色濃く茶濃く休すれば

 観葉植物の葉に触れて目を覚ました。

 名前の分からないそれを見ると、眼前にまで葉があり、鼻先をくすぐるようだった。思わず「わあ」と小さく叫んだ。

 飛び上がると、ようやく周辺を見る力が戻ってきた。

 白い天井。

 白い布。

 ありったけの観葉植物。

 ベッドを取り囲むようにして置かれているそれらの名前はわからないが、よく育っていることがわかる。おそらく多肉植物はなくて、一般的な――知らない自分が一般的と語るのもどうかと思うが、一般的な観葉植物だらけだった。

 改めて周辺を見る。

 少し離れた位置にあるローテーブル。ミネラルウォーターのペットボトルが二つ。座椅子が一つ。棚には実用的なビジネス書が数冊ほど。観葉植物に水をやるために用意されているのだろう如雨露。

 この日の自分はよく冴えていて、一人暮らしの部屋だということに気づいた。

 また、この場所が自分の家ではないことも理解した。

 思わず叫びそうになるのを堪えた。その代わりに観葉植物の葉が鼻をくすぐったのでくしゃみをした。

 へっくしょい、という大きなくしゃみの後でも、しんとした沈黙が続いており、一人であることを思い知る。ここは何処だ? という問いかけが渦巻く。

 まず昨日何をしたのかを思い出さねばならない、とおぼろげな記憶を辿る。仕事、仕事、仕事、仕事――と残業三時間半。それからいつもの労いと称したテキーラワンショットをいきつけのバーで飲んで帰ったはず。

 はず、というのがあまりにも弱弱しかった。事実、自分が帰路についたという自信がまったくない。

 というか酒で失敗をした可能性が高い。ほぼ失敗している。失敗していなかったら、知らない部屋になどいない。

 急に息苦しくなり、部屋を見渡す。壁掛け時計は午前十時と示している。

「始業……」

 午前十時と言えば始業だ。たいてい午前八時に起きて、三十分で支度をして、一時間十五分かけて出勤する。それから十五分前にデスクについて、朝食ついでに仕事を始める。無心でキーボードを叩いたり、マウスホイールを回したり、会議をする。エナジードリンクを昼食に飲む。たまにブラックコーヒーにする。午後七時が終業時間だけれど、残業が待っているので働く。午後十時半になりようやくの解放と、一杯の楽しみを得てから帰路につく。家に到着するのは二十四時。寝るのは二十五時……。

 思い出して嫌になる生活をしているな、と思いつつも慣れた身体は飛び出そうとしていた。始業。それはどうにもならない地獄の合図。

 ベッド近くに置かれていた自分のバッグを持っていざ走らんと踏み出した。

 真正面にある扉が開いた。

 女性が出てきた。

「え?」

 黒のタンクトップに灰色のスウェットパンツを着て、首に白いバスタオルを巻いている。手にはスウェットパンツとセットなのだろうパーカーを持っていた。

 びちょびちょとまでは言わないが、それなりに濡れた髪の毛をしていた。

 チョコレート色の髪色だった。

 彼女は――女性は少し驚いた表情こそしたものの、おれのように驚いてはいなかった。飛び上がるように驚いたのはこちらだけだった。

「おはようございます……」

「おはようございます」

 ほぼ反射的に挨拶をしてしまう。

 はは、じゃあ始業なんで帰ります、とはすぐには言えなかった。

 女性はパーカーをローテーブルに置き、首を傾けながらこちらに話した。疑問などではなく、心配そうな声色だった。

「大丈夫ですか? 体調、おかしなところはありませんか?」

「えっ、あっ、大丈夫ですけど、あの」

「吐いて倒れてたから……あ、水! 水は飲みましたか?」

 ミネラルウォーターを指して彼女が言う。

「飲んでません。今起きたところで……」

「じゃあ飲んでください。水分不足でまた倒れちゃうかも」

 彼女がペットボトルのキャップを外しておれに差し出す。飲め、という合図であることは明白だったのでぐい、と一口飲んだ。清涼感とは程遠いアルコールの残り香があるような気がした。

 水を飲むと彼女はにこ、と笑った。

「でも起きてくれて良かった。このままだと、救急車が必要かなって思っていたころなの」

「救急車……?」

「急性アルコール中毒なんじゃないかなって」

「急性アルコール中毒……」

 なったことがないな、と思いながら彼女から渡されたミネラルウォーターをもう一口飲んだ。

「でも薬師寺さんが起きてくれて本当に良かった」

 彼女は繰り返す。

 そこで気がついた。

「なんでおれの名前を知っているんですか?」

「へ?」

 意外そうに彼女は目を丸くさせてから、ああ、と頷いた。

「薬師寺さん、有名だから。隣の部署の残業マンって」

「残業マン……?」

「あれ? あー……そう、だよね。わたしは茶屋道千代子って言います」

 ペコリと頭を下げるので、おれも同じように頭を下げた。

 茶屋道千代子――その名前には聞き尾上があった。珍しい名字だと聞いたことがある。

「茶屋道さん?」

「はい」

「事務員の」

「ええ」

 珍しい名字だからたまたま覚えていた。隣の部署の茶屋道さん。「薬師寺くんと同じぐらい珍しい名字の女性がいるんだよ」という話があったのを思い出した。

 あー……と間延びをした声を出しつつ、その茶屋道さんの顔を見る。

 目が丸い人だ、という感想の後にやはりチョコレートブラウンの髪が濡れているのが目につく。おそらくシャワーか風呂のどちらかを終えたばかりなのだろう。だからすっぴんか、と勝手に想像して――なんとなく冷や汗が出た。

「あの、茶屋道さん」

「はい」

「ここ、茶屋道さんの家ですか?」

「ええ」

 彼女は同じように返事をした。

 ダッとすごい勢いで汗は流れた。おれは「すみません!」と反射的に謝り、バッグを投げ捨て頭を下げた。

「すみませんでした!」

 意味も分からず謝罪をするのはいけないと思いつつも、思い当たることがあったので謝るしかなかった。

「あ、謝らないで! わたしの家がたまたま近かっただけだから……」

「そういうことじゃないんです。いや、あの、大変なことにしてしまって、その」

「本当に大丈夫だから」

「どう詫びればいいか……」

 勢いよく言い出したはいいものの迷惑をかけてしまったという事実になんとも言えない罪悪感がやって来ては、消沈していった。

 茶屋道さんは気まずそうな笑顔で「大丈夫」と言った。

 信頼していいものか。いやしてはいけない、とおれはさらに言葉を重ねようとしたのだけれど、それも茶屋道さんに止められた。

「薬師寺さんが酔っていたのは本当だけれど、助けたのはこっちだし。でも、あんなに酔っていたら誰でも助けるというか……そう思うのが普通かなって。だから、大丈夫なの」

「そんなに酔ってましたか」

「それはそれはもう……路上で吐いていたぐらいだし」

「路上で!?」

 想像して嫌気がさした。路上で吐く自分、それを見つける茶屋道さんの構図。あまりにも滑稽すぎる。

「本当にすみません……」

「いいの。でもそのあとが大変だったけれど……まあ……そういうこともあるよね」

「そのあと?」

「あ、ええと」

 茶屋道さんは突然どもった。

 何が起きたのだろう、と想像をするが上手くいかず。酒の失敗で何かあるとすれば――と出来うる限りの想像をした。

 そこでふと、茶屋道さんの格好に目がいった。

 スウェット姿で今シャワーか風呂を終えたのだろう姿だ。

 逆に言えば、それをせずにはいられなかったと言う話だった。

 そして嫌な予感がしつつも、自分の格好を見た。

 なんとなく衣服が乱れていて、普通に寝たにしては乱暴な格好をしている。

 嫌な予感が増長した。

 脳裏に浮かぶセックスという言葉を噛みちぎりたかった。

 冷や汗を、今日何度も感じているそれが最大にまでやってきたところで、おれはたまらず聞いてしまった。

「犯しましたか、過ち」

 なんて言い方だ、と思う。けれど具体的に言うのには憚られる。おれの不祥事を露わにしたくないというのもあるし、茶屋道さんに失礼だと思ったからだ。

 けれど、これを聞かずにはいられない。これは茶屋道さんの自尊心にも関わることだ。

 茶屋道さんは、目をさらに丸くさせて、気まずそうに視線を逸らした。

 いや、これは、これはやっている。

 バッドな過ちを犯してしまっている。文字通り――なんてジョークは通らないそれをしてしまっている。

 ひっ、と声が喉にひっくり返るようにして戻った。

「すみ、すみませ、すみません! 酔ったおれが、いや、おれなんですけど、なんてことを。なんて……なんて馬鹿なことを……」

 謝っても仕様がない。してしまったことはしょうがない。

 でもこればっかりはいけないだろう。

 茶屋道さんとは合意だったのかだとか、何をしたのだとか、問いただしたいことは山ほどある。しかしそれを被害者とされる茶屋道さんに聞くなど甚だおかしい話だ。茶屋道さんに失礼すぎる。

