二十七話

 けれど人間は身体に囚われている以上、限界がある。

 いつものようにパンの梱包をしていると、ふと視界が歪んだ。


 衛生上、目はこすれない。瞬きでぼやける視界を誤魔化して作業を進めていく。


 今度は耳が聞こえなくなった。工場を満たすゴーという音がだんだんと遠くなっていき、しまいにはプツンと切れる。ベルトコンベアの音も聞こえず夢の中にいるようだった。


 かなりやばい。


 一度だけサッカーの試合中に倒れたことがある。あの時もこんな感じだった。集中しているからと錯覚していたが、身体が悲鳴をあげていたのだ。


 倒れてまずいと思い声を出して助けを求める。――が、でなかった。喉の付け根をつかまれているみたいに音が出てこない。空気の振動のさせ方がわからない。これは初めての症状だった。


 視界が揺れ始めた。ぐわんぐわんと、世界が回る。

 俺は手をバタバタとさせた。助けてと叫ぼうにも声にならない。手を伸ばしても、みんな死んだような目でベルトコンベアを見つめて気づかない。


 その間にも身体は深海に沈んでいくように苦しくなる。もがいても浮上できずただ溺れていく。


 視界がだんだんと暗くなり、そろそろ真っ黒になるなと予想したその直後。

 残っていた光も消え、テレビの電源が落ちたようにプツンと意識の糸が途切れた。








 目覚めると病室だった。部屋は暗い。カーテンの奥にも夜の気配が漂っていた。


「ここは……」


 がばっと上体を起こして辺りを確認する。一年前に入院した部屋と同じ構造だった。鼻を刺激する消毒薬も、恐ろしいほどの静けさもまったく同じ。違うのは、となりに由紀がいないこと。


「くっそ、これぐらいで……」


 なに、倒れてんだよ。

 体からは点滴の管が伸び、ベッドの横で吊るされたパックから液体が落ちてきている。自分を見ると、水色の病衣に着替えさせられていた。


 まさに敗北者の姿だった。ゲームの主人公のように、モンスターに敗北してセーブ地点に戻されている。それが病院というのは俺らしい。


 外された義足はベッドの横に立てかけてある。その横には持っていたバッグもあった。持ち上げて中を見ると白い封筒が入っていた。


『二週間分の給料です。ゆっくり休んでください』


 工場長の手紙と金が入っていた。倒れて働いていない分もきちんと時給が出ている計算だ。気遣いを無駄にして倒れたのだから彼に責任はないというのに……。


 心の中で礼を言う。これでぴったり足りる計算だ。小さな財布に強引に金を詰める。


 スマホを見ると十五日の午前五時。今からならまだ、間に合う。

 身体はまだ重かった。一年分の疲労がずっしりとのしかかり、ベッドに押さえつけられているようだ。頭痛は激しく、腕も足も動かしにくい。さすがに無茶をしすぎた。


 ――だからなんだってんだ。


 腕をまくり点滴の針を抜く。少しだけ血がにじんだ。


 音を立てないように義足を装着して立ち上がる。足に力が入らずフラフラとよろけたが、気合でバランスをとった。寝起きで鈍い頭を叩いて強引に起こす。


 杖は音を立てるので持って行けない。スマホと財布を手に取ってこっそり病室を出た。


 暗闇に包まれた廊下は恐ろしいほど静かだった。無機質な白い壁がどこまでも続き、冷たい空気が肌をなでる。足音を殺して歩く。


 七年前に入院したときもこうして脱走を試みたことがある。けれど一度も成功しなかった。義足では動きにくく、また小学生の計画ではすぐに看護師さんに捕まるのだ。


 だが今は違う。何度も失敗した経験がある。ずっと義足を使ってきて技術もある。


 手すりにつかまってゆっくりと階段を下りていく。時折聞こえる足音から身を隠しつつ一階の裏口までまわった。表玄関の自動ドアは開かないが、ここは内側から鍵を開けられる。ロビーにいる受付の人に見つからないよう身を低くして這うように進み、脱出に成功した。病院のスリッパは義足に合わず何度も脱げそうになったが、靴はとれないので仕方ない。


