紫煙の姿は我のみぞ

 煙が立つ。

 夕焼け空が綺麗だ、と思うよりも早く灰色の煙が視界に漂う。鳥が視界を横切る。あっという間に飛んでいく。

 呼吸が乱れることはない。私の呼吸は、正しく機能し、吸って吐く。だのに煙は漂わない。

 生息のための運動は、今だけは手指と連動していた。口元に手をやる動き。コントローラーのトリガーを押す動き。長く押し、離す。その繰り返しと共に呼吸がされる。

 擬似的な喫煙。

 私はこの世界で息をしている。

「パプリカはリアルじゃ吸わないのに、よくもまあ実装しようと思ったよね」

 隣に居た男が私に声を掛ける。彼も煙草を吸っている。

 彼も、擬似的な喫煙をしている。

「憧れってあるじゃん? そういうものだよ。それにこのアバターに合うと思ってたし」

 河川敷を模した仮想現実に身を置いている。

 ヘッドマウントディスプレイを装着し、寝転びながら仮想現実で煙草を吸っている。本来ならば、寝転がりながら煙草を吸うだなんて正気ではない。けれどそれを実現するのが仮想現実というものだ。仮想空間の煙であれば誰に怒られる心配もないし、何より火事を気にしなくてよい。

 隣に居る黒髪の男だってそうだ。話によれば、寝転んでいるらしい。

 見た目年齢は二十歳前後のアバターだ。ショートの黒髪がよく似合う黄色の瞳に、黒髪と合わせたストリートファッションがクールな印象を与えてくる。

 私が愛用している女の子のアバターとはまったく違うヒスイさんは、私と同じギミックで煙草を吸っている。

「ギミックってさ、すごいよねえ。ちょっと実装の手間をかければ何処でも無料で煙草が吸えちゃうんだから」

「パプリカそれ何回目だよ。それに一番最初にお金を払っているんだから無料じゃないよ」

「日割り計算になったら限りなく無料になると思わない?」

「それは此処に居すぎってこと」

 小突くように煙草を向けられ、そのまま額に触れそうになる。ひい、と私は声をあげて、コントローラーのスティックを倒して距離を取る。

「根性焼き! バーチャル根性焼き!」

「バーチャル根性焼きって何? 焼けないよ。そういうギミックじゃないんだから」

「いーや、今のはバーチャル根性焼き」

「じゃあ今度バーチャルバイオレンスするか」

「新しい世界だ……」

「嘘に決まってるだろ」

 くはは、とヒスイさんが笑う。アバターの表情はヘッドマウントディスプレイのコントローラーによって制御されている。なので、言葉とはほんの少しの間を置いて彼の表情は変わる。

 私は一旦煙草をしまい、近くのボタンを操作した。現実なら浮遊しているように設置してあるボタンによって目の前に鏡が現れる。額のないそれは透明なしきりのようでもある。

 鏡でじいとみる。自分のアバターは黒髪で灰色の瞳をしている。フェミニンな恰好にずっと憧れていたので、絶対に着ないようなオフショルダーのお洋服を選んだ。

 額にはもちろん、バーチャル根性焼きの跡はない。

 額を見るリアクションも寝転がりながらしている。現実の私は、空中に向かって難しい表情をしながら、ヘッドマウントディスプレイを装着した額をコントローラー越しに擦っているはずだ。

