あなたのこととかどうでもいいよ
幸せは赤い目をしている。
一口に幸せ、なんて言うけれど本当のさいわいを誰も知らないのだ。真のさいわい。それは何もないこと。平穏無事、平坦無事。そういうものを享受して生きること。将来なんてものを気にせず、淡々と今日という日を消化できるのならばそれはとてもいいことじゃないか。
そう思っていたのだけれど、友人はそうでもなかったようだ。
興奮しているのが目に見えてわかる彼女は、個室の焼肉屋を予約していた。両隣も同じように仕切られた個室であるというのに、まったくもって向こうの声が聞こえない。きちんと防音がされていて、目の前でじゅうじゅう肉が焼ける音とささやかな店内のBGMしか聞こえない。
タン塩とカルビ、わかめスープとライスにチョレキサラダ。いつものお決まりを注文すると、友人の東雲亜沙は「もっと注文しなよ!」と煽ってきた。もっとって言われても。私はどきまぎしながら中ライスを大ライスに変更する程度しか思いつかなかった。
羽振りが良すぎる。
それに、何かを隠している。
亜沙に抱いた印象はこれだ。間違いなく彼女は何か秘密を持っている。そしてそれが、きっと上手くいったのだろう、だから羽振りよく奢るなんてことができる。私はそう算段立てて、さっと渡されたチョレギサラダを口に運ぶ。
「ねえ聞いて、アオちゃん」
最早本名より呼ばれるようになったハンドルネームに「うん」と返事をした。
亜沙は私をいつからか「アオちゃん」と呼んでいた。出会いこそリアルだったものの、インターネット上のハンドルネームを介した関わりが増えてからは「アオちゃん」と私をハンドルネームで呼ぶようになった。
私はずっと、亜沙を亜沙と呼んでいる。だってそれが、普通だと思うから。
「私、つながったの」
シャキ。
「何と?」
「推しと!」
ジャキ。
チョレギサラダをかみ切るはずの前歯が行き違いに擦れて、いびつな音をあげる。
何を言っているのか理解に苦しんだ。
私は「うん?」と首を傾げながらもどうにか現実を感じようと、チョレギサラダを頬張る。その様子をけらけらと亜沙は笑った。
推しとつながった。
その意味は果てしなく遠く、あり得ない場所に彼女がたどり着いた、という意味でもある。
推し、と今は一言に言えるようになったけれど、要は自分が見つけたアイドルや俳優を応援し続けている、その応援し続けている人のことを言うのだ。自分の出せるすべてを以て、たいていの私たちのような――オタクは必死に身を削って応援をしているのだ。大好きだなんて言いながら、必死に三次元だろうと二次元だろうと応援をしている。そういう一方的な関係性を、推しだと呼んでいるに過ぎない。
そこに「つながった」という言葉が加われば、もう大変な意味を持つ。
「つながったって……あのつながった?」
「あのって何? 一個しかないよ。推しとつながったの!」
私はチョレギサラダを食べ終わってしまった。
タイミングよくノックの音がして、店員が申し訳なさそうにタン塩を置いていく。その間に亜沙はタッチパネル式の注文端末でビールを注文していた。いつの間にか彼女はジョッキを空にしている。
置かれたタン塩に手をつける気持ちにはならず、ウーロン茶を飲んだ。お酒に弱いわけではないけれどSNSでやってきた亜沙の連絡から嫌な予感を感じ取っていたのと、合流してからも不思議なほどテンションの高い亜沙に一抹の恐怖を覚えたので、アルコールの注文を控えた。
ぱっと捌けたはずの店員がビールの泡があふれるジョッキを片手に戻ってくる。亜沙は「ありがとうございます!」といつになく元気な調子で返事をして、ジョッキを受け取った。
「あのさ」
固まっていても仕方がないので、私は切り出そうと踏ん張った。
肉を焼くためのトングを拾い、カチ、カチ、と威嚇するように先端を合わせる。
「どうしてそうなったの?」
切り出しとしては、まずまずだった。
にまにまと笑っている亜沙は「えっとね~」ともったいぶった言い方をする。くだらないな、と思いつつ、きっとろくでもないのだと信じて私はタン塩を一枚トングで取った。じゅう、と熱された鉄板に肉が置かれ、急速に色を変えて縮んでいく。
「この前ライブがあるって言ったでしょ。それに行きますってSNSで投稿したんだよね。そうしたらさ、弥生くんの公式アカウントからメールが届いたわけ」
