愛とか恋とか知らないよ

伊佐木ふゆ

君の香りが足りない日々よ

 食事が終わるとNetflixでドラマを漁る休日の夜。かおりさんは珍しく「何が観たい?」と俺に聞いてきた。

 食後にメールチェックをするのが習慣なので、ソファから聞こえた声かけに顔を上げるのが少し遅れてしまった。かた、とミスタイプをしてしまう。「ちょっと待って」と伝えて誤字を修正し、ノートパソコンを閉じる。

 暖房で緩く温まったフローリングは素足に優しい。

 かおりさんはソファでくつろいでいた。片手にはリモコンがあり、手持ち無沙汰に右、左とボタンを押しているようだった。少し大きめの、気取った大きさのテレビ画面の中でカーソルが右往左往している。

「珍しいじゃん。聞いてくるの。この前の韓国ドラマもう終わったんだっけ」

「違うよ。最新話の更新がまだなの」

「あーね」

「くーちゃん何がいい? アメリカのにしてみる?」

 彼女の右隣に座ればリモコンを渡される。かおりさんが首を傾げると耳にかけた髪がほろりと落ちた。やけに色っぽい。コンタクトをしててよかった。

 Netflixはかおりさんと同棲をし始めてから導入した彼女向けのサブスクリプションだった。レンタルショップに向かうと深夜に言われて、急いで導入したのを覚えている。二十四時間やっているからって、深夜に行かないでくれと頭を抱えながら早々に契約を済ませた。かおりさんは大層喜んで、日々あらゆるジャンルの映像作品を楽しんでいる。

 この前の休みは時代ものの韓国ドラマ。その前が最近流行りのアニメ作品。もうひとつ前は地上波で放送していたドラマの番外編。なんでもあるんだね、とかおりさんは微笑む。「レンタルショップよりあるね」と言ってから「えっちぃのはないけど」と付け足していた。

 もう一年か、とNetflixの作品紹介に記載されている製作年を眺めながら思う。ようやく一年のかもしれない。まだ、わからない。

「俺、こういうのよくわからないって」

「知ってる。くーちゃん映像作品観るの苦手だもんね」

「そうだよ。読書と勉強以外でじっとしていられない」

「仕事中は椅子に張り付いているみたいなのに、不思議。適当な動画とか流しながら仕事すればいいじゃん。せっかくの在宅なんだから」

「環境音の動画なら流しているよ」

 ほら、とリモコンにあらかじめ用意されているYouTubeのボタンを押して履歴を表示してみせる。雨音やカフェによく流れていそうなBGMを紹介する動画が表示されたのを見て、かおりさんは顔を顰めた。

「おっきな画面が泣いてるよ」

「泣かせたいわけじゃないし」

「でももっと使ってあげれば良いのに。買ったんだからさ」

 まるで最近購入したかのように彼女が言うので、宙に浮いたような気分になった。かおりさん独特の不思議な世界観が始まってしまった、と思いながら俺はNetflixのボタンを押す。

 かおりさんは俺の方に頭を預けた。同じシャンプーを使っているくせに、彼女の頭髪からはいつも素敵な芳香がしている。

「使ってあげれば付喪神になるよ」

「いつの時代だよ」

「今だってあるでしょう。現代妖怪みたいな」

「付喪神は江戸時代だと思うけど」

「あ、じゃあ心霊ものを観ようよ」

「却下」

「なんで!」

「一人の時に怖い思いをするのはイヤだ」

 彼女にリモコンをとられないようにしながら、カーソルを動かす。心霊ものを避けるように、なるべくショッキングな映像がないようなものを選ぶ。そんな取捨選択をしていると、勝手に恋愛ものばかりが一覧に表示されるようになってしまう。

 別に俺は恋愛ものが好きではないので、どうしようかな、と思っていると「あ」とかおりさんが呟いた。

「これがいい」

 カーソルが示しているのは、日本映画だった。

 何年か前に公開されていたらしいその映画は、俺の全く知らないタイトルだった。彼女曰く「そこまで有名じゃない映画」らしく、出演している俳優も名の知れた人物はいなかった。監督もよくわからない人で、俺は楽しめるだろうかと少し不安になりながら液晶画面を見つめていた。

 八十分と少々の映画は、まあ、普通だった。

 ありきたりなラブストーリー。幼馴染みとその成長について。愛と恋のわからない胡乱な人々に、少年少女はかくあるべきとニーチェよろしく語っていく。じゃあそれを少年少女が体現できているのかというと、矛盾が生じている状態であったから、さらに苦しむ少年少女。いつしか二人は大人になっては、愛と恋とをまた語る。

 恋があって愛と成った。愛があって恋と成った。その順序こそが大切なのだと元少年少女は結論づける。

 だから、この物語はおしまい、とあっけなく物語は閉ざされる。

「わたしさ。普通にいいなと思ったんだよね」

「この二人が?」

 エンドロールの最中に彼女は呟いた。ずっと彼女は俺の方に頭を預けたままだった。正直、重かった。

「そう」

「どこが?」

「わかんない。わからんちん。ただ、いいなって思っただけ」

「ふうん」

 俺は納得したような声を出してみたけれど、実は何もわかっていない。かおりさんの感性にはたまに付いていけないことがある。

「いつこの映画を観たの?」

「いつだったっけなー。何か歩いてたら小さな劇場でやってたんだよね。で、なんかいいなって思って入っちゃった」

「映画をいいな、と思って?」

「こんな小さな、街の片隅にある映画館で映画を観る休日って、いいなって思って」

 お気に入りのソイラテ片手に映画館へ吸い込まれていくかおりさんが想像に容易く、笑ってしまった。

 かおりさんは身体を起こして背伸びをした。食事が終わって八〇分と少し。まだ眠るには早い時間だった。風呂も終えているし、明日は俺が仕事だけれど、かおりさんは休日だ。

「もう眠ったら」と疲れているだろうかおりさんに言おうとした。しただけだった。

 エンドロールが終わった途端に画面が切り替わった。少年少女が、大人になった姿でゆっくりと手を結ぶ。キスをするのかしないのか、不思議な具合で顔を近づけて鼻先が触れ合うシーンで、今度こそ本当に映画は終わってしまった。

「……やっぱいいね、これ」

「どこが。猫みたいじゃない?」

「猫みたいだからいいんだよ」

 動物みたいなやりとりのどこがいいのだろうと考える。鼻先が触れ合ったら、俺はどうするのだろう。鼻先が触れ合って、くすぐったい思いをして、くすくす笑い合うような気がした。かおりさんはきっと「ちゅーするか?」と言う。間違いない。

「さて次は何観ようかな」

「かおりさん」

「なあに」

 少し身を乗り出して、くい、と顔を近づける。部屋の照明は全て点いているので、顔は近づけやすかった。

 鼻先が触れ合う。息を感じて、少し離れる。

 もう既にかおりさんは意図を察して、爆笑しそうな顔になっている。むず痒くて、くすぐったくて、こそばゆいよな、と頷きながらもう一度鼻先を触れ合わせるなどする。やはりなんとも言えない感触がする。息をしていることだけしか、わからない。

 むふふ、とかおりさんが笑った。もう無理らしい。

「なに、くーちゃん。感化されちゃったの」

「どんな気持ちかなって思っただけだよ」

「センチになっちゃった?」

「なってない。かおりさんこそ」

「私はあの映画のこと、いいなって思ってるから、嬉しいけどね」

 もう一度むふふ、とかおりさんは笑った。

 数秒の間を空けて、かおりさんは何もしない俺にしびれを切らしたのか鼻先を触れ合わせてきた。それから彼女はまた俺の方に頭を預けて、上目遣いで言う。「ちゅーするか?」ああ、やっぱり。俺は何故か安堵して「する」とそのままに答えてしまった。