「可愛い女の子が煙草を吸ってると嬉しいんだもんなあ。難儀なパプリカ」

「現実でもそういう子はいるでしょ? たまたまだよ。たまたま可愛いアバターに改変できたから、やってみただけです」

「とか言いながら全部のアバターに煙草を仕込んでるくせに」

「う……」

「趣味わかりやすすぎ」

 ヒスイさんがやれやれと肩を竦める。

 すっと彼は私の隣に移動をして、同じように鏡を見る。あんまりお似合いとは言えない。街で並んで歩いているのを見かけたら、趣味が合わないカップルのように思うだろう。

「ヒスイさんはそんなにアバターを持ってないよね。少ないけどいっぱい自分好みに改変してる感じがする」

「矛盾してない?」

「そこ?」

「まあ……まあそうかも。そこまで好きな顔とかないしね。いいなーってものをずっと普段使いして、たまにアレンジして……みたいな感じかな」

 彼が顎を引いて自身の姿を見つめ直す。

 頬の輪郭をくるりと描いてから「なんか……お気に入りの服を買って、着まわしているイメージなんだよね」と続けた。

「だから一着でいいし。あとはアクセサリーとか他の洋服を変えればいいだけなんだ。でも、そうだね。パプリカはそうなんだ。へえ」

「なにそのわかった、みたいな声」

「今わかったからだよ。パプリカはなんだか一着じゃ満足しなさそうだね。そんなに持ってるし」

「そんなに持ってる……持ってるけど!」

「けど?」

「いいでしょ、別に」

 ふん、とそっぽを向く。事実なので何も言い返しようがなかった。

「あーはいはい。いろんな可愛いが着れて偉いね、パプリカは」

「ヒスイさん!」

「冗談だよ。見てて飽きないからそれでいてほしいよ」

「なにそれ……」

 適当な言い方に思わずがっくりとうなだれてしまう。

「あーはいはい。いい子だねー撫でようか」

「なんでそうなるの! 撫でればいいと思っているでしょう。今日の私はそこまで甘くはないんだから」

「じゃあどうしたらいいわけさ」

「そうだな、じゃあ今日の睡眠を手伝ってくれたらいいでしょう」

「また?」

 彼が「いつもやってるじゃん」と言わんばかりにこちらを見る。私は抵抗として、黙った。

 ヒスイさんとは睡眠まで一緒にする仲だ。仮想現実の中で遊び、駄弁り、そして睡眠をする仲である。仮想現実でも目を瞑り、現実でも瞑る。寝息はマイクをミュートにして聞こえないようにする。寝返りをうつと、あっという間にトラッキングがねじれてアバターは人間のかたちではなくなってしまう。

 そんなおかしなことをしている仲だから、それなりにいい間柄だと思う。

 私にとっては。

「今日は普通に寝ようと思ったんだけどなあ。まあ仕方ないか。ヒスイさんがやらかしちゃったもんな」

「やらかしてないよ。パプリカがそう言っているだけ」

「でも付き合わせるから、今日は」

「はいはい」

 ヒスイさんは一生火が点いたままの煙草をもう一度咥えた。この仮想現実の煙草には、灰を落とす仕草はあれど、灰がくたびれ勝手に落ちる、という現象はない。

 私は気になって振り返った。

 現代日本にありそうな河川敷が広がっている。

 流れる川と石ころたち。グラフィティでめちゃくちゃになっている壁が治安の悪さを誇っている。

 現代社会の歯車として生きている私にとっては、もう近寄らないような場所だ。

 大人になってしまい、お金はそこそこに用意ができても、遊ばなくなってしまった。仮想現実という逃げ場を見つけて、のうのうと暮らしているようなものだ。現実から逃げたい。だから仮想空間にいる。ヘッドマウントディスプレイの向こうに居る。

「似合わないかなあ」

 この河川敷には吸殻缶こそあるものの、煙草を吸うためにあるわけではない。ただ「ここに来るとなんだか吸っちゃうんだよね」とくすくす笑いながらヒスイさんが言っていたのを覚えている。

 自分のアバターを見つめ直す。黒髪に灰色の瞳。オフショルダーの、ふわふわした素材の服。もう着れないニーハイソックス。ショートパンツからするっと出てくる煙草を取り出して、ライターを持つようにする。背景は河川敷だ。

「……アンバランスかも?」

「やっと気づいた?」

 ヒスイさんがくはは、と笑って煙を揺らす。

 あまり世界と似つかわしくない私と正反対で、治安が悪そうな恰好をしているヒスイさんはいかにもこの河川敷でグラフィティを描こうとする青年だった。

「私が教えたのに、ヒスイさんが似合ってるの、ずるいよ」

「パプリカが似合いそうって教えてくれたんだよ」

「そうだけど」

「でもいいんじゃない。似合わない方が此処っぽいよ」

 私はヒスイさんのその言葉をじいっと聞き、咀嚼した。

 時計を見る。そろそろ零時になる。

「何時に寝るの」

 彼の問いに私は「あともう一本吸ってから」と言った。私は煙草一本にかける時間のことを知らないけれど、この台詞が私にとって「もうちょっと話そうよ」の意味であることをヒスイさんはよく知っていた。


 ――河川敷で寝る?