 勝手にひりついた空気を味わいながら茶屋道さんの反応を見た。彼女は視線を逸らしたまま、こちらを見ようとはしなかった。

 やっぱりこれはやってしまっている。

 次々に溢れ出る言葉を上手くまとめることが出来ず、泣きたくなる気持ちを堪えた。泣きたいのは茶屋道さんの方に決まっている。おれが泣いたって茶屋道さんがせま苦しい気持ちになっていくだけだ。おれが勝手に逃げているだけだ。

 おれにできるのは平謝りしかない。頭を下げ続けて、責任を取るぐらいしかない。

「茶屋道さん、本当に、本当にすみません。おれにできることなら何でもしますから、その、気に病む、いや気に病みますよね。本当、おれにできることなら何でも、何でもします。無理だってします。だから」

「薬師寺さん」

「はい!」

 勢いづいた返事。挙動がおかしい喉を押さえつける。

 茶屋道さんがおれを呼んだことで、ようやく彼女を見ることができた。

 茶屋道さんは頬を赤らめながら、チョコレート色の毛先をいじっていた。恥じらいが見えるその仕草が可愛くて、いや、そんな場合ではない。

 できるだけ真剣な表情になるよう努めた。それが真摯な恰好だろう。

「薬師寺さん。なら、その、おかしな話ですが」

「はい」

「責任を取ってほしくて」

「はい」

「でもそれは……何かするとかじゃなくて、わたしと一緒に……みたいな……何かしてほしいわけじゃないんです。どちらかと言うと、なって欲しいもので」

「……はい?」

 予想していなかった返答に戸惑いながら、彼女の言葉を余さず聞く。

「責任を取って、わたしと付き合ってもらえませんか?」

 おれは口をあんぐりと開けて「いいんですか?」と問い返していた。

 この「いいんですか?」は予期していなかった幸福への「いいんですか?」ではなく、そんなことでと言う意味での「いいんですか?」だ。

 おれの失態について付き合うことですべてが解決するだなんて、おれにとって都合が良すぎるのではないだろうか。

 ちらりと茶屋道さんの様子を見る。おれの下心は恐ろしきかな、すでに蠢いてしまっている。馬鹿の一つ覚えのように、彼女が手に入るということに、心を弾ませている。可愛い人。その印象が浅ましい自分に降りかかる。

 彼女はどきどきしているようだった。視線を右往左往させて、緊張を隠すことなく見せている。毛先をいじる頻度が多くなる。その言葉が真実であることを示している。

 酩酊するような心地を覚えた。酒にはもうこりごりだと思っていたのに。

 その酒がもたらした幸運と思うべきか。それにしてはおれに利がありすぎる。

 夢かどうかを判断するべく、ぴし、と太ももを指で弾く。小さなゆるい痛みが走る。

「それは、その。おれへの罰にはなっていないと思いますよ」

「罰とかそういうことじゃなくて、わたしがいいと思ったから、言いました」

「でも、おれに都合が良すぎます。酔っ払って、やることやって、じゃあその相手と付き合えますって言うのはなんか……責任とかそういう問題じゃないでしょう。もっときついこと言っていいんですよ。金払えとか、いや、金で済む話じゃない……そうじゃないからこそ、もっと」

「だから、それがいいんです。薬師寺さんの言っていることはもっともだけれど、わたしがあなたにお願いしたいのはこれだけです」

 彼女は引かないつもりだと、その黒い瞳から読み取れてしまったので、おれはごくりと唾を飲んだ。

 本当にいいのか? 断るべきなのではないか?

 けれど彼女がそれでおれの失態を許すと言うならば、贖罪として付き合うべきではなかろうか。

 拭いきれない不安を抱える。彼女を見る。彼女もそう願っているように見えて、おれは逃げ場がないことを知る。

 どうしようもない。これはおれが犯した過ちなのだ。

 震える声を絞ることに注力して、こればかりははっきりと言わねばと思った。

「わかりました」

 本当はわかってなどいない。おれが許されたいだけの始末。

「お付き合いしましょう、茶屋道さん」

 彼女が微笑んでいるかなどどうでもよかった。おれは、おれの始末をつけるために、彼女と付き合うことに決めたのだった。


 今日が休日であることを知ったのは、告白の後だった。

 告白というより宣言に近い。おれはおれの全身を以て、あなたと付き合いますという覚悟の宣誓。そこに愛も情もなく、浅ましい保身だけがあった。

 茶屋道さんからの厚意で、まずはシャワーを浴びた。女性もののシャンプーなどを使うのは初めてだったので、その香りに奇妙な感覚を得た。茶屋道さんの香りは知らないけれども、きっとおれはこれからこの香りを覚えて茶屋道さんを知っていくことになるのだろう。それが赦しになる。

 そんな赦しがあってたまるか、と思いながらおれは浴室から出た。

 柔軟剤が使われているタオルで身体を拭く。

 これは覚悟だ。おれが彼女に本当の意味で許されるために、おれは彼女を幸せにしなくてはいけない、と思った。あまりにも傲慢で、独りよがりな思想かもしれない。けれど、おれは相応のことをしてしまったし、世間体で言えば、あまりにも甘ったれた赦しを頂いている。だから、もう劇的な幸福の提供こそが、おれの存在意義だと信じるしかない。

 脱いで三十分もしていない下着や衣服に再度身を包み、タオルドライでひたすら髪を乾かした。

 息がしづらかった。

 洗面所を出て、ちょっとの廊下を進み、扉を開けば茶屋道さんが居る。ただそれだけのことなのに遠い気持ちになった。本当に良かったのか? そう思いながらおれはなんとか前に進んだ。

「薬師寺さん」

 ころん、とした鈴のような声で茶屋道さんは扉を開けたおれを呼んだ。

「はい」

 返事をすると彼女は微笑んだ。

 観葉植物だらけの部屋である。

 部屋に入って一番最初に目につくのがそれだ。ベッドとその両脇にある高く育った観葉植物が目に入る。

 それからようやく他の調度品があることに気づくのだけれども、些細な、必要最低限しか家具は見当たらなかった。ローテーブルと座椅子。適当な収納棚。

 白を基調とした部屋に、ばっと広がる緑。白い。とにかく白と緑。植物の隙間から挿し込む陽光。

 茶屋道さんの髪色でさえ植物の、この部屋の一部だと感ずるに容易かった。彼女の髪色――チョコレートのようなそれは大地の色のように見える。水を吸い、生き生きと植物を育てる土の色。

「シャワーありがとうございました。ええと」

「お腹、空いているでしょう。水しか飲んでいないから」

「ま、まあ」

「コンビニ行きませんか? ちょうど買いだめもなくって」

 作るにはちょっとお腹が空き過ぎかな、と笑いながら茶屋道さんが言う。

 おれに拒否権はなく「そうですね」と言った。

 服装について会社ではオフィスカジュアルと言われているけれども、そのオフィスカジュアルというものがはっきりとわかっていないので、普通にスーツを着ている。

 社内ではおれのようなわかっていないから適当にスーツを着ている人間が三割ほど、残りの七割がオフィスカジュアルを知った熟練者となっている。もちろん営業などの関係でスーツを着る人間だって存在するのだが、それはおれの部署にいるような人間ではない。