 それから俺たちはもつれあって、結局ベッドに移動して一からやり直そうという話になった。明日が休日だからセックスをしても良いという条例は誰が定めたのか、なんとなく俺たちの間に存在する決まり事になっていた。じゃあ翌日が仕事ならセックスをしないのか、という問いかけにはキッパリとNOを言い渡す。そういう決まりを守れない日だってあるのだ。

 目覚めるときっと裸のかおりさんがいるのだろうな、と思いながら眠る。ただただそれだけが愛おしい。滑らかな肌の、きめの細かさを毛むくじゃらの脛でなぞりながら思う。俺はきっと幸せ者に分類される。

 鼠色のカーテンの、さらに奥にある雨戸の向こうに見えるだろう月を思いながら俺は目を瞑る。隣ではかおりさんがすうすう寝息を立てながら眠っていた。

 その日の夢は平凡なものだった。八十分と少しの映画の残滓が色濃い夢だったので、寝ぼけながらあの映画の内容をなぞっていた。

 確かあの映画では、まず目覚めると幼馴染みが隣にいないことに男子が気づくのだ。幼馴染みである少女と眠っていたはずなのに、起きるとどこにもいないから、探し始める。探して、探して、結局バルコニーで隠れている彼女を見つけて「おはよう」と口にする。

 俺はまず起き上がり下着を身につけた。かおりさんは何故か俺にボクサーパンツを穿くことを依頼したのをよく覚えている。彼女曰く、下着はフィットするものがいいでしょ、とのことだった。俺はどちらでもよかった。どちらでも良いけれど、かおりさんが、恋人が選んだものの方が良いのだろうと思っていたので彼女の言う通りにした。

「かおりさん」

 枯れかけの声が室内に響くも、返事はなかった。当然のように彼女の姿もなかった。

 下着と適当なボトムとトップスを身につけ、とぼとぼと部屋を出る。脱ぎ散らかした昨晩の服たちが散乱しているのを回収しながら、まずは洗面所に向かう。フローリングは春だというのにやけに冷たかった。

 とりあえず洗濯籠の中に衣類を投げ込み、顔を洗った。かおりさんが愛用しているスクラブ入り洗顔を拝借する。彼女は接客業をしているので、顔を整えなくてはいけないのが面倒だとずっと溢していた。

 ちくちくと剃刀負けしている部分がスクラブに反応して痛かった。

 かおりさんが話していたのを思い出す。「くーちゃんはこっちの洗顔ね」そう言って用意してくれた泡状の洗顔フォームのことを、ずっと忘れていた。たった三日前の話だった。

 化粧水と乳液をつけながら、鏡を凝視していた。明かりをつけていない洗面所の、妙な薄暗さの向こうでかおりさんがのんびりと暮らしているのではないかと思っていたからだ。そんなことはなかった。ただただ自分の姿と開けっぱなしの扉の向こうに廊下があるだけだった。

 映画を思い出す。かおりさんはバルコニーにいる。

 時刻は朝の六時頃だった。マンションの隣に住む人々も目覚め、雨戸を開く頃だった。

 バルコニーにスウェットを着て煙草をふかす彼女の姿を思い浮かべる。着なれた薄桃色のスウェットは、安物なのだと自慢されていた。それは自慢になるのだろうかと懐疑的になりながら、俺はコーヒーを飲んでいた。俺の嗜好品はコーヒーで、彼女は煙草だった。甘ったるい煙を漂わせるかおりさんは、エロティックだった。

 鼠色のカーテンを開け、雨戸の鍵を外す。

 がらがらと音を鳴らしたその先に、バルコニーに、かおりさんはいなかった。

「かおりさん?」

 呼んでも返事はない。当然だ。姿がそこにないのだから。

 万が一を思って、辺りを見渡す。自殺の二文字がよぎったけれど、かおりさんが突然そんなことをするほど思い詰めていたようには思えず、俺はバルコニーを抜けた。

 充電をしていたスマートフォンを手にとる。急いでロックを外し共有しているカレンダーアプリを立ち上げてかおりさんのシフトを確認する。今日は休みだと書かれていた。

 急に休みではなくなったのだろうか。いや、もしそうなったのならば俺に一言書き置きやLINEなどあるだろうし、彼女は朝食を食べてから外に出る。そうだ。食事をしてから外に出るはずなのだ。

 俺はシンクを眺めて、食事の痕跡がないことを確認してから、事態が異様であることに気づき始めた。

 かおりさんが消えた。

 どっと背筋に氷が落とされたかのように凍りついた。わなわなと手が震えていることにすら気づけなかった。

 俺は震える指先でかおりさんへ電話をする。数タップで可能なはずの連絡でさえ手が震えていて、現状に自分が耐えられていないのだと知らせてくれた。

 他人が、隣人がスッと消える恐怖なんて、どんな映画だ。俺は昨晩観た映画を恨めしく思いながら、コール音に耳を澄ませていた。小気味の良いリズムのコール音が響くが俺は全く安心できなかった。

 結局、かおりさんは応答しなかった。

 かおりさんが消えた。

 まだ決まったわけではないと俺は自分を宥めた。

 ひとまず、メッセージを送る。「どこにいるの?」しつこく聞くのは悪手だと感じて、返答が来るまで待つことにした。

 ばくばくと心臓が鳴っている。

 落ち着くために水を飲んで、ソファに座った。かおりさんとNetflixの話をしたソファに。

 花屋で働く彼女のことだ。仕事であれば仕入れに向かっているのかもしれないし、そうでないなら適当なカフェでくつろいでいるのかもしれない。だから、消えたわけではない。

 自分を安心させるためにかおりさんの私物を確認した。

 洗面所周辺に置いてあった化粧品は一切合切無くなっていた。衣服はクローゼットの中に彼女がお気に入りのものだけなくなっていた。――俺が買ったものは、きちんと残っていた。下着はあった。靴も履き慣れているスニーカーがなくなっている。

 目眩がしそうだった。

 意図的な失踪、という言葉がよぎる。

 どうして? とまず疑問が浮かぶ。彼女の身に何かが起きたというのが妥当な筋だろうが、書き置きなどがかけらもないことが違和感になっていた。切羽詰まった状況だったのだろうか。それとも言うに言えない事情なのか。さまざまな理由が浮かんでは消え、かおりさんならどうするだろうと想像して書き出したそれらにばつ印をつけていく。

 こうして最終的に残った理由が「俺に愛想をつかした」だった。

 端的に言えば、かおりさんに逃げられた――そう考えるのが、彼女らしく、自然なのではないか、と付き合って三年の思考は告げた。

「かおりさん」

 たった三年と呼ぶだろうか。もう三年と語るだろうか。わからなくなって、俺はベッドに身を投げた。

 まだ電灯も点いていない部屋に一人、手に握るスマートフォンが鳴るのを待ち続けている。

 いかにベッドが柔らかろうと、自分を癒やす理由にはならなかった。ぽっかりと、昨晩までかおりさんが居座っていた空間に穴ができてしまったことに、ずっと暮れている。

 悲嘆などではなく、もっと形容し難い感情がそこにはあった。憤怒のような、後悔のような、戸惑いのような。何もかもをあべこべにすると涙も出ないのだなと初めて知った。泣けるうちは大丈夫、という言葉はあながち間違っていないのかもしれない。