 ――コンテナの中はヤダ。

 そんなやり取りがあり、場所を変更した。雨がしとしとと降る狭い、ベッド一つとローテーブルしかないような場所だ。さっきまで居た河川敷は広く高低差もそれなりにあったけれど、ここは平坦で現実にさらに近い。

 外の景色までははっきりと見えない。雨が降っていることだけがわかる。3Dで作られているかもわからない、もしかしたら画像一枚かもしれない、もやがかかったような世界がある。

 室内は暗く落ち着いた彩色のインテリアが並ぶ。ホワイトノイズがスピーカーから流れている。

「パプリカ、明日仕事でしょ」

「はあい」

ぽんぽんとベッドを叩くヒスイさんに返事をした。

 仮想現実だからと、普段着で寝ないのが私とヒスイさんだった。

 私は淡い色のネグリジェを用意して、ヒスイさんはラフなTシャツとスウェットに着替えていた。私に至っては、顔を――アバターを変えていた。今度はネグリジェに合わせてピンク色の髪の毛をした、水色の瞳の女の子だ。

 先ほどのヒスイさんの例えは妙だと思う。私はたくさん着替える。ヒスイさんは一着を愛する。

「よくもまあ、見せる相手がいないのに可愛くするよね」

「え、ヒスイさんまた嫌味?」

「いいや、あんまりそういうことしないから。これだってごろごろするためのものだったし」

「ああ、そういう」

「だからパプリカの用意周到な感じは、少し羨ましい」

 くすくすと笑いながらヒスイさんが言う。

 ――別にヒスイさんに見せるためじゃないけどね。

 そう返そうとしたが、やめた。

 先に横になったのは私だった。

 ベッドで座り、私を見下げているヒスイさんは「早く寝な」と言う。

「それ言うならヒスイさんも」

 ばしばしと布団を、コントローラーを握っている手で叩く。この行為だけは現実と連動をしていた。

 渋々ヒスイさんが横になる。

 顔の近さには興味がなくなってしまった。ダブルベッドにちょうどつま先が触れ合うかどうかの境界線に居るというのに、嫌な気分にならない。

 しかし、私たちは付き合っていない。

 付き合っていないのだ。

 この男とも女ともわからない人間のことを、私は多く知らない。声は中性的で、極端に高くも低くもできる。仕事をしているのか不明だけれど、一緒に遊んだり話したりする時間は夜からだと決まっている。仮想現実以外での、この世界以外でのやりとりを知らない。

 言葉にするのも不思議と億劫になる。「私、ヒスイさんのことが好きです」と思ったことはあるけれど、はっきりと声に出してしまうと違和感が出る。そうじゃない。私とヒスイさんはそういう関係ではないようなのだ。

 じゃあなんと呼ぶのだろう。親友? それにしては何も知らなさすぎる。知り合い? それにしては時間を過ごしすぎている。悪友? 悪いことなど何もない。

 何もないから、いつもどう話そうかを困ってしまう。この現実ではないベッドの上で、何を語ればいいのかわからなくなる。

「……前々も言ったけど、パートナーとかいないんだよね?」

「なんだよ。いないよ。だからパプリカに付き合ってるんだよ」

「何度も言うけど、私は不倫とか御免って感じだから。だからもし、ヒスイさんにいたら……ウッ!」

 もがくようにしてみれば、チョップが飛んでくる。痛くはない。勝手にされているのはアバターの私の方だ。

「なに」

「絶対困る。どれだけ私に時間を割いてるの、ヒスイさん」

「どのくらいだろうなあ。そこそこじゃないか?」

「私に並ぶぐらいの人、いるの?」

「居ないと思う。そこまで交友広いわけじゃないし」

「へえ」

「満足げじゃん」

「そりゃあ、まあ」

 決して支配できない関係だとわかっている。わかっているからこそ、彼の言葉が嬉しかった。

 くすくす笑って前を見れば、顔のいい男がいた。

 仮想現実なので悪くしようと思わなければ整った顔の人が現れる。そのことをすっかりと忘れていた私は、きゅっと目を瞑った。おそるおそる目を開けても、顔の整った人間が――アバターがあった。