 茶屋道さんはオフィスカジュアルの人間らしく、さっと開けたクローゼットの中には、見慣れたような女性のオフィスカジュアルが広がっていた。「いつもは部屋着だから」と彼女は言う。

「外出とか、あんまりしないんですか」

「するけど、それもオフィスカジュアルかな。私服でも使える恰好にしているってだけよ」

「楽ですね」

「スーツも楽だと思います。場所を選ばないし、しっかりしているし」

「でも私服には使えないから」

「それはそうだね」

 ぎこちない敬語の抜けた話し方に気まずさがある。まだ付き合って一時間もしていない。なんなら出会って――しっかりとした意識がある中で知り合うのも、三時間かかっていないカップルの姿があった。

 改めておかしな状況である。

 普通の人は知り合ってすぐ付き合いなどしないのだ。

 ジャケットを羽織ろうとすると茶屋道さんに止められた。「コンビニデート」と小さく呟いた彼女には魔法がかかっていた。言い訳のできない魔法。その通りにしてしまう呪文。

 確かにコンビニデートにはジャケットは不要だ。

 おれは財布とスマートフォンだけ持った。茶屋道さんはエコバッグに財布とスマートフォンを入れる。

 二人はそのまま、観葉植物だらけの部屋を出た。

 徒歩五分もかからない場所にコンビニはあった。

 店内に入るなりおれたちはまっすぐにお弁当やおにぎりのあるエリアに向かった。

「普段は入ってすぐに曲がって、飲み物とか見ちゃうんだよね」

 茶屋道さんはお弁当を眺めながら言う。

「薬師寺さんはどういう飲み物が好き?」

 聞かれても、普段飲んでいるものはミネラルウォーターか酒しかなかった。心の救いのテキーラショット。それも銘柄関係なく、その時マスターが出したものをクイッといくだけ。こだわりなどどこにもなかった。

 返答に困っていると茶屋道さんが逃げ道を作る。「わたしは紅茶が好き」と言ってチキン南蛮のお弁当を手に取り「今日はダージリンにしようか」と紡いだ。

 茶の銘柄もわからない。でもきっと、彼女が言うのならばそれなりに――いや、しっかりと美味しいのだろうと思って、頷いた。

 お弁当が入るほど腹が減っているわけでもなかったので、適当におにぎりを手に取った。海苔が巻いてあるもの、巻いていないものそれぞれ手に取る。

「薬師寺さん、それ、全部たらこ」

「え?」

「好きなんだ」

 くすくすと茶屋道さんが笑う。

 そんなつもりはなかった。本当に適当に手に取っていた。そこにおれの嗜好はなくて、単純にふらりと差し出した手の近くにあったというだけだ。

 弁解する時間はなかった。茶屋道さんは頷いて買い物かごの中にそのたらこだらけのおにぎり二つを入れた。そのままさらりとレジに向かってしまうので、会計だけはおれにさせてくれと言わんばかりにその背中を追いかけた。

 電子決済の軽い音が店内に響く。会計はなんとかおれが持つことができた。

 会計をしている間に茶屋道さんがお弁当を崩さないようにそうっとエコバッグに購入品を入れている。手伝うようなことでもなく、おれは金を出すことしかできないのだと知る。

 いや、金しか出せないんだって。

 今この時でさえ罪悪感と戦っている。おれは自分がしでかしたことに酷い苦労をこれからもっと感じるだろうし、茶屋道さんと一緒にいられないと思うのかもしれない。

 でも彼女が望んだことだから。

 体の良い言い訳だ。

 もっと罰されたい。

 なじられた方が楽になることは明白だった。

 帰り道に手を繋ぐこともなく、おれたちは部屋に戻った。

 観葉植物だらけの部屋にまだ慣れない。当たり前である。

 手洗いうがい、そしてレンジアップ。生活の始まりの音がした。

「いただきます」

 座椅子は一つしかないので、茶屋道さんに譲り――元々彼女のものだから、座ってもらった。おれはあまり使っていないというクッションを出してもらったので、それを椅子代わりにすることになった。

 彼女はチキン南蛮を、おれはたらこだらけのおにぎりを食べる。

 用意されたお茶はダージリンらしい。紅茶の銘柄はよくわかっていない。茶葉がどうの、と言われてもさっぱりだった。一応、これは緑茶に似ているらしいが、飲んでもそうとは思えなかった。

「茶屋道さん」

「はい」

「本当に後悔とかないですか」

「ええ」

「こういうのって、青少年じゃないけど、不健全だとは思うんですよ。なんだっけその……ストックホルム症候群みたいな。自分にひどいことをした相手のことを好きになってしまうみたいな、そういうのだったら、おれは身を引きたくて」

「……そう思えるかもしれませんけれど、これはわたしが望んだことです」

「でも茶屋道さんのためじゃないですよ」

 心の底からそう思う。茶屋道さんのためじゃない。

 どうしておれと付き合おうとするのか、わからない。

 そもそも自分を半ば成り行きで、無理強いかもしれない関係で始まった合意のないかもしれない性行為を引きずる必要はない。警察に突き出して終わればいい。何もかもを忘れているおれが言うことではないけれど、そうじゃないか。おれはそう思う。

 でも茶屋道さんはそうしようとしなかった。

 ぎこちなさ。そう呼ぶことしかできない感覚から抜け出そうと躍起になる。おにぎりをできるだけ早く咀嚼する。

「茶屋道さん、考え直しませんか」

「しません」

「……強情ですね」

「だって、薬師寺さん相手ですから」

 ごちそうさまでした、と茶屋道さんが合掌する。

「どうしますか、薬師寺さん。わたしがずっと前から、薬師寺さんのこと好きだって言ったら」

「それは――えっ? ずっと前?」

「ずっと前です」

 思ってもみなかった言葉におれは食べかけの、最後の一口になるだろうおにぎりのかけらを落としそうになった。

 そんなことあるのだろうか?

 ――無いとは言い切れない。同じ会社で、一応関わりはある。でも、話したこともなかっただろうに、どうして、とも思う。そんな少年少女が抱えるような恋愛の年頃でもない。

 顔を上げると茶屋道さんが居る。彼女は微笑んでいる。だからおれは強く出れない。

「……半年前にバーで話したじゃないですか」

「え?」

「薬師寺さんがよく行っているバーに、わたしも行ったことがあって」

 切り出しが馴染みのあるものだったので、聞かないという選択肢がなくなってしまった。

 おれは口元を拭い、すう、と息を吸ったその唇を見るしかなかった。

「薬師寺さんってば、さっと入って来て、さっと消えていったから不思議に思ったの。テキーラワンショットだけなんて、なんてスマートな……スマートなのかな? わからないけれど。とにかく、不思議だったからマスターに聞いたら、最近はテキーラで終わらせるんだって悲しそうに言っていた」

 半年前と言えば、残業ありきのルーティンが始まったのもその時期だ。

 テキーラを煽るバーは、元々おれの行きつけの店だった。週末には必ず顔をだし、程よく酔って帰るのが好きだった。

 けれど残業続きでそうはいかなくなり、じゃあどうやって酒を飲むのか、と考えた時にふっとテキーラをワンショット、という安直な方法に出たのである。週末にゆっくりと飲む酒を、週五回にわけて一気飲みするようになった。それがもちろん健全な酒の楽しみ方ではないことを承知のうえでそうした。

 彼女の言っていることは間違いがない。

「どういう人なのかもうちょっと教えてもらったら、同じ会社の人だからいいですよって言ってくれて。さらに聞いてみれば隣の部署だって。最初はそれだけ……本当にそれだけだったのだけれど、そのあと隣の部署にものすごい頑張る残業マンがいるんだって聞いたら、それが薬師寺さんだった。茶屋道さんと同じぐらい珍しい名字だから、知っているし目立ってるんだって聞いて、さらに興味が湧いた」