 かおりさんに何があったのだろう。

 想像して、何も思いつかない事実に疲弊した。じゅくじゅくと足元から居場所を奪われる感覚がしていて、つま先から液体に変化していくような気配さえした。

 頭の中で巡るのはかおりさんとの思い出ばかりだった。一つ摘まんで思い出すごとにどっと脳が支配されていく感覚を得ていく。かおりさんという悪魔めいた、ウイルスが、いや寄生虫だ。寄生虫がいるのだ。かおりさんはそういう人だった。すんなりと懐に入って、何食わぬ顔で笑っている。

 握りしめたスマートフォンを眼前に持ってきた。

 こういうときに、誰には頼るべきなのかを知らない。妥当なのは警察だろうか。けれど、警察に相談するほどのことなのだろうか。彼女が失踪したとしても、まだ周辺を見て回っていない。走るべきなのに身体が動かない。彼女がいないという事実だけが重くのしかかっている。恋愛小説の一端にある、よくあるのだろう展開なのに、俺にはどうやら耐えられないことらしい。

 SNSを開き、電話帳を開き、誰に話すべきかを考えた。

 家族はありえない。だから、三年ぶりに俺は大学院の友人を訪ねることにした。

 先ほどかおりさんに連絡を取った時と同じようにコール音が響き、大学院時代の友人こと、磯野春夫はすぐに応答した。

「浅田か?」

 磯野はいかにもな寝起きだった。

 俺が連絡してきたことが信じられないようで、もう一度彼は「浅田か?」と問うた。

「浅田だよ。大学院で友人みたいなことをしてた」

「友だちって普通に言えよ。なあ浅田。お前今日がどういう日かわかってるか」

「土曜日の朝七時頃?」

「そうだ。土曜日って言ったら、世間的には休みだよな。お前が前と同じように翻訳の仕事をしているなら、休みだと思うけど、俺はどうだと思う」

「休みだと思ったから、かけたんだけど」

「そうだ。休みだ。休みの日の、早朝だ。どういうことかわかるか」

 沈黙が流れた。

 ああ、と俺は頷いた。

「悪い。時間を置いてまたかけ直す」

「おいおい待て。反省したのならいいよ。俺の起床時間は八時だ。一時間早いぐらい得したと思うことにするから」

「ありがとう」

「で、何かあったんだろ」

 磯野はため息をついてから、何か起き上がるような音をたてて、神妙に聞いてきた。

「……付き合ってる彼女が、消えたんだ」

「はあ?」

「文字通り消えたんだ。彼女が好きな化粧品や服とかを持って、消えた」

「昨日までにそんな兆しはあったのか?」

「なかった」

「警察に連絡は」

「してない」

 それを聞いて磯野は頭を抱えたようだった。一段と深いため息が彼の苦労を知らせるようだった。

「なんでしてないんだよ。事件性がないからか? それも判断つかないのか?」

「悪い。何も思いつかないんだ。磯野しか頼れる人が居なくて、それで……」

「居ないんじゃない。作らなかったんだろ」

 何も言えなかった。交友関係が狭いのは今に始まったことではない。

 複雑な心境になり、閉口していると磯野はやれやれと言わんばかりに「わかった。まだ都内に住んでるんだろ。よく行ってた大学院近くの喫茶店で待ち合わせな」と話した。

「まだ開店時間じゃないのに?」

「開店したらすぐ入れるように準備しとけ」

 磯野は無愛想に言うだけ言って通話を終えた。

 残された俺は天井を見上げ、かおりさんの輪郭が思い出せることにひどく安堵をしていた。

 うずくまっているベッド、シーツ、ブランケットにはかおりさんの臭いが染みついていて、彼女を思い出すのには容易い。けれどもし、この臭いですらなくなってしまったら俺はどうやって――本当に彼女をはっきりと思い出せると、言えるのか。心配しになって少し涙をこぼした。

 漸く泣けた。泣けるだけでじゅうぶんだった。

 磯野との待ち合わせ場所には十五分前に到着していた。

 互いに通っていた大学院のすぐ近く。研究に没頭しながらコーヒーを飲むにぴったりの場所だと言われていた古き良きその喫茶店は、卒業して三年が経過しても繁盛していそうな風貌をしていた。店の奥には何人かの店員がテーブルを拭いていて、時折開店を待っている俺たちを煙たそうに睨んだ。

 磯野は開店の五分前に到着した。

 同じ大学院に通っていたと言えど、彼は社会学を修めている人間だった。一方で俺は語学――翻訳の道を進もうとしていた。たまたま磯野と出会ったのは食堂であったことを思うと、希有な出会いだと思う。

 彼はツーブロックにした黒髪にラウンドタイプの黒縁眼鏡をかけていた。つり目の瞳と似合っていないことはさておき、ジャケットを羽織りVネックを着ている。いかにも儲かってそうな格好をしていた。腕時計もシンプルでありながら高そうなものを身につけていた。

「よう」

「おはようございます」

 右手を挙げてラフに挨拶をする磯野に対して、どうすればいいのか悩んだ結果だった。真面目すぎたらしい挨拶はけらけらと彼が笑うだけで済んだ。

「本当にやつれてんな。今朝消えたばっかりだって言うのに」

 追い込みすぎるなよ、と言いたげに磯野は俺の背中を叩いた。

 その反動で自分の空しさが飛んでいけばどれだけ清々しいだろうと思いながら俺は磯野を見つめる。磯野の黒目が歪んだ。「うわ」と磯野が一歩後ずさる。

「浅田。お前人を殺したから彼女に逃げられたんじゃないのか?」

「殺人なんてしていない」

「人殺しみたいな目をしてるぞ。カフェイン入れて、少しは落ち着けよ。ほら、もう開店するから」

 からん、とベルが鳴り扉が開く。女性店員が俺たちを見て「二名様ですか?」と問う。

 受け答えの殆どを磯野が済ませて俺たちは店内に入った。大学院時代と変わらないコーヒーと煙草の香りがしていたので、なんとなく俺は落ち着くことができた。

 妙に狭いボックス席も健在だったので俺たちはその席を選び、座った。ふかふかのクッションに尻が沈む。

「いつものでいいか」

「あるならそれでいい。モーニングはいらない」

「わかった」

 俺は学生時代に注文していたキリマンジャロを、磯野は店オリジナルのブレンドとモーニングのセットを注文した。ここのモーニングはゆで卵とハーフサイズのトーストが出てくる仕様だ。しかも価格設定が安めなので、学生はこぞってこの喫茶店に通うのだった。

 今日は土曜であるので、学生の姿は見当たらなかった。開店早々にやって来た迷惑な客も、俺と磯野しかいないようだった。

「で、どう消えたんだ」

 どう切り出すべきかを悩んでいるところで、磯野から声がかかった。

 俺は隠すことなくありのままに話した。いつものようにNetflixで映画を見ていたこと、一緒にベッドで眠ったこと。起きると彼女の化粧品やお気に入りの靴、洋服がなくなっていて、食事の痕跡がなかったこと。彼女に連絡を入れても返事が未だ届いていないこと。