 外は凍てつく風が吹いていた。病衣一枚しか着ていないので寒いなんてものじゃない。朝方の刺すような冷たさが弱った体に侵食していくようだ。


 歯をぐっと食いしばりバス停へと向かった。病院前にあるのでたかだか百メートルなのに果てしなく遠い。一歩一歩、ゆっくりと進む。


 ちんたらしていると始発を逃したがすぐに次のバスが来た。財布に潜ませてあるカードで乗り込み一番前の一人席に座る。障がい者用なので通常の十分の一の値段だ。この寒さのなか病衣で乗り込んだからか、それとも金属の足首が露出しているからか周囲の客にぎょっとされた。脱走した患者だとバレたのか運転手も困惑している。


 それでも『なにが悪い』と堂々と背筋を伸ばして座るとためらうように発進した。

 終点のターミナルに着くと別のバスに乗り換える。目的地はショッピングモールの隣にある銀行。まずは金を下ろすところからだ。


 窓の外を見ると朝日が昇ってきた。暖かな光が世界を包み、新しい一日が始まる。

 かじかむ手をぎゅっと握りしめた。










 銀行の営業時間が九時からというのを忘れていた。七時半には着いたので、この寒さのなか一時間半ほど待ちぼうけである。シャッターが開いて中に入ると銀行員さんに驚かれた。自分でも場違いな格好だと思う。そんな人が五十万近い金を下ろすのだから、詐欺じゃないかと何度も本人確認をとられた。財布から出したキャッシュカードが拾い物でないか何度も確認された。


 分厚い封筒を握りしめて銀行を出る。すぐ隣のショッピングモールに入り、ジュエリーショップを目指す。


「予約していた望月です」


 すでに何度か来ていたのですっかり顔を覚えられていた。担当の店員さんがやってくる。


「いらっしゃいませ。ええと、その恰好は……?」

「色々ありまして。ちょっと急いでるんです。特急でお願いします」


 首をかしげていたがちゃんと手続きはしてくれた。事前に前金として半分を払っており、手続きのほとんどはその時にしているので数枚にサインをするだけだった。サイズも委員長に教えてもらい、すでに調整を終えている。残り半分を現金で払うと紙袋を渡された。俺の焦りが伝わったのか素早くしてくれた。


「望月さん」


 立ち上がって店を出ようとすると後ろから声をかけられた。


「頑張ってくださいね」

「……ええ。ありがとうございます」


 少しの勇気をもらって店を出る。

 時刻は十時半を過ぎていた。急いでショッピングモールを出て最寄りのバス停に向かう。計画の見通しが甘く、もう時間はほとんど残されていなかった。


 想像以上に時間を使ってしまった。ヤバいかもしれない。

 時刻表を見ると、バスに遅れたら次は一時間後。県内唯一の空港は山奥にあるので交通の便が良くないのだ。逃したら確実にアウトだ。


「くそっ、急げよ俺の足」


 早歩きになるも義足ではスピードが出ない。杖がないので転ばないので精いっぱいだ。じれったくてイライラする。


 ようやくバス停が見えてきた。あと百メートルほど。


 ――だが、後ろからやってきたバスが俺の横を追い越していく。


「ま、待て! 待ってくれ!」


 声は届かない。人のいないバス停にはとまらずそのまま行ってしまった。

 遅れてバス停に着くも時刻表にあるのは一時間後のバスのみ。ここら辺はタクシーも通らないし、そんな金もない。


 ――間に合わない。


 全身の血の気が引いて行く。血液が冷たくなっていく。思わず力が抜けて立てなくなり、尻もちをついてしまった。


 委員長の情報によれば由紀の便が出発するのは十二時過ぎ。その三十分前には搭乗準備を開始すると考えると……次のバスでは絶対に無理だ。むしろ今のバスに乗れても厳しかっただろう。


 電話で由紀を呼び出しても応じてくれるはずがない。空港で待ち伏せするしかなかったのに……。


 電車は通っていないし、そもそも駅まで向かっていては間に合わない。


 ここまで来たってのによぉ……。


 これがラストチャンスなのだ。由紀はもう学校に来ないし、家に行くことも許されない。それに東京の大学を受験するのは俺から離れる意味もあるのだろう。進路が決定してしまえば由紀の気持ちはさらに固まりもう絶対に崩せない。逆にいま和解すれば、例え離れ離れになってもつながっていける自信がある。