弥生くん、と聞き慣れた言葉が変化していないことに安堵すればいいのかわからず、タン塩をひっくり返すことしか出来なかった。もうタン塩は生の状態からおよそ三分の二サイズに変わってしまっていた。
篠崎弥生は彼女の推しだ。
話を半分くらいしかいつも聞いていないので、アイドル系声優であることしか理解していない。私たちは同類のオタクなので、互いをリスペクトしながらコミュニケーションにもならない自分の情熱をぶつけ合う話しかできないのだ。だから、きっと亜沙も私の推しのことなんて殆ど知らないと思う。
自分たちの持てる情熱で相手を殴るかのように話し続けるのは、ドッジボールと似ている。
「それで、篠崎さんの公式アカウントはなんて?」
「ライブの後に控え室に来て欲しいって連絡があったわけよ! もうどうしよう。何が起きるのか楽しみすぎる。私、ここまで来れた!」
きゃあきゃあと嬉しそうに話す亜沙の様子を見て、想像以下であることにほっとしている自分がいた。
最悪なのは推しがファンに危害を加えることなのだけれども、そんなことはなさそうだと見える。まあ、彼女が呼び出されたあとに何かにつけてその被害を受けるかもしれないのだけれど、それは今杞憂するべきではないだろう。
「よかったじゃん」
「うん! すっごく嬉しい!」
亜沙は無邪気に笑った。
つながった、という言葉を抜きにすれば、亜沙はとても精力的にファン活動をしている人間だと思う。
ファンレターを書き、現地イベントに向かう。参加作品にも広く触れて、常に感想をしたためている印象だ。ただそれだけでも大変なのに、マラソンのようにこなしている亜沙は本当にすごいと思う。
加えて彼女は、いわゆる情報屋になっていた。SNSを通じてその篠崎弥生の参加作品や出演記録、グッズなどの告知を行っている。篠崎弥生の公式アカウントを追うだけでは手に入れられない情報の数々を彼女は巧みに発信していて、それがファンにウケている。
最早彼女は公式に密接な関係であったと言っても過言ではないだろう。だのに今までそうではなかったのは、ひとえに彼女がファンと公式の境界線を間違えないように気を配っていたからだと思う。「一般人ですから」と言いながら篠崎弥生に献身とも言えるファン活動をしていたのは、私の目から見ても素晴らしいものだった。
亜沙が嬉しそうに残りのタン塩を鉄板の上に置いた。トングは威嚇をしてこない。
「認知されてたっていうのはなんとなくわかってたっていうか……サイン会とか行くとハンドルネーム覚えてもらってたし、そういうことなんだよね。わざわざレターセット同じもの何枚も用意してて、良かったなあ。それにうちわとかも統一性出してさ! マジ頑張ってた。私、頑張ってた! それが一気に報われた感じ……わかる?」
「ま、まあ?」
正直わかっていなかった。
推しからの認知だとかは、私の中にはわからないものとして存在している。別に認知されたいと思っていないし、そもそも私の推しはたいてい二次元の存在だ。縦と横、X軸とY軸、時々三次元になるそれらについて、認知も何もない。付き合いたいとか、接触したいとも思わない。大前提接触ができない。
だから、というわけではないけれど、現実世界にいないものを愛している私と、現実世界にいるものを愛している亜沙だからこそ会話のドッジボールが出来ていたのだと思う。お互いに好きなものを延々と話し続けて、互いをリスペクトしていて、情熱を与え続ける。もっとこの人を愛そうという気持ちになれるし、同時に自分がいかに熱狂しているのかを知って、さらに言えば、何かに熱狂している人間は文字通り熱を纏って狂っているのだとわかり、爆笑している。
そういう関係だったんだよな、と思いながら私は焼けたタン塩をトングで掴んだ。レモンを絞ってから口に運ぶ。なかなかの厚み。美味しい。
亜沙はうっとりとしながら、私がタン塩を咀嚼している様子を見つめていた。
「た、食べなよ」
祝うべきなのは私ではなく、亜沙だ。私はそう思って、トングを使って亜沙の皿にタン塩を乗せる。
「ううん。私はいいの。幸せでお腹いっぱいだから」
そのお腹いっぱい、というものがよくわからなくて、私は大ライスをかき込んだ。
次々に亜沙は私に食べさせるべく、タン塩を焼いていった。その間にカルビが届き、カルビも私のために焼かれた。白い煙が立ち上り、空気の循環に飲まれていく。
幸せって何?