「……だから好きになったって言うんですか?」

「そこまでは言っていないけど。でも、そういうきっかけであなたのことを知って、話してみたいな、と思っていたから、昨日はちょうどよかった。なんだかこういう変なめぐりあわせって、たまにあるのよね、と思って……ああでも、だから許したわけじゃなくて。そういうきっかけがたまたまあって、そういうものに身を任せてもいいかなっていう気持ちもあって。まあ、薬師寺さんが覚えていないっていうのは、ちょっと悲しかったけれど……」

 茶屋道さんはベッドの方を見た。

「わたしはときめきとか、そういうものは求めていないから、こういう出会い方の方が、気まぐれっぽくて好きなのだけど、薬師寺さんはそうじゃないみたいね」

「……不誠実だし、中身がないと思いますけど」

「中身がないならこれから入れていくのは?」

「それは卑怯……じゃないですか」

「そうかな。でも、薬師寺さんは今、ちょうど折れかかっているし、ここはわたしの勝ちね」

 すく、と立ち上がった彼女はベッドに腰掛けた。きい、とアルミニウムの支えが小さく音をあげた。

 事実だ。おれは負けてしまっている。彼女に言いくるめられることを良しとしているわけではなくて、これ以上おれが何を言おうとも彼女の心が変わらないことを察してしまったがために、負けてしまっている。

 気づかないふりをしていれば、鈍感さに彼女も呆れて解放してくれたのかもしれない。でもおれも馬鹿ではない。自分の過ちと、それに伴う自分の責務と、彼女が与えた赦しのかたちを間違わないようにと心に刻んだつもりではある。誠実とは、この姿勢を指すのではないだろうか。

 おれは誠実でありたい。嘘は吐きたくない。

 ベッドに腰掛けた茶屋道さんを見上げて、おれは言う。

「いつまで、とか決まっていますか」

「それこそ愛想が尽きるまで、よろしくお願いいたします」

 上下関係は元より決まっていた。おれがどうこうできる問題ではなかった。

 ただ、隷属はしない。おれはきちんと、この人と向き合うことを求められている。

 良くも悪くも、茶屋道さんはそれ以上を望まなかった。

 それはおれにとって好都合だった。見せかけの恋人に与える愛情などというものはすずめの涙に等しい。同時にその愛情というものは、結局それも形骸であることを知っていた。これは自分が過去にそうであったからではなく、彼女から「付き合ってください」とい言われてからすぐに気づいたのだった。

 茶屋道さんが何をしたいのかは二週間が経過してもわからないままだった。

 彼女と過ごして良かったことはいくつかある。

 まず、会社の中で評判が良くなったこと。

 薬師寺、お前茶屋道さんと付き合い始めたのか、と上司に言われたのは三日前だった。なんでも、普段にこにこしている茶屋道さんが本当に嬉しそうにしているから、女性社員が問いかけたらしい。そうしたら「薬師寺さんと付き合い始めたんです」と答えたそうな。

 関係についてオープンにするかを決めていなかったおれたちだが、たいていの主導権は茶屋道さんにある。だから彼女が言ったことについては「はいそうですか」としか言いようがない。

 事実であるのでおれのほうからも「そうですよ」と言うと感心された。「いや、薬師寺が普段から頑張ってくれているのに、茶屋道さんを寂しがらせちゃいけないよな」だなんてまるで茶屋道さんのファンだったかのような発言の後「できるだけ早く帰ってやりなさい」と残業は一日二時間までと定められた。「その算段だと納期ギリギリな気がします」と反論した。「納期なんて、ちょっと全員に無茶をさせればどうとでもなる」と普段頼りにならない上司は胸を張る。

 状況が急変すると言うのはまさにこのことで、おれはどうしたものかと首を傾げた。残業は無理してしなくて良かったのだと考えさせ直させる。というか、無理をしていたのはおれだけで、おれに全責任がのしかかっていたみたいじゃないか、と憤慨する気持ちにもなった。

 でもまあ、茶屋道さんのおかげで残業地獄からは少しだけ離れることができそうだった。

 また、茶屋道さんの家に通うことになった。

 彼女からの申し出ではなく、これだけはおれからの申し出だった。

 茶屋道さんの家は職場から近く、おれがかけていた通勤時間が大幅に削減できる。そのためシャワーと寝るだけでいいから、と打診をした。茶屋道さんは嫌な顔一つせず、了承した。そのため茶屋道さんの部屋の隅には、おれ専用の寝袋が存在している。

 ベッドで寝た方がいいという茶屋道さんの提案は丁重にお断りした。決して恋人同士であるから一緒のベッドに入って眠る必要はない。それに二人分の大きさでもなかった。

 そのような生活が始まっていた。

 心機一転とまではいかないが、始まった生活は非日常の表情をしている。

 そのすべてが茶屋道さんのおかげであるのは間違いなく、だから複雑な気分だった。おれがもっと行動をしていれば解決していただろうことが、茶屋道さんと一緒にいることであっさり解決してしまった。複雑な気分だ。

 自分が怠惰だったのはさておき、茶屋道さんに借りができたような気分がしたので、デートでもしに行こうと彼女のことを誘った。茶屋道さんはとても喜んで「どこに行きましょうか」と言った。

「行きたいところとかありますか? 付き合います」

「あれ、デートって二人で行きたい場所に行くものじゃないんですか?」

「一般的にはそうですけど」

 おれたちは一般的じゃないと思うので、と付け足すのは憚られた。

「じゃあ今回はわたしの行きたい場所に行って、その次は薬師寺さんの行きたい場所に行きましょう?」

 タブレットを操作しながら茶屋道さんが言う。

 何畳かわからない、観葉植物のある部屋は慣れてみるとかなり窮屈だった。自分の背丈ほどの大きさまで成長した観葉植物は、おれのことを責めているようでもあった。

 泊まり込むわけではないが、茶屋道さんのところに通うことで誠意が見せられるのではないか、と考えてそうしている。今日もあと二十分経過したら、さっさと出ていく。残業で浮いた時間を、彼女に費やしている。

「どうしようかな……観たい映画もあるし、やりたいこともあるし」

「どんな映画を観るんですか?」

「意外とサスペンスものが好きかな。するするラストに謎が解けていく感じは観ていてすっきりするから。薬師寺さんは?」

「半年ぐらいは……観てませんね」

「その時間もなかった? 休日は何をしていたの?」

「寝るか、好きなコードを書いているかです」

 告げると茶屋道さんは目を丸くさせた。「仕事ってこと?」と返す。エンジニアだから彼女の想像も間違っていないのだけれども、そうではない。

「趣味ですね。あと勉強……仕事はやってませんよ。仕事の下準備をしたり、上手くいかなかったなっていう記述とかを復習したり、もう全く関係のないものを作ったり」

「でも、仕事に関係しているからそれは仕事じゃない?」

「……そうかもしれませんけど」

 反論ができなかった。仕事人間だと思われても仕方がない。

 茶屋道さんはそんなおれの話を聞いた後に、うーんと唸ってから話し始めた。

「薬師寺さんがパソコンに触らないような一日を組み立てなきゃ」

「いや、流石にデートの時には触りませんよ」

「わかっているけれど、そうじゃなくて、忘れられるような体験をしたいなっていう話で……ええと」

 大仰だな、と思いながら耳を澄ます。

 そうだ! と茶屋道さんが手を打った。

「鎌倉にいきましょう、薬師寺さん」

「鎌倉ですか」

「行ったことはある?」

「ないですね」

 神奈川県の鎌倉。彼女が素早くタブレットを操作して、鎌倉の観光案内のサイトを表示させる。

「えっと、神社があるんでしたっけ」

「神社も寺院もあるし、海も見える」

「今、秋ですよ」

「眺めるだけ」

「……神社で何を願うんですか?」

 ぎこちない会話。

 自分が決して明るいわけではないことをひどく恨んだ。

 茶屋道さんは髪を耳にかけてから「恋愛成就」と言った。

「……おれ以外の人ですよね」

「薬師寺さんがいいかな」

「いいかな? いいかなって」

 どういう意味ですか、と聞く前に電子ケトルが声を発した。

 今日はミルクティーにしよう、と茶屋道さんが言っていたのを思い出す。彼女はおれの問いかけの返事をせずに、立ち上がり厨房で茶葉とポットなどの一式を用意し始めた。

 恋愛成就。もしそれが本当であるならば、おれなどにかまけている余裕がどこに存在するのだろうか。

 それともおれという保険があるから、堂々としていられるのだろうか。

 ――どっちもでいいか。おれは囚人のようなものだし。


 彼女の好きなように、仰せのままにということで、翌週に鎌倉へ行くことになった。

 食べたいものは釜揚げしらすを使った丼。食べ歩きはクレープ。神社にはもちろんいくし、仏閣もまわる。海には最悪行かなくてもいいというスケジュールで、おれたちの初めてのデートは始まった。