 それらをすべて話し終えるまでに、磯野は何度も顔を顰めた。

「かおりさん、ねえ」

 磯野は俺が話している最中にゆで卵を剥いていた。モーニングセットのゆで卵を、丁寧に殻を飛ばさないようにしながら剥こうとするのが磯野という人間だった。

「愛想つかされたんじゃねえの、単純に」

 俺も思ったとおりのことをそのままに磯野は言った。

「でも何も言い残さないのは不思議じゃないか。何か事件に巻き込まれていたりしたら――」

「そんなのは憶測でしかないだろ。共有カレンダーにも仕事が休みって書いてあって、そんな風に消えられたら俺は逃げられたと思うね」

「けれど」

 何度も磯野に反論しようとした。ただ、脳のリソースがない俺にはできなかった。魚のように口をぱくぱくさせて、出ない言葉を反芻するだけだった。

 磯野が目の前でため息を吐く。

「わっかい恋してんなあ」

 彼の話す「わっかい」が「若い」であることに気づくまで数秒を要した。

「若いって、何がだよ」

「なんか……全体的に若いんだよな。まあまだ若いって言い張りたい気持ちはわかるけどよ。相手のことを考えたらそうは言っていられないだろ。かおりさんは二十九歳だっけ? で、俺たちが二十七歳ときた」

「それが何だって言うんだよ」

「焦るだろ。何も進展のない日々を過ごされちゃ」

 ゆで卵を塩も掛けずに一口目を含んだ磯野は、二口目こそ塩を掛けるべくテーブルの脇にある小瓶へ手を伸ばした。

「焦るって、何が」

 結論はほぼ脳裏に描けていたものの、認めたくないのか、まだ脳が動いていないのか。俺は愚かにも磯野に聞いてしまった。

 ぱっぱ、と塩を振ってつまらなさそうに磯野は言う。

「結婚」

 鋭い言葉だった。

「かおりさんとそういうこと、話したことあんの」

「ない。かおりさんからもされたことがないし、俺からも……」

「考えたことは?」

「あ、ある。あるだけで……まだ時期じゃないだろって思ったりして」

「それで三年か。まあわかるっちゃわかるけど」

 決して磯野は「仕方ないな」とは言わなかった。彼が暗に示すのは「でもかおりさんは言って欲しかっただろうよ」ということだった。磯野はゆで卵を食べるのに夢中だからはっきりと言わないだけだった。

 たった二文字のくせに、その結婚というものはかなりの重量のある重しだった。

 かおりさんと結婚したくないわけではなかった。彼女のことを思えば、切り出すべきなのだと思う。三年――は適度な時期なのだろうか。自分の恋愛観が何年もアップデートされていないので、どう語れば良いかを知らない。

 そもそも俺にとってはかおりさんが初めての彼女だったので、何をするにも緊張していたことを思い出す。かおりさんが初めてだった。だから慎重に物事を運ぶようにしていた。慎重すぎたと言えば聞こえはいいが、単に臆病であっただけだ。

 キリマンジャロを落ち着くために飲もうとしても、臭いだけでむせてしまった。代わりに水を飲んだ。

 淡々と磯野がトーストを囓っているので恨めしく思う。友人がこんなに憔悴しているのに。

「睨んでも状況は変わんねえよ」

 俺の思考を読み取ったかのように磯野は話す。

 昔から磯野は何処か達観しているようなところがあった。教授と上手くいかなくても「卒業するまでは我慢する」と言い切って、その通りになった。卒業するまで彼は耐えた。その頃俺は教授以外の人間関係を排他させていた。元々人付き合いが得意な方ではなかったのだ。そこにひょいとやって来たのが、磯野だった。

 磯野は俺から見ると出来た人間だった。とんとんと何かをこなし、問題があればじっくりと取り組む。他人の問題には右から左に聞き流す癖があれど、それは彼が平等なオブサーバーとなっているからに違いなかった。有能な聞き手はモテる。人に求められやすい。だから磯野の周りに人間が途切れることはなかったように思う。

 俺は得意でないものから逃げる癖があったから、他人から逃げるようであった。たまたま磯野と交友があるのだって、学食で隣の席にならなかったらどうなっていたことか。積極的ではないのだ。元からそうだった。遡れば小学生からだろうか。途方もない。

「でも、浅田が彼女を作ってるとは思わなかったな。どうやって出会ったんだ?」

「……マッチングアプリに登録して、それで」

 へえ、と磯野の目が輝いた。

「マッチングアプリ? それはまた……現代的だな。かおりさんは何人目だったんだ? ああいうの、試行回数が命なところがあるだろ」

「一回目だった。かおりさんが一回目で、一回目にしては良すぎる相手だったから、二回目、三回目って別の人に会って……七人目ぐらいでやめた」

「やめたって何だよ。それがどうかおりさんに繋がるって言うんだ」

「やめて、かおりさんにもう一度会った。きちんと言ったさ。初めての相手が素晴らしくて、恋愛経験の少ない俺の勘違いだったらどうしようと思って、また他の人と会っていたんです。でも、あなたがいいです。あなたと付き合いたいです……って」

 話しているうちに自分はどうしてこんな恥ずかしい台詞を口にしているんだ、と正気になった。キリマンジャロのコーヒーを味わいもせずに一気に飲み干す。臭いなど気にしている暇はなかった。

 確かにかおりさんとの出会いは、そんな風な現代的なものだった。

 流石に人と付き合わずに人生を浪費するのもどうかと思って、興味半分で初めてみたのだ。マッチングアプリは動画サイトの広告で最も流れてくるものを選んだ。適当に自分の経歴を登録して、そして調べて話してみようと初めて思ったのがかおりさんだった。

「わっかいな、ほんと」

「馬鹿にするなよ。本気だったんだ」

「でもマッチングアプリなんだから、半分くらいは冗談だろ。相手も同じぐらい適当かもしれない」

「そういう人もいたよ。でもかおりさんは……どうだろう。どっちつかずだった」

 かおりさんと待ち合わせしたのは日比谷だった記憶がある。

 まだ在宅ではなかった俺の仕事に合わせてくれたのだ。「ちょうどその日は休みだから、遊んで待っています」という言葉を信じて待ち合わせ場所に向かうと、真面目に花屋を見つめているかおりさんがいた。

 当時のかおりさんはセミロングヘアで、彼女曰く「伸ばす努力をしていた頃」だったらしい。グレージュの髪が今風に見えて、俺は居心地がきゅうと悪くなったのを覚えている。かおりさんが想像以上に素敵な人だったのだ。話しかけることさ躊躇った。俺はどうすればいいのかわからなかった。

 結局かおりさんから話しかけられ、夕食を一緒に食べることになった。気取った場所ではなく、居酒屋がいいとの話だったので彼女の指示通りになるよう場所を選ぶ。そうしてやってきた場所は、日比谷の片隅にある手狭な場所だった。おしゃれとは縁遠そうな場所に苦笑いしたのは俺だった。かおりさんは楽しそうだった。

 何を話したのか――仕事やどう生きてきたかを話していた。好きな食べ物と嫌いな食べ物の話もした。けれど一番盛り上がったのは花の話題だ。

 昔から花が好きだった。

 母がガーデニングやフローリストの資格を取るほどには熱中していて、少なからず俺もその影響を受けていたのだと思う。父は花というより自然を愛していたように思うが、母のことを止めたことはなかった。肥料を与え、美しく活けることに楽しさを知ったのは小中学生の頃だった。

 そのことをかおりさんに伝えると、彼女はくすくすと笑う。「男の人なのに珍しいねえ」と口にして「この時期は薔薇が綺麗だね」と続けたのだ。六月の半ば。ちょうど彼女の繁忙期が終わった頃だったので、何もかもがぴったりはまっていたとも言える。

 帰り際に「次に会うなら植物園でも行こうか」とかおりさんから言われたので「考えておきます」と俺は言ってしまった。即答はできなかった。自分の臆病さ故に。そして初めて出会ったにもかかわらず、最初の居心地の悪さが消えて軽やかになっていることを受け止めるに時間を要すると思ったから。