私は思わず出そうになった言葉をタン塩と一緒に飲んだ。
それに認知されることがどれだけ幸せなのかがわからない私は、彼女に理解のできない気持ちをぶつけかかっていた。理解できないものは苦しい。彼女のことはなんとなくでも理解できていたと思っていたから、なんとなく理解できないことが嫌でこうしたとげとげしい感想が湧いて出てくる。
平坦な日々。
だらしなく話し、つつがなく日常を謳歌し、時に刺激を与えられ、津々浦々と過ごすのがいいね、と話したのは去年の旅行のことだった。
幸せ、と呼ぶのではなく「さいわい」と旅館にあるメモ用紙に一筆書き、そこからブレインストーミングを始めたのは亜沙だった。聞けば篠崎弥生が歌っている曲に「さいわい」というフレーズがあるらしく、そこからこの思索が始まった。
せっかくの熱海旅行でも私たちは必死に推しについて話していた。自分ではなく他人の、推しの幸せを願いがちな私たちにとっての「さいわい」とは何か、と議論した結果に、平坦な日々を掲げたのだ。
推しを健やかに応援し続けるには自分には何もないことが重要だという話になった。自分には推しという刺激があればいい。刺激的な生活の中心は常に推しであるから、それ以外は平々凡々であればいい。そうすればおのずと推しに注力することになる。だからそれがいいよね。そうやって生きていければ、「さいわい」なんじゃないかな。と結論づけたのだ。
「さいわい」はきっと、推しのために涙を流して赤く目を腫らすことだと亜沙は言う。感動は刺激の中央にある。彼のために汗水、それこそ涙まで捧げられることの「さいわい」が存在する。
熱狂的とはまさにこのことだろう、と思い出しながら私はタン塩に続くハラミを焼く。トングでもしっかりとわかる肉厚に高級感を覚えた。
「それで、行くの?」
結論を聞かずにタン塩を食べ終えてしまったことに気づき、私は彼女を窺った。
夢見心地の亜沙はにんまりと笑い、うっとりもしていた。それは当然とも言えるのだけれども、私にとってはあまりいい気分のするものではなかった。何かある、と確信していたくせに。
亜沙はチョレギサラダの残りを箸でかき集めた。シャキシャキ。彼女は言い切った。「行くよ」シャキシャキ。口の中にあるはずの野菜たちも頷いているようだった。
「行くんだ」
「当然っていうか……直接感謝を言いたいのが、大半かな。いつもありがとうございます、これからも応援しています、みたいな」
「それだけでいいの?」
「それくらいしか言うことなくない?」
「なんか……なんかもっとあると思ってた」
「なんか?」
自分の言葉ながら、何もわかっていなかった。もっと言うべきことが亜沙にはあり、それを伝えるために向かうのだと思い込んでいた。けれど正体は率直なファンとしての正しい言葉ばかりだったので、驚いた。
ファンに正しさも何もないけれど、推しにとって無害だということが、一番の正しさだ、と亜沙が言っていたことを思い出す。
活動の邪魔をしない。阻害をしない。多くを求めすぎない。それが彼女の信条であることを思い出して、申し訳ない気持ちになった。なんて謙虚なのだろう。
私は両面を焼いたハラミをたれにつけてから、口に運んだ。
「伝わるといいね」
「そう、なんだけど。やっぱり手紙にもした方がいいかな? でもそれはいつもしているし……ファンレター号外みたいなことになるけど、しつこくないかな。ストーカーみたいになるのは嫌だし、やりすぎもよくないし……」
「普通にしていればいいんじゃないの? あっちも亜沙がどんな人かとか、考えてないと思うよ。それこその……亜沙が言っていたみたいに、亜沙がいい意味で阻害をしない――無害だから会ってくれるって言ってくれたんだと思うし」
「それってつまり、いいファンってこと?」
「そう。亜沙がいいファンってこと」
彼女の言葉しか引用できない。私はそれほどの熱狂的な信者ではない。
そこそこにものを愛し、そこそこに平和な暮らしをしている一般人だと思い知らされる。亜沙との付き合いとはそういうことだ。私はしみじみとふんわりと抱いているコンプレックスのような、灰色のわだかまりを自分で突いているような気持ちになった。心の中で行われる小さな自傷行為は、それほど大きな傷を作るわけでもなく、やはりそこには亜沙との違いが刻まれるだけだった。
「嬉しい。アオちゃんにずっと見守られてたから、私頑張れたんだよ。だから今日はたくさん食べて! 私の……努力報われ記念日に乾杯!」
努力報われ記念日という独特のワードが亜沙らしい。
私は改めてハラミを味わった。ようやく味がした肉はとてもいいものだった。
「でも公式関係者って言うか、当人から連絡が来るものなんだね」
「どういうことなんだろうね! 本人もエゴサーチしているのかな。やっぱり自分の評判が気になるってやつ?」
「まあ……それはあるんじゃない?」
自分の評価はいつだって気になってしまうものだ。有名人となれば悪評もあるだろうに、自ら調べるのは少々マゾヒズムを感じるけれど。
亜沙はこうかなあ、ああかなあ、と想像を膨らませながら、しかし篠崎弥生のことについて熱く語ってくれた。最近出たアルバムの曲がいいとか、写真集の予約特典がよかっただとか、それはそれは大量の情報を教えてくれた。
一種の情報屋――篠崎弥生に限り、有能になる亜沙には敵わない。そもそも彼女以上に篠崎弥生が好きな人間がいるのだろうか? と私は常々思っている。それほどに彼女の生活、ひいては人生を担っているのが篠崎弥生だった。