 ――アバターのセンスが良いよな、このヒスイさんは。

 不思議と照れることも、驚くこともなかった。この世界の人物は大抵、顔が整っているものだと認識している。

 ざあざあと雨音がしている。ホワイトノイズが切り替わったのだ。

「嬉しいから早く寝るわ」

「そうしな。こっちはやっぱり煙草一本いってから寝るから」

 ヒスイさんの声が笑っていた。仕方がないなあ、と言わんばかりの声だった。

 む、と顔をしかめる。しかしそれはヒスイさんには伝わらない。

「起きた時にヒスイさんがいなかったら許さないから」

「はいはい。早起きなことで」

「じゃ、おやすみなさい」

「おやすみなさい」

 私はヘッドマウントディスプレイを装着しながら目をつむる。

 薄い明かりの向こうで、何をしているかわからない。ヒスイさんのぬくもりもわからないまま、浅く泥のような眠りに落ちる。


 ヘッドマウントディスプレイを装着している理由でスマートフォンのアラーム機能を使わなくなった。ヘッドマウントディスプレイからアラームを鳴らしてしまえばいいだけのことだから。

 チチチと小鳥のようなアラームが両耳に響き、目を覚ました。

 目を開けて起き上がれば、ベッドと一体化して身体がめちゃくちゃになっているヒスイさんがいた。あらぬ方向に身体がひしゃげていて、人間の形をしていない。元からアバターというものが立った状態や座った状態でのみ機能することを前提としているのがよくわかる。

「じゃあ、おはよういってきまーす」

 軽く言うと呻くような声で「いってら……」と声がした。

 寝言かどうかわからない、いつもより妙に低い声が出るのがヒスイさんの朝の一声だった。

 ヘッドマウントディスプレイを外す。

 パソコンの異様な排気音がする。部屋は冷房が効いていてそこそこ涼しい。しわくちゃになった洋服たちが様々な場所に散っている。汚い部屋。おしゃれな部屋は何処にもない。

 ――現実、めんどくさ。

 そう思いながら準備を始めた。十二時間とちょっとすれば、家に帰ってこれるのだから、多少の我慢はやむを得ない。

 大体の生活の基準が仮想現実になっているので、食事はさくさくと食べ、風呂もさっさと入り、布団の近くでヘッドマウントディスプレイを装着する日常になっている。それくらいしか趣味がない。他の趣味もあったけれど、今はもういいいやと思ってしまっている。

 友人も写真に残っているぐらいだ。様々なライフイベントが重なって、いつの間にか自分は取り残された側になった。冠婚葬祭に身の丈が合っていなかったのだと思う。

 だから仮想現実が好きなのかもしれない。自分が自分でなくなり、他の誰かになれる感覚が好きなのだろう。だから自分を山のように買う。違う自分が欲しくて、買う。

 ――ヒスイさんはあのアバターに何を感じているんだろうな。

 そう思いながら歯を磨く。たった一着しか持たないヒスイさん。それでいいと言ってのけ、けれどファッションやアクセサリーでアレンジをしながら過ごしている。そんな彼のことを、やはり自分はあまり知らない。

 好きなもののことをあまり話さない。嫌いなものについても話さない。いつも話すのは私のことだとか、渡り歩いている仮想現実の世界の話ばかりだ。彼のパーソナルな部分に触れたことがない。触れても「でもいいんじゃない」で終わってしまう。彼は肯定も否定もせず、想像の余地を残しながら過ごしている。

 姿が見えるのに掴めない。

 まるで煙のようだ。

 彼の本当は何処にあるのだろう。

 仕事をつつがなくこなしながら過ごす。頭の中を仮想現実のことばかりでいっぱいにしながら、とんとんと何かをこなす。まるで生きた心地がしない。息をしているのは間違いなくこちらの世界であるのに、全くそんな気がしない。楽しんでいる、という意味ではずっと仮想現実の方がしっくりと来る。