 デートに際しておれは洋服一式を買い直すことにした。女性と出歩くのはもう何年も前のことであるし、誰かのために出歩くのでさえ久しぶりだった。きちんとした方がいいのは当たり前だと思うので、おれはしっかりと用意をした。バッグも適当なものを選んで買った。

 茶屋道さんとは鎌倉現地で待ち合わせることにしてもらった。正直、道中何を話せばいいかわからなくなってしまうから助かった。

「薬師寺さん」

 茶屋道さんは大人しめのイエローのに白いカーディガンを羽織っていた。銀杏のような恰好だな、と思いつつもそれをはっきりというのは憚られた。出会って最初に言うことじゃない。

 彼女の恰好を見て、おれは自分の姿を見直した。黒のパンツに白いパーカー。モノクロを基調とした、いわゆるどこにでもいそうな男の恰好。

 恥ずかしさを感じるわけでもなかった。ただその熱量の違いに申し訳なさを感じることはあった。

「薬師寺さん、新品の服なの?」

「え、まあ」

「ふふ。これだけ真っ白いと、すぐにわかっちゃうね」

 彼女は微笑みながら茶色のバッグを持ち直した。

「行きましょ」

 踊るように彼女が前に出た。

 事前調査もしなくて良いとのことだったので、おれは本当に何もせずに来てしまった。最初から案内するも何も、おれは神奈川県の出身ではないし、鎌倉に行った事もないし、第一に茶屋道さん自身が「薬師寺さんは何も準備しなくていいよ」と言ってきたのだ。そうするしかないだろう。

 おれたちはまず、釜揚げしらす丼を探した。大通りではなくちょっとした裏道にあったその店には、サーモンの炙り付きのものがあり、彼女は喜んでそれを食べた。おれはマグロの炙りにした。美味しかった。

 それから神社と仏閣をめぐり、座りながら抹茶と甘味を食した。彼女の願い事はやはり「恋愛成就」らしく、小さな声で「上手く行きますように」と祈っていることがわかった。

 上手く行きますように。

 それはおれと、永劫上手く行きますように、ということだろうか?

 だとしたらおれは自信がない。そもそも彼女に縛られたままで過ごせる自信がない。今のおれは人権を奪われているような心地だ。酒に酔って、酒で過ちを犯してその贖罪のために存在している。彼女のに言ったことは大抵を叶えなければならないという強迫観念に襲われている。

 恋人というものは対等な関係だと思っているおれには、程遠いのだ。彼女との幸せというものが。

 どこに行くにも浮ついた、地に足がつかない感覚で歩いていた。茶屋道さんの話は聞いていたけれども、ほとんど記憶に残ることはなかった。

「薬師寺さん」

 聞こえるのは彼女がおれを呼ぶ声ぐらいだ。

 甘味を食べて、お茶を飲んで、今日の集まりは終了しようというところで、彼女が「紅茶店に行きたい」と話すのでそれに付き合っている時だった。

 会計を済ませて店から出てきた彼女は、困ったように笑っていた。

「つまらなかったでしょう」

 釘を刺されたような気分だった。

 どう答えるべきかを悩んで、素直になることを選んだ。「うわの空でした」そう言うと彼女が「そうね」と答えた。

「偽装カップルだもの、わたしたち。つまらないのも当然ね」

 そうだと思う。

「でもわたし、久しぶりにいろんなところに行けて楽しかった。薬師寺さんがいなかったら、鎌倉に来なかっただろうし、この店でセイロンを買わなかったかもしれない」

「買い被りすぎですよ。おれは何もしていないし、誘って案内をしてくれたのは茶屋道さんじゃないですか」

「だけど、あなたのおかげでいっぱい調べて、その間は、今もこのデートの瞬間だって楽しかった」

 階段を下り、彼女のワンピースが揺れる。

「銀杏」

 今度は声に出てしまったので、茶屋道さんが振り返った。

「銀杏?」

「あ、いや、茶屋道さんが、そのワンピースが銀杏色だなって思っただけです」

 これも素直に言うしかなかった。

 まずかったかな、と思っていると茶屋道さんはくす、と笑った。

「薬師寺さん、最初からわたしのこと見てたのね」

 その当然の出来事をきちんと声に出されて、おれは顔が真っ赤になった。今度は本当に恥ずかしかった。

 茶屋道さんに魅力がないわけではない。ただおれのすべての感情が罪悪感に負けているだけであることを、無惨にも彼女に見透かされているようで、気まずかった。

 彼女はほっとした表情で「楽しくなかったわけじゃないのね」と言って「帰るのはやめましょう」と告げた。

「他に行くところがあるんですか?」

「やっぱり海に行きましょう。ちょっと寒いけれど、海辺の見えるレストランとかあるんじゃないかな。探せばあると思うから、薬師寺さん、駅に着くまで調べてもらってもいい?」

 何もしなくてもいい、と言ってから初めて頼まれ事をされたので、おれは少しだけ戸惑った。

 すると茶屋道さんは「いいお店、期待しているね」とおれのことを後押しする。そんなこと言うな、と悔しくなりながらおれは必死にスマートフォンをフリックしていった。

 由比ヶ浜の、できるだけ海辺に近く、しかし寒くなさそうなレストランはあった。簡単に見つかってしまった。

 口コミで星四つのレストランを急遽予約し、駆け足でその店に入って行った。予約ギリギリの時間に駅から捕まえたタクシーは到着した。

 さざなみのBGMが聞こえる店だった。

 適当に選んだコースメニューが運ばれていく。

 それらを食べる時に、茶屋道さんは静かに咀嚼をした。何も話さなかった。おれは口に合わないのだと思って、勝手に胃を痛めていた。

 店員もおれたちの様子がおかしいことに気づき、先ほどから視線を集中させている。何か訳ありなカップルに見えるのだろう。その通りだから、おれからは何も言わないしアクションもしない。

「薬師寺さん」

 彼女がおれを呼んだ。

 茶屋道さんは気に入っているのか、そう呼ばないとおれが反応しないと思っているのか、必ず言葉の始まりにはおれの名字を呼ぶ。

「はい」

「美味しくない?」

「え、いや。普通に美味いですよ」

「笑ってないから、義務で食べてるのかなって思って」

「義務……?」

 首を傾げると、茶屋道さんが笑った。「そういう発想がないの、とってもいいね」と言って、グラスワインを二つ注文した。

 そういえば乾杯をしていなかった。

「飲んでよ」

「飲みませんよ」

「どうして?」

「また茶屋道さんを困らせるからです」

「わたしは困ってないわ」

「……今だけですよ」

「最初から困ってないよ。これは本当」

 そうも言っている間にグラスワインがやってくる。

 ワインの好みがわからない。テキーラでもわからない。現実から目を背けるために飲んでいた酒であって、こだわりなどなんでも良かったからだ。ビールだって正直好きじゃない。その場のノリで飲んでいるだけだ。