「何年前だっけ、篠崎弥生のこと知ったの」
「えっとね、三年前!」
たった三年と思うのか、もう三年と思うべきかを逡巡したけれど「いい感じだね」と当たり障りのない、しかしふさわしいとは言えない言葉を選んだ。
亜沙はにっこりと笑って「うん!」と嬉しそうに返事をする。
結局彼女の奢りで始まった焼肉は、デザートまでしっかりと亜沙のおごりで終わってしまった。
「今度私も何か奢るから」とは言ったものの、亜沙は聞かず「いいから!」と言うのだった。駅に到着するその十分もかからない道のりの中で、そんなやり取りを三回ほどした。
申し訳ない気持ちが半分と、亜沙が報われてよかったという気持ちが半分ほど。彼女のうっとりした表情を思い出すと、仕方がないように思うけれど、奢りというのは大きすぎる。
今度会った時にはきちんとプレゼントを用意してお礼をしよう。私はそう決めて、亜沙に向かって手を振った。その今度というのは、ちょうど一か月後にある篠崎弥生のライブだ。
帰り道でどのタイミングで彼女は関係者側として呼ばれるのかを妄想していた。おそらくライブの終わりだろうから、帰り道は私一人か、彼女が篠崎弥生と会って来るのを待つかだ。きっと亜沙は話したがりだから、待ってて、と言いそうな気がする。
私にとっては遠すぎて未だによくわからない話だった。好きな人に――それも雲の上のような人に会って話せるというのは、しっくりこない。これが十秒程度の時間しかない握手会などであったらまだしも、そうではないのだ。篠崎弥生はしっかりと意志をもって、私の友人である東雲亜沙に会おうとしているのである。
――何がしたいのだろう。
改めて篠崎弥生の側から亜沙に会うメリットなどを考えてみると、何もないような気がしてきている。本当に興味半分で、自分を応援してくれている人に直接感謝を言いたいだけのような気がする。悪意はない。悪意があったら、それはそれで困る。
亜沙には篠崎弥生をずっと好きでいて欲しいと思う。
そうやって話している彼女はいっとう輝いていると思うから。
ライブ当日になっても実感がわかなかった。
私でこんな調子なので、亜沙の方はもっと実感がないようだった。
特別大きな、日本でも有数のホールを貸し切っての公演であることを忘れる程度には、二人揃ってぼうっとしていた。
会場近くのカフェで待ち合わせる予定だったので、私は一足早くカフェに到着するよう予定を組んだ。会場付近のカフェはいつも混んでいる。公演が近づくにつれ人が増えていくのを知っているので、できるだけ早く到着するよう心がけた。
暇つぶし用のタブレットを広げる。頼んだグリーンアップルモヒートが届くのを待った。
無料Wi-Fiが行き届いているカフェで待つこと三十分程度。ざわざわと人が来店してくるのと同じタイミングで亜沙はやってきた。
「おはよう、アオちゃん」
「おはよう亜沙。眠れた?」
「全然無理」
はっきりとそう言うので、けたけたと笑ってしまった。
その割にはしっかりと化粧をしているのか彼女の目に隈は見えない。
「今日がいい日になるといいね」
篠崎弥生の描かれた缶バッジを大量につけた鞄と、そこからはみ出している手製のうちわを確認しながら私は言う。亜沙はけっこうスポーティーな恰好を好むのに、そのかけらもないバッグを見ると、なんだかミスマッチしているようでいつも笑いそうになるのをこらえている。
ゆるくウェーブのかかったセミロングヘアに、篠崎弥生関係なく好きだからという理由でしているインナーカラー。グレージュの髪からちらちらとのぞく青色がひっそりと深海を思わせる。
「うん。めっちゃ緊張するけど、どうにかなりそうな気がする」
「化粧もばっちりだしいいんじゃない。髪の毛とかも染め直したんでしょ?」
「そりゃあもちろん! 最高の自分で会いたいしね」
ふふん、と彼女はセミロングヘアを揺らした。その調子だ。
亜沙は私と同じグリーンアップルモヒートを注文した。注文が立て込んでいるらしく「少しお時間を頂きます」と丁寧に店員は言った。
待っている間に彼女は篠崎弥生の今回のライブについて語り出した。もうセットリストはほぼ決まっていること。それは過去の公演――今回はライブツアーの括りだそうから、今までの公演のセットリストから窺えるということ。過去の公演では何を話したのかと、今回はどんなことを話すのだろうという妄想。さまざまである。
ひとしきり話すとグリーンアップルモヒートも届いた。
炭酸が苦手な亜沙はグリーンアップルモヒートを少しずつ飲みながら、スマートフォンをフリックする。そして彼女はこっそりと、小さな声で彼女は「このメール間違ってないよね?」とスマートフォンを差し出してきた。
そこには至極丁寧な文章で――ビジネス文書で、亜沙に公演後落ち合うための場所が書かれていた。
「本当だね」
「間違ってないよね? 東ホールの、ご飯とか売ってるあそこの……近くだよね?」
「そうだね」
巨大なホールであるから軽食を売っている場所が何カ所か会場に存在していた。そこの一画で待ち合わせよう、という内容だった。
私と亜沙は顔を見合わせ「本当に会うんだね」と台詞こそ違えど同じニュアンスのことを言った。
彼女の高揚が嫌でもわかる。ただ緊張するのではなく、それこそ恋する乙女の如きわくわく――と言えばいいのだろうか? それが今の亜沙にはあって、なんだか羨ましいような気がした。
亜沙のこんなはしゃぐ姿を見たのは久しぶりかもしれない。
「結局会ったらどうするの?」
