魂をすくう匙

晶沢 志生

魂をすくう匙

黒い閃光が、逃げ惑う魚よりかは遅く、街から出ていく。西日にすら顔を背けるこの採掘場跡地の中の旧市街を、コウモリの群れが夕方の時間へと沈めた。二匹の土の犬に囲まれた街灯が灯るのを見送ると、わたしは音楽をそっと消す。ハリソン先生が帰る足音に耳を澄ませるために、先生を悲しませないために。先生は世界中の音楽の中に、自分の居場所を見出せない人だ。だからわたしは、本当のことが言えないまま、絵描きになりたいと片足で自分の影を踏んでいた。音色にしたい夢を口の中で呟きながら、テーブルの上のパレットをたたむ。オペラ色が尾を引きながら、筆洗を洗うわたしに告げる。ハリソンならそれになることを許すだろうと。本当にそうだけれど、だからわたしはためらう。優しさが過ぎると空回りする足取りの心地は、丁度石英のへき開が不明瞭なことに似ている。これは先生に教えてもらったこと。頭を振る、今日の眠りにつく前の授業は何か想像することに集中する。それは先生の探し物の手伝いでもあった。世界中のことが書かれた図鑑から一つ、先生は宝石を研磨する時のように、真珠を取り出す瞬間のように輝きをもって話す。それでもわたし達は見つけられないまま、わたしばかりが暖かな美しい時間を与えられては、眠った。

 「今日のお仕事で見つかったかしら」

 先生は絶対的な占い師として街中に知られていた。人々の人生を必ず予言する対価は、その人の一番大切なもの。それを石英に小さく一世界のように閉じ込め、庭園水晶をつくりながら、見失った物に一致するか探し続けている。もう、街中の人を占ってしまったのではないかとも思う。それでもきっと、明日も街へ行くのだろう。凍った星屑と呼ばれる、かつて採掘された水晶の名残を黒いつま先で弾いて。

 赤い光、人影。青い光、人影。交差する陰影が景色に黒い斑点をつくる。目がくらんでいるのだ。チューリップが織られたずっと春のままでいるカーテンを閉める前に、バザールの街中を見渡すと、ランプ職人が手を振る。赤い光、青い光、人工のそれらに、わたしも手首から先を振った時だった。花殻が落ちるときの重力に従った足音が引きずられがちに響く。先生の金属でできた靴の踵の音。嬉しくて小走りに部屋を出ると、波打ち際の真っさらな白のように弧を描く階段を一段飛ばしで降りた。先生が見たら、きっと仕方がなさそうに笑う。けれどもこれは秘密の儀式。今日が足首をくすぐるそよ風の様子で終われることへの祝福。絵の具のチューブを開ける時の当てはめられた音で鍵が回る、逆光の中、黒糖色のコートが鮮やかな光に縁取られていた。

 「ただいま、ゾイ」

 その人の瞳は青く光るこの星のように、静かに呼吸をしている。

 「おかえりなさい」

 そこにわたしが映っていた。今もわたしは、青い世界の中にいる。

 鍋の下で小さな炎が立ちすくむ。肉やくるみが、あの中で秒針を眺めながらザクロの果汁の色に煮詰まる音が聞こえた。その隣でハリソン先生はズッキーニと玉ねぎをよく炒めたものを溶き卵の中に加えて、ボウルの底から銀河系を黒板に描く規則的な手先で混ぜ合わせている。