 これを飲んだらまた終わるような気がして、怖かった。

「大丈夫。これは水だから」

「アルコール成分が入っているのに?」

「わたしと一緒に飲むお酒は全部水。わたしにも薬師寺さんにも悪いことが起きない。だから水。ちょっとふわふわするぐらいの薬効はあるけれど」

「怖い薬効だな……」

 出されたものを断るのも嫌で、グラスワインを手に取った。

 赤ワインだった。肉に合うと聞いたことがある。

 それが本当かはさておき。

 茶屋道さんのことを見ると、巻き上がったチョコレート色の髪の毛がふわり、と手先でいじられて浮いた。

 その瞬間におれは見惚れてしまった。全身の力が抜けて茶屋道さんの「乾杯」の声にそのまま応じてしまった。

 酒が切れた唇に染みた。

 翌朝になる、という展開はどこにもなかった。

 おれは地に足をつけて、茶屋道さんを送り、狼になることなく帰路についた。

 そのことが異様に嬉しかった。


 心の変わりようとは些細なものである。調子に乗るのも同義だ。

 おれは茶屋道さんに救われたような気がして、彼女のことが好きになっていた。ちょろい。あまりにもちょろい。けれど彼女がおれの一種のトラウマを克服させたのは事実であるから、依存のような気配のする慕情を向けることになっていた。

 けれどはっきりと茶屋道さんのことが好きだと話すわけにもいかなかった。それは茶屋道さんと擬似的な交際をしているから、尚更のことだった。茶屋道さんとの関係が崩壊して、本物の恋人になれたとて、それこそ本当に彼女のことを愛しているだとか、彼女もおれのことを本当に好きであるかなど、話していたらキリがない。それに疑ってかかってしまうのも当然のことのように思う。それほどおれたちの関係は曖昧で不思議で、地盤が脆かった。

 社内でもおれと茶屋道さんが付き合っているのは明白になり、こそこそとおれたちを応援する努力が見受けられた。茶屋道さんの退勤に合わせた仕事の終了や、昼食の時間を調整されるなどした。そんな小学生みたいなことをするなよ、と思うが外野は外野でこれが面白いのかもしれない。

 もちろん、おれと茶屋道さんはすべて知ったような顔をしていたので、これは好都合だと笑って適当に利用させていただいた。「残業が少なくなってよかったね」と彼女は笑った。その通りかもしれない。36協定で無視され続けていたおれの人権がようやく人のかたちをし始めた。

 他人が自分のかたちを維持していると言うのは甚だ健康的ではない、依存の形式だ。

 わかっていはするけれども、まあそういうこともあるよな、と今のおれは片付けていた。

 茶屋道さんはおれにデート以上のことを願わなかった。それもあり、彼女へのゆるい依存は長期に渡った。自立しようものにも社内の目というものがあり、なかなか難しそうだった。

 今こそ考えていなかったけれども、おれが彼女の申し出を断っていたらどうなっていたのだろうか?

 社会的には許されないことをしていたから、やはり獄中だったのだろうか。だとすれば会社はクビになるし、路頭に迷うこと間違いなしだな、と笑った。笑えることではないけれども。

 だから今が最適、という答えに辿り着いた。おれは彼女に甘やかされて生きている。

 茶屋道さんの家に通う頻度も増えていた。

 仮初の恋人ということをわかっていながら、彼女の住む家の洗面所におれのパーソナルグッズが増えていった。彼女が紅茶を淹れる時、おれが好きなセイロンを選ぶようになっていった。

 あの観葉植物だらけの部屋に、おれという存在が濃くなっていった。

 ふと、ゆるゆると彼女の台詞を、茶屋道さんのベッドを借りながら思うようになっていた。

 ――中身がないならこれから入れていくのは?

 とぽぽ、と茶が注がれる音を聞き、満たされる感覚を得て、おれはようやくそのことに気づくのだった。

「茶屋道さん」

 その日はもう泊まろうと決めていて、互いにシャワーを浴び終えていた時の頃だった。

 いつもは置かせてもらっている寝袋で眠るのだけれども、どうしてか茶屋道さんのベッドから離れたがい気持ちになっていた。

 不思議な力があるものだ、と思っていたら彼女が部屋に入ってきたので飛び上がりながら彼女のことを呼んだ。茶屋道さんはくすくす笑って「はあい」と返事をした。

「どうかしましたか?」

 ベッドを借りたい、というのもはっきりと言葉にするのが癪で「一緒に寝ませんか」と変な誘い方をしてしまった。

 茶屋道さんは一瞬硬直して「また過ちを?」と聞くので「違います!」と返事をした。

「ただ本当に、一緒に寝てみたくて」

「ベッド、狭いでしょう? どっちかが相手を抱きしめていないと、落ちちゃう」

「あ……」

「薬師寺さん、そんなことをしたら、駄目ですよ」

 本気になっちゃいますよ、と彼女は目を細めて笑った。優しげな表情だった。それが彼女なりの気遣いであることは、すぐにわかった。

 都合の良い人ではあるけれども、それ以上にはなれないのだ。おれは錯覚をしていたすべてに謝りたくなり、その日は茶屋道さんの好意で借りることになったベッドを抜け出したくなっていた。

 本気になっていたのはどちらなのだろう、と思いながら眠った。

 嘘でも中身があるのだと思っていたのはどちらなのだろう。

 でも過ちだとか、茶屋道さんは言うし、いいんじゃないのか?

 そう思いつつも、そうしては駄目なのだ。多分、一本線をひいて、彼女は物事を見ている。おれが手を出さないことを望みながら、引っかけるような素振りをするから、なんとも言えない――うっかり落ちてしまいそうになるのだけれども。

 蟻地獄みたいな人だな、と茶屋道さんのことをひどく思った。

 こんなことは、絶対に言えない。

 起きると茶屋道さんが紅茶を淹れていた。「今日はわたしの好みで、アールグレイ」と話す彼女について、おれはぽろっと口にしてしまった。

「茶屋道さんはどうしたいですか?」

「どうもこうも、わたしはこのままでじゅうぶん」

「考えないんですか、先のこととか」

「先とか、よくわからなくって」

 茶屋道さんは首を傾げた。

「具体的な話をした方がいいかなって思っただけなんです。おれたちが続くとしたら――いや、その、続けたいとか続けたくないとかそういう話ではなくて」

「わかってる。わかっているからこそ、今する話なの?」

「今じゃないと、一生できないと思うんで」

 彼女がティーセットを準備する前に、おれは彼女に近づいた。ローテーブルにトレイごと置かれた紅茶は、カップに注がれることなくそのままになる。

 おれと茶屋道さんは自然と正座をして向き合っていた。

「考えませんか」

「どうして?」

「社内で噂になっているぐらいだし、茶屋道さんから匂わせたっていうのもあるとは思うんですけど、おれとどうなりたいかぐらい、しっかり聞いておきたいんですよ」

 そうだ。彼女から言い出した。

 彼女が発端だったことをしっかりと提示しながら、おれはあなたのことを知りたいですよ、と伝えるのは容易だった。おれは結局、自分が聞きたいから、というのを率直に言うのを躊躇っている。

 自分がその気になっているのを知られたくなくて、必死になっている。

 茶屋道さんは「そうね」と言って視線を逸らした。

「中身は満たされた、ってこと?」

「……茶屋道さんの言う通りにし続けるのも、限界があるじゃないですか。おれは……おれの気持ちも大事にしながら、茶屋道さんと向き合いたい」

「薬師寺さんのこと、大切にしていなかった?」

「そうじゃないです。大切に……大切にされていると思う。茶屋道さんはおれのこと、ひどく扱ったことなんてしなかった。むしろ茶屋道さんのおかげで救われてる。前よりいい生活をしているし、酒も飲まなくなったし」