「えーっと、応援の言葉とファンレターを渡すぐらいかな」
「この前言ってたのとほぼ同じだけど、いいの?」
「いいの。私にできることって、これくらいだから」
謙虚だ、と私は感心しながらグリーンアップルモヒートを飲んだ。
店内があわただしくなってきた。
周囲の人々も篠崎弥生の話題で持ち切りだ。誰も彼も手製のうちわだったり、缶バッジをみっしりとつけたバッグを持っていたり、そうでなかったりしている。堂々とファンであることを亜沙のように主張しなくても、じゅうぶん彼らは篠崎弥生の虜であることを示していた。
私だけが異物のように思えて、なんとも言えない気持ちになる。
「アオちゃん」
亜沙がテーブルに適当に置いていた私の手を取った。
「アオちゃんがいてくれたおかげだよ」
「え、何」
「アオちゃんが私のことを見守ってくれたから、のびのび応援することができたと思うんだ。弥生くんのこと、こうして応援し続けられたのはアオちゃんのおかげ」
丁寧に、それはそれは丁寧に亜沙が言うので、心からの言葉だということがはっきりと理解できた。
「私のおかげだとは思わないよ。亜沙の努力だよ」
「でもその努力の後押しをしてくれたのはアオちゃんだよ」
返すと彼女も引き下がらない。
本当にそう思っているんだ。
私はどうしてか申し訳ない気持ちになり、亜沙から視線を逸らした。今の彼女がしている視線は、篠崎弥生のことを話している時と同じで、普段から私に向けられるようなものではなかった。
私は彼女の推しじゃない。だからそういう視線は、ちょっとおかしい。
そう決めつけて「そっか」とニュートラルな相槌を打った。
「ねえ、そろそろ移動してもいいんじゃない」
話題を変えようとやんわりと亜沙の手を振りほどく。
「そうだね。そろそろいこっか」
亜沙は笑顔でそう言ってくれた。
カフェから会場までは十五分ほど歩く。
私たちはやはり亜沙の口から様々出される篠崎弥生のことで持ち切りだった。もちろんそれは私たちだけではなく、前方を歩く人も、後方を歩く人も同じだった。彼女たちは(低確率で、男性も見かける)、篠崎弥生のファンであるのだ。
会場は混雑していたけれど、亜沙がVIP席を用意してくれていたので難なく入場することができた。VIP席と言っても関係者席とは異なり、いわゆるファンサを多くもらえるだろう前方の席のことを指していた。
実際に私たちの席はステージからすぐの場所にあり、私の全身は緊張に包まれた。
篠崎弥生の目の前だ。
私の心配ではなく、亜沙が心配だった。
視線を動かすと彼女はきらきらした瞳でステージを見つめていた。
その目には間違いなく、篠崎弥生がいた。
もう、彼女の目にはきちんと見えている。
私はその事実に何故か苦しい気持ちを覚えた。彼女と私では決定的に違う、憧憬の想いというものをむざむざと見せつけられているような気がしていた。
もちろん亜沙に悪気がないことを知っているから、余計にたちが悪い。これは勝手な私個人の感想にしかならない。私が亜沙に抱いているコンプレックスの一つが表層に出たというだけ。
私はステージをもう一度見つめた。
何もないステージだ。楽器が既に設置されていて、それ以外はもぬけの殻だった。
篠崎弥生は立っていない。
そのほかの誰も、私の心には立っていない。二次元に存在する誰も、立っていなかった。
これが二次元と三次元の違いだとは言わない。これは熱量の問題だった。
私は亜沙の方を見ていられなくなってしまった。
「アオちゃん。楽しみだねえ」
そう言う亜沙にも頷いて、ぼうっと空のステージを見つめているだけだった。
ライブはいつも通りの――私が知る篠崎弥生のライブの盛り上がりを見せた。
隣で亜沙がきゃあきゃあと叫び、私は私でそれなりに楽しんでいた。場の調和を乱さないというのもあるけれど、ライブを楽しまないと損だと思っている自分がいた。
亜沙と篠崎弥生の邂逅はライブの後だったので、私だけがいそいそと会場を後にすることになった。待ち合わせは先ほどお世話になったカフェになった。
時刻はまだ午後八時。カフェの閉店時間は午後十時なので、まだ余裕がある。想像に容易い亜沙の興奮を冷ますのにもちょうどいいだろう。
またグリーンアップルモヒートを注文するのもいいけれど、今回はダージリンにした。熱気にあてられて、逆立ちそうな自分の心を落ち着かせるのには紅茶が最適だと思ったからだ。
ポットサービスのダージリンを一杯飲んだところで、亜沙が私を見つけるなり勢いよく席に座った。
ここまでは私の想像通りだった。亜沙は私に話したいことがいっぱいで、おそらく彼女は幸せそうにそれを語る。
「あのね、アオちゃん」
祈る手を組んで、彼女はこっそりと、私に告げた。
「弥生くん……素敵な人だった!」
カフェの中には篠崎弥生のファンが何人かいる。なので彼女はとてもとてもこっそりと、私だけに聞こえるように言ったのだった。
「よかったじゃん」
私は適当な相槌を打つ。
その相槌に対して私はにっこりと笑えるだけ、笑った。気を張らなければ笑顔が出来ない自分に気づいて、喉がひりひりとする感覚を得ていた。
似たような気持ちになったことがあるのを、一つ思い出した。
恋人と付き合う前に抱いていた、誰の手にも入らないで、という浅はかな願いのことを思い出した。それは全人類に向けられた嫉妬のような気配をしていた。漠然とした相手を目の前にして、私はたった一人の恋人に縋るように執着をしていることの証左だった。
それを思い出したうえで、私は自分に問う。
なんで嫉妬してる?