 「時間を持て余したお嬢さん、耐熱皿を持って来ておくれ」

 「はい」

 白地に青が先生、緑がわたし。家のことも、お仕事の手伝いもさせてもらえないわたしは、時々時間の中に居場所をなくす。先生が音楽にそうであるように。

 「ありがとう、あとはオーブンで焼くだけだ。待っていなさい」

 先生の後ろ姿に、あのね、と本当のことを言いかける。いけない。靴の踵を踏む気持ちで席に着くと、バラの花の蝋燭立てに揺れる炎が、わたしに微笑んだ。

 シャボン玉が一つ、追うようにまた一つ漂う息づかいが食卓を満たす。何度も口にしている甘酸っぱさが、胸元で瞬いた。暖かい。

 「おいしい」

 欠ける月の細さで、先生の瞳が笑う。

 「先生が作るフェセンジャン、世界一」

 「それはよかった。君はこれが好きだからね」

 おいしい、おいしい。宙に浮くそれらをわたし達は毎日囲む。木漏れ日のように触れられない、けれども確かな光が、指の隙間から零れていく幸い。

 「ゾイ」

 「なに、先生。ククもおいしい」

 手を止める。泉の水面に落ちた細い月光が、先生の笑顔が揺れている。

 「自分はもう長くない。おそらく、今夜にも」

 わかりきっていた風に、先生は燭台に灯る火を手の平で音を立てながら消した。火傷をしないか不安に思うのに、わたしはまだ澄んだ空へと息を吹き込む。

 「それは、先生が予言したことじゃないよね」

 一つ、また一つ。息を継ごうとした時だった。

 「おれ自身が今朝、見たことだよ」

 先生を見つめる、青の中にまだわたしは生きている。それなのに。見える世界の隅、先生の食器にはまだ料理が作りたてのまま残っている。

 上空で七色に輝く円が割れる音がした。

 太陽の日差しも、月の光もない薄闇に、極楽の羽が花の在り処を探すことをやめてただひたむきに乱反射をしている。一角獣を抱えた女の子のフレスコ画の床に、いくつもの色を落として。ハチドリのそれでできた天幕の中、深い深い水底へとかえる夜が気配を帯びてきた。横になるハリソン先生の頰にわずかな輝きが降りて、青白いそこに化粧を施す。

 「ゾイ、約束してほしいことがある。いいかな」

 「うん」

 先生の声は何一つ変わらない。いつも通りの秘密を打ち明かす、そんなささやき。

 「そこに匙があるだろう。おれが君の言葉にこたえられなくなった時、つまり世界から少しばかり離れた場所へ行った後、君にたった一つ残せるものがある。それをその匙ですくって食べてほしい」

 サイドテーブルにある小さな灯り、黄色い光の足元、そのデザートスプーンは銀世界からやって来た冷たさを放っていた。

 「わかったわ。でも、それはどんなもの」

 短い休符。休符にも音があることをわたし達は知っている。だから、きっとこの淡い静けさはその答えになる。

 「君ならばわかる。それから、おれは君に伝えることがあるんだ」

 わたしも本当は同じだった。伝えたいことは沢山ある。それなのに、上手に言葉にできない。パレットの上でいつまでも色を混ぜている気持ちだった。これじゃない。

 「そんな顔をしないで、ゾイ。君が言いたいことは伝わっている。大丈夫、きっと大丈夫さ」

 「でも、先生、わたし」

 「大丈夫。おれが心配なのは、このことが君にとって途方もない不幸になることだ。でもねゾイ、それはいつだって突然にやって来る。いいことも、悪いことも。おれ達は今日がその日だとは知らないまま」

 「わたし、不幸じゃないよ、先生」

 どうしてだろう、幸せだ、と音にならない。口にしたら、空に溶けて、二度と戻ってこない気がした。

 「ありがとう。まず、おれのことを少し話そうか」

 極楽の羽の光が、わたしの指先にも降りてきた。

 「おれは二十年以上前に、自分の夢を世界に売ったんだ。そして、人々の人生が見えるようになった。庭園水晶をつくることが出来るようになったのも、その頃だ。占いを始めたのもね。でも、おれはその頃からいくら探しても満たされるものがなくなった。そこで、対価の仕組みをつくった」 