 その結果として何人かの女性と出会い、そのたびにばつが悪そうな顔をして相手に謝り、最後に会ったかおりさんにもすべてを吐露して爆笑された。そして俺たちは付き合うことになった。

 三年後、突然彼女が消えるとも知らずに。

「どっちつかずねえ」

「かおりさん以外にも女性に会ったけれど、本気のまなざしだったり、遊びできていますって顔に書いてあったり、まあいろいろあった。でも今思えばかおりさんは……欲が薄かったというか」

「真面目じゃなかったんだな? フランクだった」

「もう慣れきっていたのかもしれないけれど」

「お前は転がされてたってわけだ」

 ぐうの音もでない。俺は静かに頷いた。

 磯野は店員を呼んでコーヒーのおかわりを二杯注文した。

「で? 結局そういう始まりだったにしろ、三年は付き合えたんだろ。終わりが突然だったとしても、だ」

「ああ」

「結構な成果だとは思うけどな。浅田にしては……俺が知ってる浅田にしては、よく長く続いたように思うよ」

 磯野の言葉は少し苛立ちを覚えるものだったが、悪いように言っているのではないことを知っているので何も言えない。

「俺の知っている浅田は、嫌なものから逃げて、逃げられないとわかったときにだけ行動をする奴だ。お前、自分から他人と付き合っていかなきゃいけないことに目を逸らさなかったんだろ。で、実際に三年も一人の女性と向き合ったんだ。よくできたほうだよ」

「でも、俺は」

「なんだよ。俺から結婚の話を聞いて、今更彼女と結婚したいとか思ったとか言うんじゃないだろうな」

「そうじゃない。そうじゃなくて……かおりさんとやっぱり話したいような気持ちになった」

 自分のことを愚かだと思った。失ってから気づくだなんて、本当にフィクションのような話があるのだと思い知る。

 今まさに俺の中にあるのはかおりさんだった。器官が欠けたような感覚をずっと味わっている。彼女が俺の脊髄だった。俺は、彼女とまた話したいと思っている。

 こんな終わりだなんて納得しない。

 唇を噛み締めているとコーヒーが届けられた。「ほらよ」と言われて俺はまたキリマンジャロを飲み干そうとする。磯野が慌てて止めた。

「まあ、明日は幸い日曜日だ。俺も休みだし、付き合ってやる」

「……いいのか?」

「いいよ。お前がこんなに頑張っているのなんて、修論以外じゃ初めてだからな」

「ありがとう」

 俺たちは数年ぶりに握手をした。磯野は昔と同じように手加減など知らない強さでぐっと俺の手を潰した。

 磯野によりもし日付が変わってもかおりさんが帰ってこないようならば警察へ連絡することになった。翌日はかおりさんの出勤日であることを伝えると、帰ってこなかった際に彼女の職場に向かうことも提案された。

 どんな顔で会えばいいのかわからない、と磯野に言ったが彼は聞く耳を持たなかった。磯野曰く「お前の顔とかおりさんのどっちが大切なんだよ」と言う話である。もちろん、後者に違いない。

 計画を詰めていくうちに時間も過ぎ、正午になる前に解散となった。土日であれ妙に混み合いだした喫茶店に長居するほどの理由もない。

 明日の待ち合わせ場所と流れを再確認してから磯野と別れた。

 このまま帰ってもいいのだけれども、腹が減っていた。そういえば磯野は黙々とモーニングを食べていたけれど、自分は何も食べていないことに気づく。

 からからの晴天だった。何かを食べないといけないという使命感に駆られ、スマートフォンを取り出して現在地とランチで検索をする。数軒の店と先ほどまでいた喫茶店が表示されるも、食べたい気分にはなれずじまいだった。結局コンビニエンスストアでブリトーをレンジアップしてもらい、それを食べた。

 こういうときにかおりさんはよく素麺を食べていた。否、一緒に食べていた。どちらかの食欲がないときに、ひょいと取り出されたるが素麺である。胡瓜と白ごま、天かすを添えるだけの簡単なものを作る。素麺がゆであがるまで、やはりNetflixを見るのだ。たった数分のために。そして行儀が悪いと知りつつも、大画面のテレビを見つめながら素麺を仕方なしに啜るのだ。

 かおりさんが悲しそうに眉を下げながら言う。「くーちゃん、これ美味しい?」俺も食欲があまりない時だったので「まあまあ」と返す。彼女は「なら、いっか」と頷いて残りの素麺を啜った。

 風鈴の音が響く日も、響かない冬も、そうやって過ごした。コンビニエンスストアに行くのはいつも深夜だった。近くのスーパーで買い物をするのがルーティンだった。ブリトーだなんて、久しぶりに食べた。

 たったそれだけのことで泣いてしまいそうな自分を認めて、電車に乗り込む。隣に座っていた少女らのグループは正午から涙を堪えている俺を見て、妖怪でも見たかのようにぎょっとしていた。

 家は暗いままだった。

 オートロックのマンションに住んでいるので、試しに部屋番号を認証させて部屋の中を窺ったものの、誰も応答しなかった。かおりさんが誰かに合い鍵を渡したという情報はないので、やはり彼女が帰っていないのは間違いない。

 俺は玄関で座り込んだまま、かおりさんに連絡を入れようとスマートフォンを取り出す。しかし何度コールしても出てはくれなかった。留守番電話サービスに繋がったところで俺はメッセージを残さずに通話を終了した。

 部屋の中を暗いままに「かおりさん」と呼んで進むことの愚かしさに涙が出そうだった。それでもやめられなかった。

 腹や、心臓や肺に穴が空いたような感覚を得た。

 その日は眠り続けるだけで終わってしまった。寝過ぎないようにとかけたアラームは大して効力がなく、結局翌日の朝になってしまった。

 磯野にそのことを話すと「眠れた方だけマシだ」と一蹴された。

 待ち合わせはかおりさんの職場すぐ近くのファミリーレストランだった。数年ぶりに入ったその系列店は、メニューが驚くほど変わっていて混乱した。磯野には「お前が世間に疎すぎる」と、また蹴られた。

「起きれたのもすごいと思うけどな。だから待ち合わせ午後にしたのに、意味なかったか」

「いや、ゆっくりできてよかったよ」

「かおりさんには連絡したのか?」

「帰ってからと、起きてからとの二回。返事はまだなし」

「じゃあやっぱり強硬手段だな。職場に突撃するぞ」

 淡々と磯野は言った。

 ぎゃー! と子どもが泣いている声がレストランに響く。

「……いいのかな」

「何がだよ。浅田、お前が昨日言ったんだぞ。かおりさんと話したいって」

「だけど、悩むだろ。消えたのに追いかけられて、職場に来られて。びっくりするし、ショックを受けるかもしれない」「そんなの気にしてられるかよ」

 ドリンクバーから適当に選んだウーロン茶に視線を落とすと、磯野は俺が注文したはずのハンバーグを一切れ奪っていった。

「かおりさんが消えた理由が知りたいなら、かなぐり捨てるってことを忘れろよ。俺には浅田が怖がってるようにしか見えないぜ。怖じ気づいてるだけに見える」

「磯野はもし俺の立場だったら怖くないのか?」

「怖いだろ。怖くて堪らないけど、好きな女が消えた方が重要だろ」

 きっぱりと磯野は言い切った。

 俺は唾を飲み込み、泣きたくなった。ずっと泣きたい気持ちでいっぱいだった。かおりさんが消えた理由が、殆ど俺にあるような、いや、きっとそうだと思い込んでいるから苦しい。けれど彼女自身に理由があるようにも思えなくて、自分の妄想と現実が一緒になるのを恐れている。

