二十六話

 ソラのマンガはまさしく『祈り』だった。自分ではなく、誰かのための物語である。


 うぬぼれでなければ、それは俺への祈りだ。ヒロインの『頑張れ』というセリフが妙に印象的だった。


 インターネットなんかでは『頑張れ』は無責任の象徴の言葉として言われることが多い。俺も同感だった。どんな状況であれみんな頑張っている。義足でこれ以上何を頑張れと言うのか。


 けど――ソラのマンガはすっと胸に入ってきた。キャラクターが、そして、ソラ自身が苦しみながら寄り添ってくれるように思えた。


「ありがとう……

 感想はただ一言、そう伝えた。ソラは満足したように笑ってくれた。

 改めて、負けてやるものかと決意した。


 俺はアルバイトを続けた。夏を乗り越え、二学期になっても毎日のようにシフトに入った。周囲が完全に受験モードに切り替わり、ぽつぽつと推薦組の進路が決まり始めてきた。そうでなくとも受験モード一色だ。誰もが必死に教科書にしがみつき、目の色を変えて頑張っていた。


 そんな中、俺は進路すら決めず、勉強もせずにアルバイトに明け暮れている。人生の転換点となる十八歳を投げ捨てていた。頑張っているのに、もがいているのに、ずっと同じ場所で足踏みをしている。同級生に置いて行かれるような寂しさがあった。


 けれど月日は残酷で、いつの間にか十一月も半分を終えていた。教室の窓から見える桜の木はすっかり色づいている。美しいが、落葉に向かって進んでいくような恐ろしさがあった。タイムリミットは刻一刻と近づいている。


「足りない……」


 金はギリギリ足りなかった。後半になって勉強が忙しくなり失速したのが原因だ。


 給料日は十五日。来月の給料を合わせたとしてもギリギリ届かない。


 拓海に聞いた話によると、由紀の志望校の受験日は十二月十六日。その後に立て続けで第二、第三志望も受けるらしいので、帰ってくるころには受験は終わっているそうだ。その後は自由登校になり学校に来なくなってしまう。前日の十五日がラストチャンスだ。


 即日払いの日雇いをインターネットで検索する。そのほとんどが肉体労働だ。それ以外には工場の袋詰めなんかが多い。立ちっぱなしだろうし、俺にできるのだろうか……。


「やるしかない、か」


 まず今の職場に電話をかけて十一月いっぱいでやめると伝えた。電話に出たバイトリーダーは俺に気を使ってか残念そうにしていたが、十二月以降に働く意味はない。名残惜しさを感じつつも「お世話になりました」と言って電話を切る。


 次にネットで見た日雇い募集に電話した。気性の荒そうなおっちゃんの声が聞こえる。


 日雇いに参加したいこと、こちらが義足であることを伝えるとさらに語気が強くなった。


『義足ぅ? うちは六時間立ちっぱなしやぞ? ふくろ詰めゆーてなめとらんか?』

「い、いえ、そんなことは……」

『わるいが遊びじゃねーんだ。他のバイトと同じ仕事量ができないやつに同じ金は払えん。他の奴がかわいそうだからな。それで、できるのか、できないのか』

「……厳しいです」

『ならこの話はなしだ。わるいな』


 がちゃん、と受話器を置く音がした。ツーツーと無機質な音が耳に届く。

 あまりに意外な反応でしばらく茫然とした。スマホを耳から話すまで一分以上かかった。


 嬉しかったのだ。


 純粋に社会人として能力を評価基準にされた。できるのか、できないのか。俺の社会的立場やレッテルではなく、能力主義のもとに判断が下された。社会に過保護に支えられてではなく、自分の足で立ち上がり、こけたのだ。膝をすりむいて痛かったけど、生身の足の痛みだった。


 正直者の罵倒は生身の足が痛み、偽善者の慰めは金属の足が痛む。


 俺は自分の足で立つのだ。今度こそ、自分の価値を正しく証明するのだ。


 断られたが俄然やる気が出た。第二希望に電話をする。今度の工場長は気弱そうな人で、義足だと伝えるとさらに恐縮して採用してくれた。ありがたいし、そうしてくれないと困るのだが、認められていない気がして複雑だった。