 なのに、最後の最後でドジをやらかした。俺が倒れなければ、銀行の時間を見通していれば、そもそも一か月早く金をためていれば。


 意味のない後悔が頭を駆けめぐる。一年間の努力が水の泡になろうとしていた。


 ここで立ち止まればすべてが終わってしまう。もう二度と、あのキラキラの光の中に飛び込めない。冬の街で孤独に溺れるしかなくなってしまう。


 でも、俺は義足で。走るどころか人並みに歩くことすら難しくて。


 諦めない心だけでは、どうにもならなくて――


 その時、スマホが振動した。


 俺の脱走に気づいて病院からかかってきたのだろうか。それにしては遅い気が……。


 画面にはターナー・ソラナと表示されていた。


「もしもし?」

『あ、サ――ヤ! い――こ? ――シティ?』

「なんだって? 聞こえねえよ」


 電話の奥からはブロロロと耳をつんざく音がやかましく、声がまともに聞き取れない。


『だからぁ! 今どこ⁉』


 脱走した俺を探しているのだろうか。迷ったが、言葉の勢いに押されてしまった。


「センター・シティだよ。まあ、色々あって」

『そんなの分かってるよ! そのどこにいるって訊いてんの!』


 ……なんでわかってるんだ?


 普段のソラからは考えられないほど強い語気だった。


「センター・シティ前のバス停にいるけど……どうしたんだ? つーか何の音だ?」

『バス停だね? 二分待ってて!』


 ぷつんと通話が切れる。意味が分からなかったが、とりあえずベンチに座って待つことにした。


 ボォォォォォォォォォォォォ!


 その音は、一分ほどで聞こえてきた。電話越しに聞こえてきた騒音。

 彼女は漆黒の大型バイクにまたがっていた。滑るようにバス停の前で停車してヘルメットを脱ぐ。


 長い金髪がふわりと揺れた。


「おまたせサクヤ。行くよ!」


 ソラがにやりと笑う。真っ黒のライダースーツを着ていた。


「そ、ソラ? なんでここに……? てか、なんでバイク……?」

「カナちゃんに貸してもらったんだよ。大丈夫、免許はとってるから! 早く乗って!」


 シートをばんばんと叩く。その顔つきは真剣で、声も力強い。今までに見たことのない勢いだった。


「乗ってって……どこに行くんだよ。病院には戻らないぞ」

「空港に決まってるでしょ⁉ 今ならまだ間に合うんだから!」


 大声でまくし立てられる。彼女の深紅の瞳はメラメラと燃え盛っていた。


「いやでも、二人乗りって二十歳にならないとダメなんじゃ……」

「今はそんなこといいの! サクヤはそれで別れちゃっていいの⁉」

「……」


 いいわけがない。例え全てを失ったとしても、俺は――


「……わかった。頼む」


 ソラの後ろに乗り、渡されたヘルメットをかぶる。

 ブルン! エンジンが獰猛な獣のように唸りをあげた。振動と音がふつふつと伝わってくる。足で挟んでまたがろうにも義足では力が足りず不安定だ。落ちないようにぎゅっとソラの腰をつかむ。


「行くよ。時間がないから、最速で!」


 バイクが発進した。


 ボボボボボボボボボボボォォォォォ!


 エンジンが雄たけびをあげる。ガソリンをエネルギーとして燃焼し、高速で回転する。


 バイクはひとつの生命のように熱を持っていた。

 ぐんぐんとスピードを上げていく。向かい風が身体を叩きバランスを崩してくる。ソラにしがみつかなければあっという間に空中に放り出されそうだ。命の危機を感じて必死に力をこめる。


 アクセル全開、フルスロットルだ。制限速度をすぐにオーバーして周りの車をジグザグに抜かしていく。このスピードで接触すれば大事故だというのに、すれすれで抜かすものだから背筋が凍り付いた。


「ソラ! あぶねぇって! もっとスピード落とせ!」

「なに⁉ きこえないよ!」


 風を切り裂いてさらにスピードを上げる。バイクの咆哮、周囲のエンジン、唸る風。お互いの声が聞こえにくい。俺は叫ぶように話しかける。


「事故ったらお前まで死ぬぞ! もっと安全運転でいけって!」

「それじゃ間に合わないよ! 空港のゲートの向こうに行ったらもう会えないんだよ!」


 バイクはさらにスピードを上げる。ショッピングモール前の渋滞を抜けて車も少なくなってきた。空港は山奥なので近づくにつれて車が少なくなるのが救いだ。これ幸いにとさらにスピードを上げる。ちらりと見えたスピードメーターは高速道路でも捕まりかねないほどだった。転べば一瞬で死ぬだろう。全身の筋肉が硬直してさらに強くしがみつく。小さな背中が妙に頼もしく感じた。