「弥生くん……ずっと私のことを見ていたらしいの。活動だとか、今日の席の位置だとか。昔からいたことも知ってくれててた。だから、私、今すっごく報われた気分なの。もう本当に嬉しい! 弥生くんのこと推しててよかった。応援しててよかったなって改めて思えた日が、今日」
亜沙が篠崎弥生について嬉しそうに語る中で、私は唐突に降ってきた嫉妬という感情に戸惑っていた。
何に? と言われれば思いつくのはこれしかなかった。
篠崎弥生。
彼に嫉妬をしているのだ。
あのステージ上で、もぬけの殻のステージを埋めていたそれを、私は敵視していた。
こうもしている間に篠崎弥生の優しさについて語っていくから、仕様がない。私は眩暈を起こさないようにするので必死だった。
落ち着くために飲んだダージリンの味がしない。
「弥生くん、これからも応援よろしくお願いしますって言ってた。もちろん! って私は答えたよ。だってこれからも、大好きだもの!」
亜沙が嬉しそうにしているのが私の心に芽生えた感情の黒さを物語っている。
篠崎弥生のことをよく知っているわけじゃない。それこそ亜沙が話している程度のことしか知らないので、彼の良い側面ばかりが直撃しているのがさらに厳しい。もし、これで悪い部分を少しでも見つけられたら、私の心は少しだけでも軽くなっただろう。けれどそういうわけにはいかないようなので、私は叫びたい気持ちをこらえるしかなかった。
「アオちゃんのおかげだよ」
善意で彼女はそう話す。
「私のおかげじゃないよ。亜沙が自分で頑張ってきたからでしょ」
「ううん。私一人じゃできなかった。アオちゃんが見守ってくれなかったら、私めげてたかもしれない。アオちゃんがいっつも聞いてくれたから、今こうして弥生くんと……話せたんだよ!」
事実、彼女は嬉しそうだった。
嬉しそうだったので私は気絶しそうだった。私の中にやってきた汚い嫉妬が亜沙に見つからないようにするので手一杯だった。
私は、私はどうすればいい?
本当に喜べない。亜沙がこんなにも笑顔なのに、これからずっと篠崎弥生のことを聞き続けるという予測が――ほぼ正解だろうそれに困惑している。なんだよ。どうしてなんだよ。亜沙と話したいのはこっちなんだよ、と思っているがそれが普通になってしまっている現状を睨んだ。私と彼女のコミュニケーションはバッドに近い。お互い好きなものを語り、時に今の話と遊びに行く話をして、それ以外はお互いに自分の好きなものの話をし続ける。キャッチボールではなくドッジボール。だから私は悔しい気持ちを抱えている。どうしてこんな形式になってしまっていたのだろう。どうして私は篠崎弥生から彼女を引き剝がすことができないのだろう!