 ランチタイムを終え、歯磨きをしている最中に自分の姿が気になった。

 アバターとは全く異なる、オフィスカジュアルに身を包んだ私。絶対にオフショルダーだなんて職場には着て行けない。そもそも私はそういう服を買わない。ただ、アバターの顔や雰囲気に似合いそうだから一生懸命に検索して選んでいる。自分の洋服はそんなことをしないくせに。

 現実と仮想現実、もはやどちらにお金をかけているのかは目に見えている。食費や光熱費を差し引けば、娯楽は全部仮想現実に捧げられてしまった。それが悪いとは思わない。だってそれが私の趣味だから。

 ふと考えてしまう。仮想現実の友人は、ヒスイさんをはじめとした――私にだってある、ヒスイさん以外の関係についても、現実と言えるのだろうか。あの場所だけの存在なのだろうか。あの仮想現実だからこそ成り立っているもので、現実では一切合切再現ができないものなのだろうか。

 難しいな、と思いながら強い力で歯を磨いてしまった。ブラシが歯肉を刺激して、唾液と混じった血が漏れる。

 聞いてみようか。直接話してみようか、とヒスイさんのことを考えた。

 ――私たちってどんな関係?

 想像をしても、頭の中のヒスイさんは、はぐらかす。「パプリカはパプリカだよ」というニュートラルで優しい言葉が私のことを突き刺した。

「私、ヒスイさんのことが好きだよ」

 表現してみても実感がない。嫌いというわけではない。リアリティがない。

 仮想現実というものは、やっぱり仮想現実で終わるのかもしれない。

 だったらそれにかけている時間は無駄なのだろうか。徒労で終わる? そんなこと、そんなこと……。

 

「珍しく昨日いなかったじゃん」

 ヒスイさんがいつもよりしっかりとしたワイシャツ姿で言う。

 悩んで昨日は仮想現実に来れなかった。現実を眺めていた。お洋服にかけているお金のこと、電気代のこと、新調したパソコンのことなど、挙げたらキリがないことに苦労した。

 仮想現実では顔色がわからない。嘘をつくハンドサインで動く表情たちだけが存在している。彼らはいつも空虚を表している。

 ぷかぷかと煙草を吸いながら登場したヒスイさんが背伸びをする。

「今日は立ってるの?」

「うん。立ってる。寝っ転がってやらないから、結構新鮮」

「いつも寝てるんだ」

「そういうこと」

 くわ、とリップシンクした口元が大きく開く。あくびの予感がした。

 集合した場所は何処ともわからない水族館の中だった。大きな鯨が水槽の中で飼われ、ぼこぼこと泡をたてる。

 真っ青な空間に煙が燻る。

「昨日さ、カシザキさんがパプリカのことを探してたよ」

「カシザキさん? あー……この前改変手伝ったなあ」

「そうそう。だからお礼が言いたいって。似合いそうな服をなんか贈りたいって」

「げえ」

 思わずおかしな声が出た。

 カシザキさんは立派な男性だった。ハスキーな声が特徴的な彼は良い人であるのはわかるけれども、たった一時間ちょっと改変を手伝ったぐらいで千円単位のものを渡されても、困る。

 私はうだうだ言いながら「カシザキさんに会ったらいらないですよって言っておいて」と返した。

「貰えば良いのに。カシザキさん、変な気はなさそうだったよ」

「あるとかないとかじゃなくて、良心の問題なの。ちょっと知識を貸しただけで、そんなお礼はいらないって感じで……それならこれからも遊んでください、みたいな」

「遊ぶって言ったってパプリカはゲームとかしない人間じゃん」

「散歩とか」

「あー、散歩ね」

 そうかそうか、とヒスイさんは頷く。チャカ、とライターをいじる音が響く。

 ゲームもしない、遊ぶと言っても雑談しかしない。たまの散歩であっても、黙ってするわけでもなく、つらつらと喋っているだけの時間になる。常に会話を求めている。人間の錯覚を覚えようとしている。

 ――現実より喋ってる。

 辛く感じた。

 ――現実より仲がいい。

 悪いことではない。でも感じている。滔々としている時間のうち、現実から目を背ける時間が途方もなく多くなって、いつか直視が出来なくなるのではないか、と考えてしまった。