 事実だった。仕事終わりのテキーラはなくなった。残業も少なくなった。

 だから茶屋道さんに感謝をして、これからもずっと、というわけではない。

 彼女に感謝をしているからこそ、さらに誠意をもって、付き合いたいと思っただけのことだ。

 茶屋道さんはおれの方を見なかった。

「茶屋道さん、おれはきちんと……きちんと茶屋道さんのこと」

「薬師寺さん」

 彼女がようやくおれの方を見た。

 それも一瞬で、すぐに視線を床に落とす。

「わたしが誠実じゃないから、それはできないの」

「……どういうことですか」

「そのままの意味」

 茶屋道さんは、ゆっくりと告げた。

「わたしが嘘を吐いていたら?」

 彼女は狡猾だった。涙を流していた。

「わたしがそもそも、嘘を吐いていて、薬師寺さんはわたしに手なんか出していなくて、わたしが――わたしだけが、その事実を知っていて。薬師寺さんのことを手に入れたいから、そうした、なんてことだったら、どうするの?」

 ひ、と悲鳴が漏れた。

 想像もしていなかったことだった。ずっとおれが、おれだけが悪いと思い込んでいた。けれど、言われてみると、そのような気がしてきて、ぞっとした。

 茶屋道さんが自分の、チョコレート色の髪をいじる。

 真実かどうかわからなくなり、おれは立ち上がりそうになって、膝をローテーブルにぶつけた。飴色の紅茶が香り共にこぼれていく。おれの心の瓦解にそれは似ていた。

「茶屋道さん」

 おれは助けて、と言わんばかりに声を振り絞っていた。

「本当だったら、薬師寺さんはどうする?」

「どうするも、何も」

「わたしのこと、許せる?」

 どうもこうも言われても。

「おれは、茶屋道さんのことが」

 好きだ、と言えなかった。

 もし彼女が騙していたらと思うと、嫌で嫌で仕方がない。

 そんなかたちで出会いたくなかったという皮肉めいたものが溢れる。呪詛だ。呪われている。もうおれは彼女のことが好きなのに、ここでとんと裏切られても、おれはどうもこうもできないというのに。

 もっと単純にキレることができたのならよかったのか? 怒れれば彼女のこんな問いかけを一網打尽にして、あなたのことが好きだと言えるようになるのだろうか? いいや、そんなことはないのだ。単純にキレたって、おれは彼女に胸が張れない。

 だって彼女は、一番誠実になれ、とおれに言っていたと思っていたのに、彼女が誠実じゃなかっただなんて、そんなの嘘だ。

「……最初から」

 戸惑うおれの膝を見ているようだった。彼女はなかなかおれの顔を見ようとはしなかった。

「最初から薬師寺さんのことがいいなって思っていたのは、本当。あなたを助けたのも、本当。あなたのことをこの部屋に連れ込んだのも、本当」

「本当じゃないのは?」

「……どっちがいい?」

 彼女の言い方からするに、おれの嫌な予感のしている方だということは、なんとなく想像がついてしまった。

 嫌だと言えなかった。

 どうしてとも言えず、飴色の液体がおれの膝を浸すのを見つめるしかなかった。

「わたしは……薬師寺さんがよかった」

 ふっと顔を上げると、茶屋道さんが窓を見つめていた。

 今日は休日。午前九時の陽光が差し込んでいる。窓の付近にも観葉植物やサボテンがある。昨日は水をやる日だから、二人で一緒に水をやった。

 そういう積み重ねだった。おれたちはどこまでもプラトニックだった。

 少年少女の触れ合い方で、大人の付き合いというものを貫いて、始まりを無視していた。

「……もっと問い詰めればよかった」

「そうね。薬師寺さんのこと、こんな言い方はするべきじゃないけれど、欲しかったから……欲しかったから、わたしはこういう手に出た」

 彼女が立ち上がってティッシュを手に取った。数枚引き抜いて、こぼれた紅茶を丁寧に拭き取る。

「わたしにとってはね、どっちでもいいの。薬師寺さんに近寄れるなら、よかったし、最終的に

――幸運なことに、あなたのところへ滑り込めたから、それでいいと思っていて。だから始まりはどうでもいい。空っぽでもいい。愛とか、そういうものじゃなくてもいい。ずるくていいと、わたしは思っていた。……今も思ってる。だから薬師寺さんには、ずっと黙っていたってこと」

 こぼれた紅茶は数枚のティッシュでは拭き取れなかった。彼女はさらに枚数ティッシュを引き抜いた。

 おれも床を拭くのを手伝えばいいのに、身体が動かなかった。

 喉がひりつく。

「決めるのは薬師寺さんよ。わたしは……わたしはどちらでもいい。あなたが去っても、去らなくても、わたしは受け入れる。申し訳ないことをしたこと、問い詰めてしまったこと、全部引き受けるし、謝ります」

 ティッシュの山をローテーブルに置き、彼女は頭を下げた。

 そうじゃない。そういうことをしてほしかったんじゃない。

 涙が出そうだ。

「ごめんなさい」

 彼女が頭を下げている。

 おれはいたたまれず、そのまま部屋を出ようとして、立ち上がれなかった。足がしびれていた。

「ゆっくり立ち上がって。わたしは……わたしは一時間ぐらい、外に出てくるから。その間にいなくなってもいいし、いてもいい。わたしは……もうあなたに強制しない」

 もう一度彼女は頭を下げた。「ごめんなさい」と言い、彼女は家の鍵を置いて、出て行ってしまった。

 おれはゆっくりと足を伸ばした。血液がじわじわと全身に行き渡る感覚がしている。

 それと同時に涙が流れると思いきや、喉の乾きが広がるだけだった。

 どうすればいいのかわかっていなかった。

 振り返って、彼女との出会いの場とも言えるベッドを見つめた。

 ここでおれは目覚めたのだ。

 茶屋道さんがシャワーを浴びていて、おれは一人できょどっていて。そうしているうちに彼女がやって来て、おれが勘違いを――勘違いなのかわからない錯乱を起こして、出会ってしまった。約束事もできてしまった。

 おれは誠実なつもりだった。彼女がそうでなかっただけなのだろうか?

 今となってはどうとでもいい話だ。

 どちらが嘘がついていてもおかしくはない状況になってしまった。

 おれがわかるのは、おれが嘘を吐いていない。吐いていないと思いたい。彼女にとって、誠実であってほしいと願っていることだけだった。

 観葉植物たちは何も語らない。

 この部屋で何を過ごしたのかを思い出す。あまり大きなことも、小さなこともしていない。ただただ普遍的な生活をしていただけだ。起伏のない生活をしていた。

 残業疲れの身体を引きずりながら家にあがらせてもらい、シャワーを借りて、紅茶を飲みながら夜食や夕食を食べる。歯磨きはホテルのアメニティから一般的に売られているものに変わった。いつの間にかおれ専用のタオルが用意されているようになった。観葉植物に水を与えるのは一週間に一度で、昨日がちょうどその日だった。小さな如雨露に何度も水を汲みに行き、少しずつ水を与えて、剪定を行った。ちょきちょきと鋏を動かす彼女の手が小さくて、おれは見入ってしまっていた。

 そういう日々だけがあった。大人らしくもなく、少年少女には理解ができない領域だった。それはおれたちの間には何もない、空っぽだったからこそであり、おれたちは満たされるはずだったが、その中身をのぞいてしまったから、こうして狂ってしまっている。

