングはあとからレイアウトするよね?」
「そうだね。あとから買い揃えよう」
「食卓は大きい方がいいね」
「二人だから大きくなくてもいいでしょ」
「えーそうかな?誰か来るかもよ」
「そうだね。家具屋で見て決めよう」
「うん!テレビ欲しいよね」
「そうだね」
会話のテンポが早くなっていく。
「洗濯機もいるね」
「そうだね」
「冷蔵庫もいるよね」
「そうだね」
「食器も買い揃えなきゃ」
「そうだね」
「収納部屋もあれば便利だよね」
「そうだね」
「なら寝室をひとつにした方がいいよね」
「そうだね」
「ベッドは一緒にする?別々は寂しいよね」
「…………ちょっと待って」
勢いで了承してしまった。会話のテンポが上がった時点で勘ぐるべきだったが、自然な流れで反応できなかった。
「葵、君は見た目に反して相当頑固だよね」
「お淑やかで、か弱そうで、かわいいのに強気なところがあってギャップ萌えだよね」
「自分で言っちゃうんだ」
「だってそうでしょ?」
「そうだね」
自己肯定感が高くて何よりだ。
「寝室は向こうの部屋にするとして、こっちの部屋は収納部屋にしようね」
「…………」
「都合が悪くなったら黙るのはダメだよ」
「お情けを頂けませんか?」
「何のお情けなのか分からないなー」
葵が揶揄うような視線でこちらを見る。
「なにかひとつ言うことを聞くから、僕の発言を聞かなかったことにして欲しい」
「しょうがないなぁ……じゃあ今日寝床がないから。ね?」
あたかも僕の発言を見越していたような言い草。今日だけは一緒に寝ようということらしい。今日だけなら、耐えられるはず。
「ところで、部屋は分けようよ」
「どうして?」
「お互い一人になりたい時もあるだろうから」
僕たちはもう大人だ。誰にも見られたくない瞬間もある。僕も葵も同じように。
「そうだね。一人になりたいこともあるよねー」
葵は「あーなるほど」と何かを察したような表情をして、ニヤニヤしながら僕の意見を受け入れてくれた。意見を通すことができたが、なぜか彼女に負けた気分になる。
結果として、僕は自分専用の部屋を手に入れた。そして同時に、僕は人生で初めて試合に勝ち勝負に負けたという感覚を味わった。とても悔しい気持ちだった。
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