「パプリカ?」

 ヒスイさんが私を呼び戻す。

 火気厳禁と書かれたポスターの前にヒスイさんがいることに気づいて、なんだかおかしくなってしまった。

「あの、ヒスイさん」

 ――今しかない。

「ヒスイさんって、女の人、だよね」

 同族と考えた理由なんて、気が合うから以外存在しなかった。

 たとえ男性であっても、それはそれで良かった。今、私が求めているのはヒスイさんが現実にいる、その事実を断片的にでもいいから、得ることだった。

 ヒスイさんはしばらく黙り、煙草をしまった。

「歩きながら話そうよ」

 狭い水族館でもなかった。仮想現実では相手を引っ張ることが難しい。だからヒスイさんは、くいくい、と進行方向を指して、私を呼んだ。

 先導する彼の後ろを歩く。

「どうして聞こうと思ったの?」

 男女のどちらとも言えない声がする。

「……実感が欲しくなったから」

「実感?」

「身の上話になるけど、私ってリアルで友だちがいなくなちゃったんだよね。疎遠っていうか、みんな人生に忙しいみたいで、連絡が取れなくなったっていうか……」

「ああ、そういうことはあるよね」

「だから仮想現実に来てばっかりで、でも、それって本当に友だちを作ったり、遊んだりしてる証拠になるのか不安になっちゃったんだよね。だから、なんかついに聞いちゃった」

「なるほどね。そういう理由か」

 ヒスイさんは私を責めるでもなく、想像通りのニュートラルな声で相槌を打つ。

「聞いておくけど、男だったらどうする?」

「え……どっちでもいい。ヒスイさんが男でも女でもいい。ヒスイさんが現実の人間だって証拠が欲しい」

「なんだそりゃ」

 私の極端で矮小がお願いにヒスイさんは笑った。

「別にいいよ。言いふらさなかったら教えても」

「い、言いふらしたりなんかしないよ」

「パプリカだったら教えてあげる」

「……特別?」

 ヒスイさんは頷いた。

「私は女だよ」

 たったそれだけだった。

 たった一つの単語だけで、ヒスイさんという存在が大きく変わっていく。元からあった余地がさらに広がっていく。女性だったらつまり、と深く推理する自分が登場する。もっと知りたいと欲望を出す自分がある。

 どっとやってきた感情たちに整理がつかず黙っていると、ヒスイさんが私を覗く。

「うわ!」

 気にしていなかった顔の近さに声が出た。

 男性の姿をしているのに女性なのだ、と感動をしている自分がいる。それと同時に、なんで同性なのに煌めいているんだ、と少々の違和感を得る自分もいる。

 間違っていないのは私はヒスイさんに好意的なことだけだった。

「パプリカ、意識してるね」

「いや、いやそんなことない。女の子同士だし」

「今は俺って言った方がいい?」

「いや、いい。めちゃくちゃになりそう」

「数秒前まで普通だったのに、これかい」

 私の打って変わった対応にヒスイさんがさらに爆笑する。ゲラゲラと笑う彼女の声は、意識してみると女性のような感じがした。

 でもきっと、男性と言われていたら私は男性だと感じていたのだろう。

 ヒスイさんは未だ仮想現実のボーダーラインで生きていた。

「それで? 現実感は増した?」

「それなりにはね。まだちょっと理解が追いついてないけど」

「男性が良かった?」

「そんなことはないけど」

「じゃあもっと喜んでよ。特別な秘密なんだから」

 彼女は立ち止まった。

「……話したことないの?」

「どっちでもいいと思っているし、実際どっちでもいいからね。たまたま身体が女ってだけで」

「込み入った話をするけど、LGBTとかそういうこと?」

「そうじゃない。私がそこまで性別に興味がないっていう話なだけ。そんなかしこまった話じゃないよ」

 ヒスイさんが肩甲骨を伸ばす。立っているのは本当らしい。

「なんかさ、こういう場所だとか、ゲームだとか、性別を選べるなら男にしているんだよね。女の子が嫌なわけじゃなくて、なんだろうな。男を選んで別の世界を覗いてみたい、みたいな? 女の子にだってなれるよ。間違ってないし。でも、自分からはしないっていうだけ」