 のぞき見ることの愚かさを痛感した。

 着替えて外に出た。

 荷物を持った。

 彼女の置いた鍵に、触れることすらできなかった。

 部屋の空気では窒息してしまいそうだった。

 休日だったのは不幸としか言いようがない。

 何か打ち込めるものが、残業があればよかったのに、と思っている自分がいる。午前九時では酒も飲めない。行きつけのバーが開店するのは午後五時からだ。

 おれには行く場所がない。

 行く場所になったのは茶屋道さんの部屋だ。

 けれどそこはおれの場所ではない。そう思っていただけだ。

 そう思っていたかっただけだ。

 路上で叫ぶわけにもいかないので、ぐっと飲み込んだ。

 素直にキレられない自分にむかついていた。彼女にもむかついていた。八つ当たりをする場所など見つからなかった。

 とりあえず、自分の家に帰った。

 茶屋道さんの家からおれの自宅まで乗り換えを含め一時間ほどかかる。

 電車に揺られながら茶屋道さんとの付き合い方について考えようにも、はっきりとした答えが出なかった。

 自宅はマンションの一階だ。茶屋道さんはオートロック付きマンションの三階に住んでいる。

 彼女がその場所を選んだ理由は「防犯のため」と言っていた。おれはどうでもよかったので、その辺りは適当だった。

 自宅にはパソコンぐらいしかない。というか、娯楽についてもパソコンでどうにかなってしまうので、それくらいしかない。

 冷蔵庫の中身は最低限というか、飲料しかない。通販で箱買いしたミネラルウォーターが冷やされているぐらいだ。あとは冷凍食品ぐらいしかない。

 ぐったりとしながらベッドに飛び込み、すうと息をする。ベッドから茶屋道さんは感じられない。そもそもこの部屋は茶屋道さんの部屋ではない。当たり前のことを思いながら、それでも日の差し方や、香りだとか、間取りなどで心を狭くする自分がいる。

 好きです、それでいいです、と言えない自分が憎い。

 一言で抜け出せない関係性が憎い。

 いっそのこと肉体関係などあればよかったのだろうかと思い、いやそうではないと首を振る。それでは、おれたちの前提が覆ってしまうのだ。茶屋道さんの通りにはいかなかったのだ。

 嘘つきな女だと侮蔑することもできない。どうしてか、できない。

 これが愛情なものか。

 こんなものは執着だ。

 気持ちが悪い。

 三十分ほどベッドに顔をこすりつけて、起き上がった。気分転換にシャワーを浴びて、普段から使っているシャンプーの香りをかぎ、なんとか平常心が戻ってきたようだった。

 思考がまとまらなかったので、改めて服を着替えた。泊まることが普通になってくると、一日程度は着替えなくてもいいか、と思ってしまう。そうではなかったのに、と思いながら洗濯機を回す。

 彼女に絆されていた。生活を緩ませていた。

 その気分はなかなかに悪くなかった。事実が飲み込めてきた証拠かもしれない、とおれは身体を拭いて外に出た。

 コンビニでも行こうか、と思いながら歩いている。ぼうっと歩いている。ただただ歩いている。いつの間にか駅前に到着している。

 まるで足が彼女の家に戻るのを予期しているようだったので、抵抗をしたかった。

 そうしているうちに花屋が見つかった。女性客が頻繁に出入りしているのを観察していると、その花屋にはカフェが併設されているらしく、そこにつられてお客がやって来ているようだった。

 せっかくなので花屋に入ると、嗅いだこともないような香りがした。自然――というよりは甘いそれが、花そのものであることに時間を要した。

 彼女の部屋にはなかったものだ。

 観葉植物のことを思い出す。彼女は実のならない植物ばかりに囲まれて、どのような気持ちだったのだろうかと想像する。想像したところで何も変わらないのだけれども、こうして花に囲まれていると、観葉植物の無機物さにおどろおどろしいものを感じてならない。

 寂しかったのだろうか。

 そっと店頭に並べられていた観葉植物に指を這わせる。

「気になりますか?」

「あ……ええと、友人……いや違うな……知り合いが、観葉植物を育てていて」

 言葉にするのが難しい人なのだと改めて気づいた。社内の人が、と呼ぶにはあまりに遠いものを感じる。

 店員の女性はしどろもどろに話すおれにも優しく微笑んだ。

「同じものでしたか?」

「えっと……多分そうです。これでした」

「モンテスラっていうんですよ、これ」

 笑顔のまま店員が言う。

「知ってましたか?」

 知らなかった。彼女とはそういう話をしていなかった。

「よく育っていましたか?」

「ええ」

「じゃあとても丁寧な人なんですね」

「……ええ」

 言葉がなかなか出てこなかった。

 立ち尽くしてしまったおれの事情を汲み取ったのか、店員の女性はおれから去っていく。新しい客の相手をして、またよく笑っている。

 茶屋道さんのことをどうしたいのか、おれの中で決まっていた。

 おれは花屋を出た。


 恐ろしいことに、茶屋道さんの部屋は開いていた。

 覚えているオートロックの開錠をして、三〇一号室に向かって、ドアノブに触れた瞬間にわかったとき、冷や汗が出た。

「茶屋道さん」

 何かあったのかと思い靴を適当に脱いで部屋にあがってしまった。

 日差しがあった。

 観葉植物が揺れていた。

「……薬師寺さん」

 茶屋道さんは紅茶を飲んでいた。

 これはダージリンだ、とすぐに気づいた。

「よかった……」

 へなへなと力が抜けて足から力が抜けていく。へた、と床に尻をつけて泣いてしまった。

「ちょ、ちょっと。薬師寺さん」

「よかった……」

 泣きじゃくる勢いだったので茶屋道さんが駆け寄ってくる。ローテーブルにあるソーサ―にかちゃん、とカップを置く音がした。

 おれは彼女を抱き留めた。

 初めてのことだった。手を繋ぐことだってしていなかった。そういう関係だった。そういうものから抜け出さなくてはいけなかった。

 おれは必死だった。

「中身のない発言だってわかってる。中身のない関係だったってわかってる。でも、おれは、そうやってわかっていながら、注がれた日々がいとおしくて仕方がないんだ。茶屋道さん、おれは、あなたのことが好きです。今から、今からでいい。全然伴わなくてもいい。おれは、茶屋道さんが好きだ」

 告白の仕方を知らない。まともに恋をしようと思ったことがない。そういったことも、彼女と話したことがない。

 様々なものを共有していない。だからこそこれから知りたいと強く願ってしまったし、共にありたいと思ってしまった。愚かだ。彼女を信じるに値するものはどこにある? そんなものは、きっとあの形骸のような生活の中にはなく、おれはおれの信じる輪郭しかない茶屋道さんをなぞるしかない。

 けれど、それでもいい。

 これから満たす、それがいい。

 水は注ぐものだ。中身はいつしか伴うものだ。

 おれは彼女がこぼれ落ちないよう抱き留めるしかなかった。

「薬師寺さん」

「おれはあなたが好きです」

 きっとおれはこれから多くのことを知る。彼女のよいところわるいところ。認めたくないこと、認めたいこと。それ以上に恐ろしいことも嬉しいこともあるだろう。でも、そのすべてを抱える自信が、ようやくついた。だからおれは彼女を抱きしめている。彼女を心の底からとは言えないが、愛していると前を向ける。

「いいの?」

「あなたがいいです」

「嘘を吐いていても?」

「それはもう問題じゃない」

「……おかしな薬師寺さん。そこが大事なのよ。そこが一番大事。あなたが信じられるかどうかじゃない。真実が一番大切なのに……目を伏せていいの?」

「おれはそれでも、この部屋の中身がいい」

 そう伝えると、茶屋道さんはおれの腕から離れて「お茶にしましょう」と言った。

 彼女はダージリンを用意した。

 それはそれがカップに注がれるのを見つめながら、ああ、これが俺の求めているものだと感じた。

 紅茶を飲み、様々を語らず、おれたちはベッドに転がった。彼女の言った通り、とても狭いベッドだった。いつかでいいから、買い直そうと話した。

「膝枕してあげる」

「膝枕?」

「薬師寺さんの腕枕、折れそうだから」

 そう言って茶屋道さんは膝を明け渡した。

 彼女の太ももの感覚に興奮するでもなく、俺はそこから彼女の、チョコレートブラウンの髪と観葉植物の落とす影にひどく安堵した。

 チョコレートブラウンの髪。

「千代子さん」

 おれは彼女の名前を呼んだ。

「なあに」

「……おやすみなさい」

 彼女は微笑んだ。おれは目をつむり、ゆっくりと呼吸をする。

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