 しかし、この場をどうにか逃げたとしても俺は一生悩み続けるに違いない。永劫涙を堪える人生が待ち構えている気がしてならなかった。得体の知れないかおりさんの影が、俺の足元にずっと居続ける。

 着ているシャツをぐしゃぐしゃに握り、喉から絞るように声を出した。

「嫌われるのが怖い」

 ただそれだけだった。

「今更かよ。もうかおりさんは、お前のこと終わってると思ってるかもしれないって言うのに」

「思ってても言うなよ! お前、俺がどれだけかおりさんのことが好きか知らないだろ!」

 責める声が大きくなる。両隣に座っていた客たちが俺を一瞬だけ見たので、俺は小さく会釈で謝罪をした。

 情けなくなって、顔を覆った。

「嫌われたくないんだよ。わかるだろ? 磯野にだって一人ぐらい、いるだろ。そういう人が……」

「……初めての人だからか?」

 磯野が静かに言う。

 初恋と呼べば聞こえが良い。だが頷けなかった。初恋とは違うものが自分に渦巻いていることは確かだった。初恋なんかじゃない。彼女はもっと日常的で、神格化もされなかった。かおりさんを言葉にしようとするたび、花の名前が浮かぶ。ガーベラ、マリーゴールド、サフィニア……決して珍しいわけでもなく、そこに飾られている花に等しい。彼女はぽつんとやって来た日常だった。俺の想像する女性像にぴったりの人間だった。だから好きだった、そうだろうか? 俺は彼女がまさしく女性だったから好きだったのか? 違う、違う。俺は首を振る。

 かおりさんは、日常で、華やかではないが美しい人だった。どこか抜けていて、けれどそれが達観しているように思えて、俺は度々年下であることを思い知らされた。悔しくなった。魅力が欲しかった。そのたび止められた。「くーちゃんはそのままがいいってえ」という伸びた語尾に安心感と焦燥があった。俺はかまけていたのだ。彼女の言葉を子守歌に。

 飽きられるのも当然だった。

 さらに泣きたくなった。もう泣いていた。ほろほろと涙がテーブルに落ちても、磯野は決して俺を責めることもせず、なだめることもしなかった。

「まあなんだろうと、きちんとどういう理由かわかったら、話ぐらいは聞いてやるから、いってこい」

 磯野はタオル素材のハンカチを俺に渡してスマートフォンのスリープモードを解除した。画面に映し出されているのは磯野と相談したかおりさんの職場への突撃時間だった。

 ずび、と鼻を啜り、ハンカチで乱暴に顔を拭いた。

「いってくる」

 彼は何も言わなかった。振り返ると小さく手だけを振っていた。

 駅近くのビルの二階。ちょうど人の行き来がある歩道橋に面している花屋がかおりさんの職場だった。

 店先にはかおりさんがいた。彼女は変わらない姿だった。笑って接客をしているので、悲しんでいることはなかったのだと何故か安心した。

 近づくのは怖かったが、店に向かわねば何も始まらないので今にも嗚咽を漏らしそうになるのを堪えながら向かった。

 彼女のボブヘアがふと揺れたと思えば、目の前にかおりさんがいた。

 訳がわからず尻餅をついた。

 人々が行き交う歩道橋の隅とは言え、突然人が尻餅をついたのだから何人かはこちらを見た。彼らは俺の目の前にかおりさんがいることに気づき、すぐに視線を逸らす。

「来たんだ」

 嬉しそうな声ではなかった。

「うん」

「あともうちょっとで仕事終わるから、上のカフェで待ってて。聞きに来たんでしょ」

「そう……そうです。かおりさんが、消えたから」

「そう」

 かおりさんは穏やかに微笑んで花屋の二階にあるボタニカルカフェを指した。提携しているカフェはドライフラワーが飾られていて、女子に人気だと聞いている。そうかおりさんが話していたのを思い出した。

 頷いて、俺はカフェに向かった。かおりさんはすぐさま、やってきた客に「いらっしゃいませ」と話しかけていた。

 階段の入り口から看板通りのボタニカルな雰囲気を醸し出しているカフェには、女の子がごった返しの状態だった。

 植物の華やかさと生臭さの間に、女の子特有のふんわりとしたそれがやってきて、鼻腔が渋滞を起こした。

 しかし不思議と席を待つ人々はおらず、運良く二人席に座ることができた。窓に近く壁際の、奥まった席だった。店の名物であると言うノンアルコールのモヒートを注文して、そのミントの強さに軽く涙を流す。これがかおりさんと話すまでの、最後の涙にしようと強く決意した。

 案外早くかおりさんはカフェの方へ上がってきた。

 少し崩れたヘアスタイルと化粧が彼女の重労働を物語っている。口紅だけは塗り直したのか艶やかだった。

「ごめんねくーちゃん。待たせちゃった」

「一時間も待っていないから、大丈夫だよ」

「あ、モヒートだ。私も同じのにしようかな。グリーンアップルモヒートにした?」

「え? あ……いや、普通のに、した」

「そっか」

 どこか悲しそうにかおりさんは頷いた。

 どっと汗が噴いて出た。

 間違ったのだと思った。俺は、間違った。そのことに気づいて、謝ろうとしたけれど、既にかおりさんは何かを口にしかけていたので俺は発言権を失っていた。

 ざわざわと飾られている植物の蔦が絡んだ壁の向こうで、女の子たちが話していた。内容はわからなかったが、壁があるくせに俺たちのことを話しているような気がしてならなかった。

「くーちゃん、大変だった? 私がいなくなって」

「大変だったよ」

 そうとしか言えなかった。たった二日間の不在に、心が掻き乱される程度には参っていた。

 それをどう説明すべきか悩んで、結局閉口した。

「かおりさんは、大丈夫だった? その、俺がいなくて」

 問われたら問い返すべきだろうと思って、愚かなことを問うた。

 彼女は店員が持ってきたグリーンアップルモヒートを受け取るところだった。かおりさんは、ストローの包装を破きながら「全然」と言った。

「友だちのところにいたし、そんなに困らなかったかな。シャンプーが初日合わなくてびっくりしたぐらいで、それ以外は」

「そう」

 俺は俯いた。何も言うことが無かった。

「ねえくーちゃん。わかってると思うけど」

 ぐっと目を瞑った。耳も塞ぎたかった。けれどそんな子どものようなことは出来なかった。

「別れよう」

 真剣だった。かおりさんは両手をテーブルの上に置き、真摯に俺を見つめていた。本気かどうかなど関係がなかった。

 だから余計に俺は、想像がそのままに現実へやってきてしまったことに戸惑ってしまう。

「なんで。なんで……理由は?」

「理由ってそんな。聞きたいの? なんかわかってそうだなって顔してたのに」

「一応、今後のために……」

 嘘だ。反論ができるのならして、取り繕いたいだけだった。

「くーちゃんが真面目すぎたからかな。うん。真面目すぎて、少し安心してて、それで……つまらなくなっちゃった」

 かおりさんは淡々と話す。

「最初、マッチングアプリからだったでしょ。正直私にとっては遊び半分で、体の相性とかその辺から、まあいい人がいたら付き合うぐらいに思っていたんだけど、あなたはかなり正直に、真面目に付き合う人を探していて印象的だったのね。それから気になりはしていたんだけど、二回目の……もう一度会いたいですって連絡で、あ、ちょっと遊ぶのやめて付き合おうって思ったの。一生懸命私に好かれようとしているのが見え透けてて、悪い気はしなかったし」