「そのアバターを選んだのも、その理由から?」

「そうだね。それになんとなく女性人気が高そうだなって思ったから、これにしてる」

「……モテたかったの?」

「引っ掛けたかったのかもね」

 曖昧にヒスイさんは答える。

「なら私は見事に引っ掛かったわけだ」

「そうなの? 嬉しいね」

「ヒスイさん、詐欺師が似合うよ」

「詐欺師ぃ?」

 不満げに彼女は言った。

 すると彼女はお洋服を変える。胡散臭いチャイナと丸型のサングラスをかけて「こんな感じだ」と話す。黒髪で金色の目をしているのは変わらない。

「そうそう。そんな詐欺師」

「言うねえ。もしかして私が嘘を吐いていると思っていたりしない?」

「してないよ。ヒスイさんのこと、信じる」

「なら良し」

 くしゃりとヒスイさんが笑う。ハンドサインで変えられる表情だって、嘘を吐いているかもしれないのに、私は喜んでしまう。

 ただ、その声音が虚構でないことを祈るばかりだった。不安だからじゃない。私が勝手に信じて安心したいから、そんなことを思う。

「大丈夫だって、パプリカ」

 ヒスイさんがゆっくりと語る。

「私は知ってるよ。パプリカがこうして、仮想現実で生きてること。現実でも頑張って苦しんでることも、こっちで楽しく遊んでいることも、話していることも、服の趣味だって」

「……うん」

「だからそんな風に思うなって。私はパプリカの味方だよ」

 優しい声だ。しかしニュートラルではない。私の味方という、ヒーローに彼は、彼女はなっていた。

 ほろほろと涙が落ちそうになった。ヘッドマウントディスプレイが曇る。

「ちょっと待って」

 一度ヘッドマウントディスプレイを外して呼吸をした。

 自分の部屋が広く思えた。

 ティッシュを探して目元を拭く。

 再度、ヘッドマウントディスプレイを装着する。

 そこには現実に居ないヒスイさんが居た。いつものおしゃれな恰好で、男性の姿をした、私にとっての味方――彼女はそこに間違いなく居た。

 私はたたた、と歩いた。スティックを傾けるだけの動作。脚と連動していないそれに、気持ちを込め私はヒスイさんの前に躍り出る。

「じゃあ今日は秘密共有記念日ということで、水族館デートだ」

「いい考えだね。エスコートしよう」

 ヒスイさんが手を伸ばしてくる。

 私はその手に自分の手を重ねた。仮想現実の私たちは確かに手を繋いでいた。

「その前にヤニ吸っていい?」

 すぱ、と煙草を吸うモーションをすると、はあ、と長いため息がヒスイさんから漏れた。

「ムード台無し」

「あはは」

「でもパプリカらしいや」

 かちゃん、とライターを点けた。煙草を一本取りだして、息を吸う。トリガーを押す。息を吐く。トリガーを離す。煙が立つ。

 私たちはそれ以上を語らなかった。詮索もしなかった。彼女が本当に女性であることは、仮想現実の言い分であるから、不透明なままになった。

 それでも私の前には、ストリートファッションに身を包み、仮想なりに過ごし、遊んでいるヒスイさんが居た。

 水族館をぐるりと回る。様々な魚が泳いでいた。最終的に、疲れた、なんてそれらしいことを口にする。

 顔を見合わせた私たちは、なんとなく気配を感じて、同じように頷いた。

「寝る?」

「寝るか」

「いつものところ?」

「いつものところ」

 わかったような台詞を吐く。

 付き合っていない。仮想現実で告白したわけでもない。居心地の良さ故に、現状があるだけだ。特別な存在と呼んでもいいのだろうけれど、恋人も親友も似合わない。

 現実での他人。仮想現実での、親しい何か。

 私たちは同じベッドに寝そべり、危険なことをする。煙草を吸い、くつくつと笑う。

「私さ」

 ベッドの中で小さな声を出す。ヒスイさんがこちらを向いた。

「私、ヒスイさんのこと、好きだよ」

 煙が立つ。仮想現実で副流煙を吸う。吐く。生きている。

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愛とか恋とか知らないよ 伊佐木ふゆ @winter_win

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