 それでも金は大事で、俺のちっぽけなプライドよりよっぽど効率的に身体を守ってくれる。わだかまりをぐっと飲みこむと目がさらに濁った気がした。


 金の算段は付いたので今度は委員長に電話をかける。


「もしもし委員長、頼みがあるんだけど」


 深夜なので寝ているかと思ったがすぐに出た。勉強していたのだろうか。


『なに? あたしは文系だから宿題は見せられないわよ』

「ちげーって。由紀のことだよ」


 計画について一通り話す。その段階でどうしても俺には無理な箇所を頼んだ。

 すでに内容については拓海から聞いていたのか、驚きはしなかった。


『……頼んでくるって予想はしてたけど、中々難しいわね……』

「そんなにか? 由紀と同じクラスだろ?」

『だって不自然じゃない。勘ぐられるわよ』

「そこをなんとか頼むよ~。できれば三日以内。いや、絶対に三日以内!」

『あんた、図々しくなったわね……』


 呆れたようなため息が聞こえる。けれどどこか嬉しそうだった。


『まあ、そこまで頼まれちゃあしょうがないわね。あたしに任せなさい!』

「……ありがとう」


 委員長の志望は難関国立らしい。一日が大事な共通テスト前のこの時期に受け入れてくれるのは、本当にありがたかった。


『あんたが素直に頼ってくれるんだもの。その代わり受験が終わったらカラオケに付き合いなさいよ』

「ああ、いくらでも。由紀も拓海もソラも誘ってみんなでな」


 そのころにはきっと仲直りできているはずだから。










 十二月の放課後はパン工場に通っていた。

 日雇いでは他に試験監督やティッシュ配りがあったが、どれも毎日は募集していない。条件を考えるとここが最適だった。


 初日はまず休憩室に通され、上司に給食係のような服を支給される。中田君と呼ばれている大学生も今日が初めてらしく、受け取った服をじろじろと眺めていた。


 簡単な研修として手洗いと梱包の方法について教わる。中学生でもできそうな単純作業だった。十分もしないうちに終わり、更衣室に案内される。


 上司が出ていくと中田君が話しかけてきた。


「望月さん、がんばりましょ! おれら同期みたいなものっしょ!」


 いかにも大学生らしく髪を金に染め、金属のネックレスをしていた。帽子をかぶるので基本どんな格好でもオーケーなのだ。時折義足に視線を感じるが、さほど気にした様子はない。とにかくテンションが高かった。


「え、ええ。ですね……」


 イケイケオーラが全開だ。この手の人とはあまり付き合いがないので気圧される。


「いや~、おれ、腕時計欲しいんすよ。ろれっくすってかっこよくないすか?」

「そうですねぇ……。あ、そろそろ時間ですよ。早く行かないと怒られちゃうかも」


 疲労で誰かと話す気分ではなかったので強引に打ち切る。


「……っとと、ほんとっすね。初日からクビはいやっすもんね」


 鼻歌交じりに中へ向かう。遅れてもクビにはならないだろうと心の中でツッコんだ。


 教えられた通り念入りに手を洗う。中は全体的に薄暗く、ゴーッと巨大な機械の音が響いていた。すでに大量に流れているパンを先輩たちが素早く袋に詰めている。職人のような手つきに見とれていたが、上司に命令されて中田君と二人でベルトコンベアに割り込んでいく。


 パンを詰めるだけの単純作業なので俺でもできる。問題は立ちっぱなしなこと、作業が単純すぎて集中力が切れてくることだ。最初の二時間を超えると足の付け根が強烈に痛み出した。義足で杖もつけないので体のバランスがずれており、重心が傾いているのだ。不快な疲労がじわじわと侵食してくる。右足に体重を任せるとこんどは足の裏が痛くなってきた。


 さらに工場内は熱がこもっている。額に、首筋に、背中に汗がだらだらと流れていく。義足の付け根にも熱気が籠っているだろう。ユニフォームも汗で染みになっているに違いない。


 しかもここ最近は寝不足だ。十一月なので水分補給への意識も薄く、知らぬ間に水分が失われ、頭がぼーっとしてくる。それが何時間も刺激のない仕事で襲ってくるのだ。ついに脳がバグったのか幽体離脱したように魂が体からすーっと離れていき、工場を俯瞰するような位置にまで来た。その間も俺の身体はせこせこと働いている。


 映画で見た奴隷を思い出した。


 意志のないロボットがたくさんいる。俺もその歯車の一つ。心を無にして意味のない時間が過ぎていく――


「おれ今日でやめる」


 仕事が終わると中田君はそう言った。目はどす黒くに濁り、快活さは消え失せている。


 引き留める理由はなかった。すぐ辞められるのがアルバイトのいいところなのだから。


 一人残された休憩室でパイプ椅子に座る。


「大丈夫だって。あと二週間もないんだぜ? 大丈夫だよな、俺」


 独り言をつぶやいた。








 次の日は早野さんがやってきた。三十代の女性でパート希望らしい。


「今日が初めてなんです。よろしくお願いしますね、先輩」

「こちらこそ。……先輩はやめてほしいですけど」


 ちょうど同じ時間にスタートだったので話しかけられた。控えめな可愛さがある人で、地味だけど美しい花のようだった。例えるならクラスで六番目にかわいい女子だ。


 ……翌日にはもうこなかったが。


 初日が終わった後、化粧が崩れてボロボロの顔をしており、目も濁り切っていたのでなんとなくわかっていた。


 イメージでパン工場には女性が多いと予想していたが、実際には男性比率がやや高い。やはり体力がある方が有利なのだろうか。


 まあ、楽な仕事ではないからなぁ。


「望月君は疲れたら休んでいいからね? ほら、仕方ないんだし」


 三日目の更衣室で着替えていたら上司に言われた。


「へーきですよ。このくらいなんともないですって」


 実際はかなり限界が近かったが、強がっておいた。義足ではできないことも多いが、これは頑張ればなんとかなることだ。その努力を放棄するのは嫌だった。


 特別扱いはされたくなかった。人並みの成果を出して金をもらわなければ意味がない。


 金をもらうだけならこんなに働く必要はないのだ。親父から小遣いはたっぷりもらっているし、将来も年金があるからなんとかなる。それでもバイトをするのは誓いのためだ。汗水のしみこまない誓いなど、何の意味がある。


 金は力だ。弱虫ではこの社会で生きていけない。どれだけ祈ろうと、力がなければクリスマスにサンタクロースはやってこない。力なき祈りなど薄っぺらい言葉遊びだ。


 でも力だけではいけない。力があろうと祈りがなければ生き抜くのは難しい。力ではどうにもならない理不尽に対抗するため、人は祈りを編み出した。


 力に祈りを込めて、初めて実体を伴った誓いとなる。永遠に走り続けるための。


 何時間も連続の作業で足が痛い。身体が重い。頭がぼーっとする。


 何カ月も孤独に走り続けて精神も限界に近い。どんなに強がっても、ある日ふと気まぐれに投げ出したくなる。


 だから実感する。多分、事故にあってから初めて。


 俺はいま、生きている。

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