 だからかおりさんはどっちつかずの人だったのか、と思い出す。がっついたりしなかった彼女のことを思い出す。そして今のかおりさんと、温度感が違うことに気づく。今の彼女はもう、俺を見放しているようだった。

「別に好かれようとする努力を永遠にしろってわけじゃないの。ただそれってすごく疲れるし、一方的でつまらないじゃない。好きですってお返しが来たら、ああ僕は頑張らなくていいんだっていうわけじゃないでしょう。付き合ってその先に進むとしたら、あなたは一生頑張り続けるの? そしてそれに私はお返しをしなきゃいけないの? そう思っていたら、なんだろう。すっごく不健全なように思えたの。あんまりいい関係じゃないなって。自然体を好かれるのが一番だって言うけれど、その自然体が気を張ってるんだよね。くーちゃんの場合は」

「好きになったら、頑張る……その人のために頑張ろうと思うのが、普通なんじゃないの」

「それはちょっと子どもだな。父親になったら違うかもしれないけど、普通はね、常に全身全霊なんてかけないよ。適当でいられる姿に落ち着くまでは必死かもしれないけれど、それからは、ゆったり」

「そうしているつもりだったんだけど」

「どこが? くーちゃん、余裕いっつもなかったよ」

 きっぱりと彼女は俺を切る。

「今も泣きそうだし」

 かおりさんはからからとストローでモヒートに使われているクラッシュアイスを弄ぶ。

「好かれたくないわけじゃないのよ、私だって好かれるなら好かれたい。でも方法が真面目すぎ。それに最近のくーちゃんは、安心しきっていてよくないな」

 すー、とモヒートが一気に吸われていく。薄緑色の液体がどんどんなくなって、ミントの緑しか見えなくなってしまう。

 顔を上げるとかおりさんはじっと俺を見つめていた。

 柔らかく彼女は微笑む。

「私が手に入って安心するのはいいけど、大切にしようとは思ってくれなかったのね」

 刺された感触がした。

 もちろん妄想だ。彼女と俺の間に刃物は存在しないし、腹部にも胸部にも彼女の手は届かないだろう。けれど、間違いなく彼女は俺を刺したのだ。

 終わらせるために、きちんと刺した。

「結局くーちゃんは、私のことが好きな自分が好きなように思える。ちょっとそういう人とは、付き合えない。三年かけて気づいてしまって私も遅かったなって思うけど、そこは許して。家からはもう必要なものは殆ど回収したから、もう行くことはないと思う」

「ま、待って。待って、待てよ。かおりさん、そんな」

「待たないよ。私には時間がないし。結婚もしたいし。くーちゃんのこと慰めてる時間なんてないよ」

 彼女は伝票を手に取り、立ち上がる。俺も立とうとしたけれど上手くいかず、転びそうになった。

 愚かな俺を見て彼女は最後に笑った。

「ばいばい。楽しかったよ。今までありがとう」

 小さく手を振って彼女は会計に向かってしまった。止めることができなかった。

 俺はただ、そこに取り残された。

 椅子から妙にはみ出た尻をきちんと椅子に収める。目の前にあるモヒートは八割の残量があるものの、もう飲める気がしなかった。

 辺りで女性の会話が聞こえる。しかしそのどこにもかおりさんは見つからない。

 俺の頭の中で反響している声だけが正しかった。

 俺と彼女は、別れたのだ。今日、正式に。

 磯野は呆然としている俺を見て何もかもを察したようだった。彼は「話せる時になったら呼べよ」とだけ言って俺を見送った。

 俺はひたすら放心していた。生気のない顔で、幽霊のように家へ向かっていた。何もかもが信じられなかった。否、きっと気づいていたのに見なかったふりをしていた。現実逃避がうまかった。そういうことにしておかないと、どうにかなってしまいそうだった。もうなっていた。

 家に帰っても鍵をかけたのかもわからないままベッドに平伏すだけで、何もできなかった。着替えも、風呂も、食事も忘れて眠った。翌日仕事であることだけは理解していて、起き上がらなくてはいけないから、そのためのアラームだけセットした。

 眠りにつくまでも長かった。あらゆる物事が浮かんでは消え、それらが全てかおりさんに関係する出来事ばかりであったから、走馬灯のようにも思えた。別に死ぬわけじゃない。人に振られた程度で人間は死なない。だというのに俺ときたら、世界の終わりのような覚悟をしていた。きっと明日には世界を揺るがす滅亡論が跋扈し始めて、何もかもを変えていく。そう思わずにはいられなかった。そう思わなくてはやっていけそうにもなかった。

 ベッドには彼女の残り香があった。ありそうな気がした。そんな事実は存在しないのに、勝手に心が彼女を求めて仕方がなかった。

 自分の野暮ったさと、薄暗さに嫌気が差す。男らしく割り切れないだろうかと、考えもしなかったことが浮かぶ。彼女じゃなくていいだろう。かおりさんではない人だっている。その現実さえ飲み込めない子どものように泣きじゃくりながら、眠れるその時を待った。

 結局眠れたのは朝方であり、寝起きも悪かった。こんな睡眠は初めてだったが、仕事はどうしてもやってくるので、どうにか起き上がろうとする。右へ、左へ動き、みじろぎをしながらベッドから這い上がる。立ち上がったはいいものの、どうしても後ろへよろめくので、倒れる。

 頭をぶつけることはなかった。高校の頃に柔道が必修でよかったと思いながら、受け身を取った。けれど俺は、天井を見ながらこの滑稽な様子を笑ってくれる人を失ったのだとつくづく痛感して、また泣きそうになった。

 世界の中心には、きっと彼女がいる。かおりさんがいる。そんなことを思いながら、一人虚しくもう一度立ち上がった。

 食事は簡素に卵かけご飯を作った。醤油を一回しして、レンジアップした冷凍ご飯に卵をかけるだけ。適当にニュースを見ながら、在宅の仕事の準備をする。

 ニュースを読み上げるアナウンサーが告げる。「今日は快晴です」洗濯物を干さないと、とすぐさま思ってしまう。もう家には一人分の洗濯物しかないというのに、どうすればいいのか。急いで干すほどの量もないというのに。

 俺は一心不乱に仕事をした。

 仕事は翻訳をしている。久しぶりに目の前の異国語と戦うことがどれだけ難しく心を占領するかを思い知らされた。単語と向き合っているときはかおりさんのことを思い出さずに済んだ。かおりさんが心の何処かに追いやられるのはさておき、思い出さずに済むということが今の自分にとってどれだけの効果であるかは計り知れなかった。頭の中が軽くなったような感覚を得ながら、辞書やメールを使い仕事をこなしていく。いつまでも仕事が出来そうな気配さえしていた。

 ただ、人と何かやりとりをする場面でだけ、かおりさんは現れた。リモート会議や電話の最中、ふっと目の前に登場する彼女は悪魔のようだった。夢中になっているから気づかないはずのすべてを思い出させて、俺の目頭を熱くさせる。どうしてこんなときに、と思いながらもまだしっかりと彼女の輪郭が思い出せることに安堵していた。

 まだ別れて一日目だというのに、どうしようもなく遠い存在のように思えて仕方が無かった。

 仕事に熱心になればそれだけ時間が進むのも早く、俺は結果として午前九時から午後十八時まで多少のセンチメンタルを患いながらも仕事に励んでいた。理想的なスタイルの仕事っぷりに自分でも驚きながら、昼食を抜いていたことを思い出す。コーヒーやれ水を飲むことはしていたものの、腹が一切空いていなかった。質素な卵かけご飯だけが腹を満たしていると思うと、なんとも言えない気持ちになった。あの量で夜まで持つだなんて、省エネだと思ってしまう。