私は「そう?」と疑問を口にした。「そうだよ」亜沙は心からの言葉で言う。
「ありがとう、アオちゃん」
そう話す彼女の口から、私の本名が呼ばれたのはもう三年も前の話だった。
亜沙の嬉しさを邪魔することはできなかった。いくら私が嫉妬をしているからと言って、彼女の楽しさや嬉しさというプラスの感情を砕くことは許されない。
電車に乗り込み、私は自分の顔が窓に映っていることに気づいた。向かいの席には誰も座っていなかった。
ライブ帰りの嬉々とした顔ではなかった。誰かを恨む光のない瞳をしていた。
頭を抱えた。どうしてあんな雲の上の人に嫉妬をしているのだろう。私は悔しくなってSNSの、亜沙には秘密にしている非公開アカウントに怒涛の感情を晒していく。誰もフォローしておらず、誰にもフォローされていない自分だけしか知らない感情の変遷を綴っていく。
ひとしきり怨嗟を書き終えたところで、そのアカウントの書き込みを辿ると、亜沙と会えた日には「弥生くんのことでいっぱいでいきいきしてて嬉しい」だなんて、友人としてのプラスな感情が溢れている。
昔はよかった。
今更こんなことに気づくだなんて。
決定的なのは、と考えてすぐにわかった。あの焼肉を奢られた日。篠崎弥生と彼女がつながったというその理解が始まってからだ。
つながるまではよかったのか? ああ、よかった。彼女が掴めない男を一生懸命支えようとしている、その健気な様子を見ているのが、優越感ではない、努力を感じてよかったのだ。彼女の真面目な性格が出ていたから。彼女の良いところが篠崎弥生に注がれていたから。
私はそうだそうだ、と頷いて、こうも言い換えられる篠崎弥生を恨んだ。
手を出した。
ファンとアーティストという境界を超えた男だ、と汚いラベルを貼った。
そうしないと狂いそうだった。
地元駅に到着するなり足早に家に急いだ。ベッドに飛びつきたかった。
「ただいま……」
防犯のためにいつも言っている帰宅の台詞を口にする。
真っ暗な廊下を進み、部屋の明かりをつけずに推測でベッドに飛び込んだ。
推測は当たっていた。私は見事にベッドに飛び込み、頭をぶつけた。勢いがついていないことだけが救いだった。じわじわと痛む頭を抱えながら、すう、と息を吸い込んで吐いた。
どうしてこんなことを思っているのだろう。
亜沙の幸せを実直に祝えないのだろう。
一生懸命頑張ってその地位を――アーティストに個人として見られ、認められるという彼女にとっての偉業を達成したはずなのに、私の心だけが晴れない。もっと彼女を称賛すべきなのだ。そうやって彼女を褒めたたえて、さらに笑ってもらい、私も笑顔を享受すべきだ。それが友人というものだから。
けれど今の私の心の中にはどす黒い何かが埋め込まれている。何か、ではない。私は知ってしまっている。これは嫉妬で、どうしようもないもので、私の奥深くに根付いてしまっている。だから、どうしようもない。私はこの嫉妬と向き合わなくてはならない。
亜沙のことが好きだ。
亜沙の幸せを、さいわいを願いたい。
けれど、あのアーティストは――篠崎弥生は邪魔だ。
彼でない人だったら快く祝えたのか? という問いかけが浮かんだけれど、私は素早くNOを突きつけた。そうじゃない。篠崎弥生でも、他のものでも、私はきっと嫉妬をする。
私が何も気にせずに手に入れたはずの、彼女に込めた感情と地位を脅かされたくない。そこに努力はない。苦労もない。なるべくしてなっただろう運命的な私たちの関係に、土足で踏み込んできたのは篠崎弥生だ。だったら、篠崎弥生でなくとも私は必ず嫉妬をする。亜沙の心を支配するものに嫉妬をする。
悔しくてたまらない。
私は思い切りベッドを殴った。ぼふん、という音がするだけだった。
起き上がって照明を付ける。荒れもしていない部屋があり、カフェで軽い食事をとったはいいものの、すっきりしない心がそこにはあった。
もっと私がひがんでいなかったら。
冷凍食品のオムライスを温めている時間に思う。私がもっと素直に彼女のことを想っていたのなら、私はこんな感情を抱かずに済んだのだろうか?
いいや、そんなことはない。そんなことはないだろうから、イラつく。
私にだって亜沙の他に大切な人がいる。恋人がいる。けれど、彼にはこんな執着を見せただろうか。手に入れる前の、誰のものにもならないでという慟哭はあったものの、それ以上に、亜沙に抱えるような幸せを喜べない感情を持っていただろうか。恋人にだったら、私はきっと「よかったね」と言える。だから違う。亜沙とは違うものを恋人に持っている。
亜沙が好きだ。
友人の垣根を超えている。
超えているから、言い出せない。超えているから、言いようがない。
冷凍食品のオムライスを食べた。まったく味がしなかった。
篠崎弥生。
あなたのこととかどうでもいい。篠崎弥生、あなたのこととか、どうでもいい。
私たちにもう踏み込まないで。けれど彼女の星でいて。
恋人に相談をすると「恋に似ているね」と言われた。
彼とは大学時代からの付き合いで、入籍を前提に事が進んでいる。
何事も話せる間柄――というわけではなく、お互いの不可侵領域を守りながら私たちは付き合っている。趣味については言及をしないし、その話題になっても貶すことはない。互いにちょうどいいバランスで、絶妙なそれで生きている。
今日は同居の話になっていた。いつしようか、間取りはどんなものがいいのか、住む場所はどこにしようか、と大学時代にたむろしていた喫茶店で話し込んでいた。
注文した紅茶を片手に彼は言う。「葵がしているのは、多分恋だよ」と。