「でもこれじゃ警察に捕まるだろ! こんな暴走してたら免停だぞ!」

「ボクに追い付ける警察なんていないよ! 最近、サーキット見てるんだよね!」

「見てるだけだろうがぁ~っ!」


 悲鳴のように大声でツッコむ。恐怖心が次第に麻痺していた。


「だいたい、なんで俺の場所がわかったんだよ」

「前に計画を話してくれたもん。サクヤなら、病院を抜け出してでもやるって信じてたし!」

「で、でもなんでここまでしてくれるんだよ。普通に死ぬぞ! 免許も失うぞ! 罰金もひどいぞ!」


 一時は逃げられてもナンバープレートを抑えられたら終わりだ。どっちにしろ捕まる。


 それに、これは俺と由紀を応援する走りだ。あまりに残酷ではないだろうか。


 ソラは泣きそうに叫んだ。


「うるさ~い! わかってるよそんなこと! ボクだって自分で何してるんだろうって思ってるよ! でも、でもさぁ!」


 ソラの声に涙が混ざる。肩は震え、ぐっと歯を食いしばるような音が聞こえた。


「好きな人には幸せになってほしいじゃん! 大切な人には、幸せになってほしいじゃん! それはボクだけじゃない。おじさんもキンジョ―もミオもみんな思ってるから!」

「ソラ……」


 ふとミラーに白黒の車が映った。赤色灯を光らせてこちらへ向かってくる。


『そこのバイク、止まりなさい!』


 止まるはずがない。むしろ速度を上げて国道を突っ走っていく。段々と山が近づいており、道の両脇にはずらりと背の高い木が並んでいた。車もほとんど走っていない。サイレンを鳴らして追いかけてきた。


「うるさいなぁ。人の恋路を邪魔したら、馬にけられるんだよ!」


 数少ない信号を盛大に無視して交差点に突っ込んでいく。運よく車は来ていなかったが心臓が凍り付く。生きた心地がしない。


「死ぬ! 死ぬぅぅぅぅぅぅぅ!」

「サクヤもうるさいよ! 男なんだからこれくらいで悲鳴をあげない! ユキに会いたいなら命をかけて!」

「くっそぉぉぉぉぉぉぉぉ!」


 何も反論できない。由紀と一緒にいられるのなら、すべてをささげてやるんだよ!


「ボクのドライビングテクニックを信じてよ。おじさんからひとつ伝言も預かってるし、死ぬわけにはいかないからね!」

「で、伝言?」


 後ろからでは見えないが、ソラは微笑んだ気がした。


「『今日の夕飯はシチューだ』――だって」

「……そっか」


 あの温かい味を思い出す。親父に背中を押された気がした。


「じゃあ、病院に帰るわけにはいかねえなぁ」


 俺には帰る家がある。それだけで、頑張れる。

 ソラにしがみついて覚悟を決める。警察が、なんだ。


「行くぞソラ! スピードをあげろぉ!」

「もちろん。振り落とされないでよね!」


 さらにパトカーが増えてくる。空港の近くに交番があったのかいつの間にか三台になっていた。けたましいサイレンを響かせながら追いかけてくる。


 だが――バイクはそれ以上の爆音で走り続ける。アクセル全開で、すべてを置き去りにしていく。


 どんな雑音であろうと決してこの走りを止めることはできない。どんな理不尽も、どんな荒波も、祈りの走りを止めることなどできはしない。


 身体は苦しい。向かい風は俺を振り落とそうと叩きつけてくるし、道端のいじわるな小石に転ばされるかもしれない。いつ振り落とされるかもわからない。


 それでも――俺たちはバカだから。走り続けることしかできないから。


 悲鳴を上げて、咆哮をあげて、トップスピードで駆け抜ける。


 風が気持ちいい。昇ってきた太陽が暖かい。


 いまの俺たちは――無敵だ。

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