 無音の中で暮らしていた。音楽は決して俺の人生の中では必須のものではなく、雑音程度がちょうど耳障りが良いものだった。だから仕事中もホワイトノイズなどをかけていたはずだったのだけれど、今日はそうしなかった。ただひたすらに自分のキーボードを殴るタイピング音がしきりに聞こえていて、時にマーカーが紙をなぞり、キャップが転がり落ちる。その程度の音がしていた。それが良いのかどうかは、知らない。

 仕事を終えて立ち上がろうとすれば、強張った筋肉がぴくぴくとけいれんしているようだった。

 ほんの少しでも気分が晴れたので、磯野に連絡を送る。彼は俺のことなど気にしていないような文面で、俺からの連絡に安心したと書いていた。その素っ気なさに救われたような気分になり、俺はその日初めて口角を上げた。

 風呂を沸かす気分になれず、シャワーで済ませる。夕飯を食べることを忘れ、ベッドに突っ伏す。

 眠ることを繰り返せば彼女が忘れられるだろうことを期待しながら、その日を暮らしていく。

 何日も何日も繰り返せば彼女のことが薄れる気がしていた。臭いと同じだ。最初は気になるけれども、徐々に慣れていって気にならなくなる。最初だけだ。最初に苦しいだけで、慣れてしまう時がある。

 だが、されど臭いだ。たまに思い出したように苦しめられる。俺は時折、ふとしたことでかおりさんのことを思い出していた。ニュースで季節の花の紹介があったり、彼女が着ていた服をタンスから見つけてしまったり、彼女が残した日用品の数々を目にして、彼女という臭いを思い出す。芳しい、とは今更言えない。俺はそれすら彼女に言えずに終わっている。

 次の休日、俺はかおりさんが残した一切合切を捨てる決断をした。

 誰も呼ばなかった。ただ一人でかおりさんと向き合い、死のうと思った。自殺ではなく、今までの自分を殺すつもりで片付けをしなくてはいけないと思ったのだ。

 午後にさしかかるまでが勝負だと思ったので、実行は朝早くから行われた。日曜の出来事だった。

 月曜日に燃えるごみの回収が行われるので、そのために日曜決行にしたと言っても過言ではない。とにかくごみ袋の中に、ある程度の区別をつけながらどんどん物を捨てていく。彼女が残していったものをすべて詰めていく。感慨深くなる前に、見えなくなるよう捨てていく。

 洋服、歯ブラシ、化粧水、雑貨、プランター、彼女しか使わない調理器具にアイロンやドライヤー。

 捨てていく内に気づいたのは、この部屋の殆どが彼女に占領されているということだった。彼女は俺の生活を蝕んでいた。中心に置かれているようなものだった。俺の名義で借りている部屋なのに、と思いながらどんどん捨てていく。

 けれどそれも楽しかったのだ。心の中に誰かが入ってきて、それが許せる人間だったということが。

 花をプランターごと捨てる時にはかなりの勇気が必要だった。草花は愛すべきものという母からの教えが眩暈を起こす。決して俺は悪いことをしているわけではないのに、罪悪感がやって来たのでなんとも形容し難い気分になった。

 土ごとひっくり返されたプランターの底に草花はめちゃくちゃになって捨てられていた。先ほどまで美しかった花も、土にまみれてその面影がない。かおりさんと正反対だった。彼女は今も俺の中で咲き続けている。彼女に土を被せる日はやってくるのだろうか。わからない。

 俺は必死だった。どんどん捨てた。二リットルしか入らないポリ袋は六つの大きな山を作り、すべての口を硬く縛った。もう二度と開かないように祈りながら俺は閉じた。

 マンションの六階に住んでいる。六つになったポリ袋と何か縁がありそうだと思いながら、重たい袋を引きずった。一つずつを降ろし、ごみ捨て場に持っていくことにした。

 ごみ袋の重さは様々で、軽いものもあれば極端に重いものもあった。最低限の分別しかしていないため、とにかく乱雑に放り込まれたごみ――かおりさんの物品は、様々だった。俺はそれらの姿を見ないようにしながらごみ捨て場に向かう。

 ごみ捨て場には誰もいなかった。明日が燃えるごみの回収だと誰もが知っているので、既に置かれているごみもあった。俺はその中にぽつんと一つ目のごみ袋を置いた。

 残り五回の往復はいたって普通だった。強いて言うならばたまに外出するのだろう家族が俺を訝しげに見遣り、エレベーター内で気まずい空気になった程度だろう。女性の化粧品が大量に入ったごみ袋を男が捨てているのは異様そのものだった。

 すべてのごみ袋を捨て、部屋に戻ったとき、土の臭いが部屋に充満していることに気づいた。

 部屋はほぼからっぽに近かった。

 俺の私物は殆どなく、かおりさんが占領していた場所がフリースペースになる。タンスの中身は六割無くなり、ベランダにあったプランターが消え、部屋を飾っていた切り花たちも失せた。残ったのは俺とひっくり返されたプランターからの逆襲のような土の臭いだけだった。

 換気をしつつシャワーを浴びる。シャンプーも彼女のものが消えた。共用だったボディーソープは捨て、別のものを用意した。

 身体を拭きながら洗面所を出る。洗面台からは一切女性の色もなくなっている。

 着替えながらNetflixの解約もしてしまった。もう俺には必要が無いものだった。

 爽快感のような、それでいて重苦しい気持ちがやってきた。俺は下着と適当なTシャツを着て、ベッドから天井を見上げた。白い天井があるだけだった。

 彼女の残り香は、もうベッドのどこにも存在しなかった。

 それから俺は淡々と日々を暮らした。

 二度と使うまいと決め込んだ出会い系アプリを消去し、全うに在宅の、翻訳の仕事に打ち込んだ。単語たちがなんとなく俺の心を埋めてくれている。異国のスラングが歯触りの良いスタッカートのように心を鳴らす。たまに家から出て、適当に人と会う。そのような暮らしをしていた。

 人と会うと言えど、交友関係が広い方ではないので磯野をツテに様々な人と出会った。磯野は「今更大学生みたいなことしやがって」と悪態をついてきたが、何故か嬉しそうだった。彼は彼なりに俺のことを心配していたらしく、俺がかおりさんの個人的な様々を捨てたと聞いてかなり安堵していた。

 かおりさん以外の女性と出会うこともあった。失礼ながら、彼女たちとかおりさんを心の奥底で比べることもあった。かおりさんが俺の確固たる指針になっていることに気づき、苦笑を交えながら話をする。俺は最低だと思いながら身体だけの関係になることもあった。俺からすればそのような爛れた関係を引きずるのもよろしくないので、一回切りということになったけれども。

 かおりさんを失って生きていけないと思っていたことが嘘のようだった。

 あの大きな穴はなんだったのだろう? 俺は徐々に薄らいでいく彼女という気配に、ノスタルジックを得ている。けれどもういいのだ。もうかおりさんとは会わない。会うことがない。電話帳やSNSから消えた彼女の痕跡、連絡先を消しながら俺は息を吐いた。

 唯一残ってしまったものは、かおりさんが使っていた香水だった。

 ある日やってきた地震と同時に発掘されたそれは、もう残量も少なかった。明らかな女性ものの細工がされた硝子瓶は薄桃色で、なんの香りであるかのラベルはかすれて読み取れなかった。

 たまに俺はその香水を空中に向かって拭きかける。

 花のような、シャボンのような、不思議な香りがしている。

 俺はその香りを知りながら、ずっとこれからも生きていく。

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