 「でも、対価のほとんどは大金や宝石だったのね」

 「ああ、そうだね。次第におれは一体何の夢を売ってしまったのかも忘れてしまった。もう後がない、次もない。そんな時だった」

 青の輝きに再びわたしは生かされる。先生がこれでおしまいのように、わたしを見つめた。

 「二十代の頃だよ。女の赤子の未来を占ってほしいと、ある母親に出会った」

 先生は少し口を結ぶと、口角が上がり、つぼみが目を覚ます様でまた開く。

 「まるでその子の未来は不透明で見えなかった。そんなことは初めてで、おそらく透明な美しい世界に生きなければ長くないと伝えたんだ。母親はどうしたと思う」

 「わからないよ、先生」

「少し寄り道をしようか。ゾイ、君はもう気が付いているだろうけれど、俺たちは親子じゃない」

 深い夜の水底、決して真っ黒ではないそこから、一つ、一つと小さな泡が弾ける。わたしはもう一つのことに気がつこうとしている。

 「その母親は、自分のこの世で一番大切なものはこの子だと、赤子をおれに差し出した」

 驚いたよ。少しだけ小さく笑うと、先生はもう一度わたしに眼差しを向けた。

 「その子が君だ、ゾイ」

 細くなる幸福な瞳に、童話の一節を思い出す。

 「それから今まで、わたしを育ててくれていたの」

 「ああ、そうだね」

 先生が瞳を閉じる。冷えた手を温めようと、カップを両手で包んだ時の安心する表情で。

 「一つだけ聞かせて、先生。先生の探し物は見つかったの」

 青の世界がもうわたしを映すことはないことがわかってくる。それなのに先生は朝焼けを見つめるような眩しい光を手放さない。 

 「もう、とっくに見つけているよ、ゾイ」

 忘れてはいけないと思った。たとえさいごになってしまっても、そのさいごまで先生がわたしに微笑んでくれていることを。もう二度と、青の世界を見つめられなくても、わたしは生きることを誓う。

 「そうだゾイ、今日の授業をしよう」

 「はい」

 「世の中には、世界にある本当も、嘘も歌えるものがある」

 その星は突然天幕の中を切り裂いて流れる。思わず見上げると、かすかな光の流れに目の前で火花が散った。少しだけ熱くて、痛い。きっかけを作ったみたいに、涙が溢れ始めて止まらなくなった。先生が心配する。極楽の光を出来る限り追って、青白いその人を探した。はずだった。

 枕元に水晶のように澄んだルースがある。

 どんな光も、暗闇も受け入れる、その透明はきっとわたしに与えられた世界。これからもそれを記憶してくれる、小さな魂。涙を拭う、袖がその色に染まる。匙を取ると、金属に体温が少しずつ伝わって指先からわたしを暖めた。シャボン玉が一つ、再び一つ。透明な魂をすくい、口元へと運ぶ。コートの襟を直してあげた、誕生日プレゼントを悩んだ。そして、毎日食事を囲んだ。過ぎていった日々が、甘味をもって喉を通る。

 わたし達はきっと幸せだった。先程まで言葉にできなかったその気持ちが、白く輝く渡り鳥となって、遠い春の国へと、朝焼けの中へと飛び去って行った。

 サルスベリの隙間を踊る風が、今年初めての半袖に通した腕を駆けていく。白い巨像が、わたしを生かしていた青とは異なる真っ青の中にたたずむ。たったそれだけかもしれないけれど、わたしはこのことを歌えた。屋外ステージの袖、初夏を告げる景色が身にまとうフリルを揺らして懐かしい気持ちになる。

 あの夜が明けると、街から先生は消えてしまっていた。それはオカルト雑誌から、人々の声から。そして先生が街中に宝物を返したかのように、庭園水晶までもがそうだった。これはきっとだけれども、先生はずっとこうなってほしかったのだと、今は思う。だからわたしは、ハリソンの名前をあれから口にしていない。私たちにとって、とっておきの暮らしだったから。

 空高くから差す日差しが、誰も彼もの瞳を細く照らしていく。青い稲光が舞台を貫いて、歓声にわたしは微笑んだ。コウモリの眠る白昼、土の犬たちが笑ってわたしの帰りを待っている。あれからわたしは今まで描いてきた物たちを歌にした。ニューウェーブとロックの音色に手を預けると、わたしは歩みを進める。

 なんて澄んだ世界だろう。 

 口元にマイクを近づけると、いつだって涙しそうになる。大切なことはいつも遠くにあるから。本物のシャボン玉がいくつも空に浮かんで、夏の花が、空が包まれていった。一つが弾けたのを見送ると、音楽は鳴り止むことを忘れる。

 「すごい入道雲ね」

 歓声の中、わたしのささやきは確かな音となって広がる。もう一度風が吹く、雲の白が流れ、花びらが落ちた。先生の言う通り、わたしは透明な世界を生きている。

 そこには、世界の本当も、嘘もあった。

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