「秋彦さん、言ってて悲しくないの?」
恋人相手に、他人に恋をしているというのはおかしいんじゃないか、と私は言う。
紅茶派の彼はここのアールグレイが好きだ、と言っていた。今日もそのアールグレイの香りを漂わせながら、頷いた。
「だけど葵がしているのは恋だと思うんだ。別に恋人がいるからって、恋をしてはいけないっていう約束はしていないだろ? 僕はそう思うよ」
「……でもおかしいよ。秋彦さん、あのね。私と亜沙はただの友人で」
「でもその友人が好きなアーティストに嫉妬をしているなら、それはじゅうぶん恋と呼んでいいと思うけれど」
事実なので私は何も言えなかった。私は高くも安くもない適当に選んだ豆のコーヒーを飲みながら、その苦さに自分の思いを乗せていた。
秋彦さんは「そうだなあ」と言い、ふにゃふにゃの笑顔に近い表情で話す。
「葵は暗い感情だって言うけれど、別にそれは僕についてもあるかもしれないわけで……いや、そうあって欲しいというわけではなくて、もしかしたらそうかもしれないだろ? だから悲しむことも、後ろめたく思うこともないと思うんだ」
「でも友人の好きなものを貶めたいと思うような感情って、健康じゃないでしょ」
「健康、不健康は関係がないよ。葵が持っている感情を、それこそ誰も貶められやしない」
きっぱりと秋彦さんは断言した。
「秋彦さんは……やっぱりしっかりしているね。そこが好き」
「どうしたんだよ、いきなり」
「秋彦さんのお兄さんの春夫さんもしっかりしていると思うけれど、あなたはもっとしっかしてる。だらだらとしないし、誰もないがしろにしない。私とは大違い」
あはは、と秋彦さんが笑った。
彼は紅茶に砂糖を一つ入れて、くるくると混ぜた。角砂糖はあっという間に溶けた。
「それで、恋の話だけれど」
「ええ」
「別に葵が亜沙さんに恋をしていたって、僕はどうも思わない――は嘘だけれど、いいと思うよ」
「気まずいとは思わないの?」
「いいや? 何故だか僕は葵に捨てられないという自信があるし」
「……堂々としすぎ。秋彦さんの悪いところが全部出てる」
「それはどうも。でも、そうだろ?」
「否定はしません」
「ならそれでいいよ。葵は亜沙さんのことが好きだし、僕のことが好き。僕と将来のことを考えてくれている」
すべて本当のことだと思った。秋彦さんの言う通り、私は彼を愛しているし、きっと亜沙のことも違ったベクトルで、秋彦さんに抱くものとはちょっと違った感覚で彼女を愛している。だから嫉妬をする。
「まるで秋彦さんは私の全部を見抜いているみたい。もしかして、エスパー?」
「超能力があるなら、巧みに使っていたかもしれないね」
「やだ。本当になりそう。超能力者になんてならないで」
「現代にそんな力があったら、権力者だらけになっているよ」
くすくすと笑って、秋彦さんは話を元に戻した。
どこに住もう、どんな家にしよう、家具はこういうものにしよう、と私たちの将来を語り始めた。私はたいていのことに頷き、譲れない部分にだけ噛みついた。秋彦さんは折衷案をきちんと提示してくれた。私は彼のやり口は好きなので、それを真似しながら話を進めていった。あっという間に時間が過ぎていく。
秋彦さんは時々亜沙のことをふっと思い出して苦い顔をする私を「笑って」と諭してくれた。
どこまでも健全ではない感情を、きちんと聞いて受け止めてくれるから、彼は相応に真面目な人間だ。
付き合えてよかった。この先も愛せるのだという保証があってよかった、と私は思えた。
秋彦さんとは夕方ごろに解散した。
今日はまた、亜沙と寿司に行くことになっていた。
焼肉の次は寿司、というのは何故かしっくりと来る順序だった。連続して焼肉を食べるにはもう私たちの胃は逞しくない。
秋彦さんと別れた喫茶店からすぐ近くの、回転寿司で待ち合わせだった。亜沙はもう到着していた。
「アオちゃん」
彼女は長らく、私のことをハンドルネームで呼ぶ。
それについて私は「やめて」とは言えない。彼女は彼女の好きな呼び方で私を呼ぶべきだ。それを私が嫌がっていないのならば、なおさらだ。
今日の名目は先日のライブお疲れ様会となっている。
テーブル席に通された私たちはまずビールを注文して乾杯をした。
ぷはあ、と息を吐き出してから「あのね」と彼女は切り出した。
それはやはり、篠崎弥生の話であり、篠崎弥生がどれだけ最高かを語るものだった。
篠崎弥生は彼女にあれ以上のことはしておらず、連絡も公式アカウントから「ありがとうございました」というような感謝の文章しか届かなかったらしい。亜沙の方からアクションを起こすこともなかったので、これで一旦話が終わったということだろう。
「弥生くん、今度また役が決まったの。とっても嬉しい」
彼女の笑みがこぼれていく。
その一方で私は恨めしく篠崎弥生を睨んでいる。
彼は私と亜沙に踏み込んでいる。彼は知らずとも、私はそう思っている。
けれど、彼はもう踏み込めない。私と彼女の関係に、これから発展するだろう関係に彼は到達することができない。
何せ彼は雲の上の人だ。だからここに来ることはできない。地上へ降り立つことがあったら、その時は全力で倒してやる、と私は馬鹿なことを思う。
亜沙が好きだ。
秋彦さんも好きだ。
けれど決定的に違う感情を得ているから、私はどちらも愛している。
それでもいいのだ。
私は納豆巻きに醤油をかけた。とぽとぽと、切れ味の悪い垂れ方をする醤油さしに私たちは笑った。
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