十五話

 自分たちの教室に戻るとソラと由紀の二人が残っていた。待たせていた由紀だけでなく、ソラも残っているとは。二人の間には肌を刺すピリピリとした空気が流れていた。風でふわりとゆれるカーテンもどこか重たい。


「わるい、遅くなった」

「サクヤ……」


 何を話していたのか、辛そうな目でソラがこちらを見る。


 やめてくれよ……。


 覚悟が揺らぐ。本当にこれでいいのだろうか。


「(朔夜、わかってるな)」


 拓海に耳元で念を押されて我に返る。わかってるよ、と目で返した。


 心を殺してソラの視線を無視する。用があるのは由紀だけなのだから。


 二人の作り出す重苦しい空気に対してあえて無神経に一歩踏み込んだ。


「な、なあ由紀。帰りに街によって行かないか」

「ごめん、早く帰らないといけない」

「そう言わずにさぁ。別に遅くはならないって」


 由紀は申し訳なさそうに自分の腕をきゅっとつかむ。


「そもそも何するの」

「な、なにってえ~とそりゃ~」


 考えていなかった。

 デートだからカラオケとかだろうか。でも普通の場所では行ってくれる気がしない。


「そ、そうだ、義足のメンテナンスが必要なんだよ。手続きのために役所までついてきてくれねえか」


 とっさに考えたが悪くない案だった。こう言えば由紀は断れない。責任感の強さを利用した自分の卑怯さに負い目を感じるが、手段を選んではいられなかった。

義足には補助金が出る関係で修理するにも役所の面倒な手続きがいるのだ。


「……わかった」


 わずかな葛藤の後、観念したように由紀は手をつないだ。

 小さくガッツポーズ。これをデートと呼ぶかは微妙だが、誘えただけで良しとしよう。


 俺と由紀は鞄をとって歩き出す。


 ある一人に気づかないふりをして。


「……頑張って来いよ」拓海が難しい顔で言う。

「役所に行くだけだよ」


 目が「覚悟を決めろ」と言っていた。激励に力強くうなずく。

 教室を出ようと扉に手をかける。


 ――その時、空いた右手が柔らかいものに包まれた。


 予想していたことだが、それでもどきりと心臓が跳ねる。


「サクヤ……」


 ソラがうつむいたまま俺の手を握っていた。目元は見えないが、紅潮した頬には細い涙の筋が通っている。


 時が止まったように動けなくなった。どうすればいいのかわからない。肩を震わせるソラは今にも消えそうなほど儚く、何をしても壊れてしまいそうだった。


「あっ……ごめ……」


 我に返ったソラは手を離して一歩遠ざかる。自分の行動に驚くように目を泳がせ、手を所在なさげに宙にさまよわせていた。


 握った手は温かかったのに、その奥に潜む心は冷え切っているように見えた。


 アンバランスで不安定な存在――


 このまま由紀と行っていいのだろうか。俺がなんとかしなくては消えてしまうのではないか。俺が傷つけてしまうのではないか。


 ――お前が好きなのは誰だ。


 拓海の顔を見ると俺よりも辛そうに、身を裂かれているかのような表情で俺に訴えていた。彼女を傷つける覚悟をしろと。


 ソラは大切な友達だ。友達が傷ついて平気じゃないのは拓海も由紀も委員長も同じ。誰も傷つかないでほしい……。


 でも、それでも、覚悟を決めなければいけないのだ。


 気道が圧迫してつっかえる言葉を無理やりひねり出し――言葉のナイフを振り下ろす。


 心を引き裂く手ごたえとともに。


「ごめん、ソラ。俺は由紀と行くよ」


 パリンとガラスが砕け散ったようにソラの顔から感情が消え失せていく。


 深い海の底でたゆたうように沈んでいき、あまりの暗さに見えなくなる。


 拒絶の意志はこれ以上ないほどはっきりと伝わってしまった。


「そう……」


 ガラスの破片は俺の胸を刺す。心臓には返り血がびっちょりと付着して重かった。

 何も言わず――これ以上何も言う資格がなく――踵を返して教室を出る。

 その間、由紀は終始無言だった。










 ナイフを振り下ろすとき、刃先は自分自身にも向けられているのだと知った。

 学校を出ても、バスに乗っても、街に着いてもソラの顔が頭から離れない。

 砕け散った感情が闇に消えていくあの一瞬が忘れられない。


 ただ歩くだけで息が絶え絶えになっていた。騒がしく行きかう車の音がどこか遠くに聞こえる。


「休む?」


 さすがに由紀が心配そうに言ってきた。このままでは倒れると思われたのだろう。


「いやいい。あんまり遅くなれないしな」

「じゃあせめてこれ飲んで」


 水筒を差し出される。自分のも持っていたが、余裕がなかったので受け取ってぐびぐびと飲んだ。ありがとう、とお礼を言って返す。


 ここに来るまで会話は少なくよそよそしい由紀だったが、根本的な優しさは変わっていなかった。俺が本当に困っていたらすっと手をさし伸ばしてくれる。


 くっそ、勝てねえな……。


 何があっても俺の想いは揺るいでいなかった。惚れた方の負けなのだ。

 だから素直にそれを伝えればいい。それだけなのだ。たったそれだけを逃げ続け、十年も幼馴染のまま進展しなかった。


 告白のシーンを思い浮かべてみたらどきりと心臓が跳ねた。もし由紀の無表情の仮面をはがせなかったらと思うと恐ろしくなる。崖っぷちに立ち、一歩間違えれば奈落に真っ逆さまだ。


 無駄に意識してよそよそしく歩き出す。十一月なのに首筋に汗が垂れ、つないだ手もじめりと湿っていた。身体は暑いのに暴れまわる心臓は冷たく、寒風がその周りを通りぬけていく。


 世の中のカップルはこんな試練を乗り越えているのか……?


 周りを見るとカップルだけでなく、仲のよさそうな夫婦も目に入る。彼らすべてが勇者に見えた。


 パニックを抱えたまま役所に着く。何度も来た場所なので職員とも知り合いだ。手をつないだまま入ってしまったので温かい目で見られてしまった。


 しばらくすると名前を呼ばれたので窓口に行き、差し出された書類を書いていく。

 その間も頭は真っ白、うわの空だ。由紀が担当者と何かを話していたが、内容はさっぱり覚えていない。いつの間にか手続きが終わり、外に出ると空が暗くなっていた。


「帰ろ」


 寂しげに由紀が言った。もうつき合わせる理由はない。このまま帰るのが自然な流れだ。


 いつ告白すればいいのだろうか。もういきなりこの場で言ってしまうか? あまりにもムードがないが、遅ければ遅いほど事態はこじれていく。ソラを拒絶した以上、逃げ道はない。


「そ、その前に、ちょっと公園に寄らないか」

「早く帰りたい」


 俺といるのを嫌がっているのかとドキッとしたが、その声から嫌悪の色は見えない。


 しかし説得は難しいので再び由紀の優しさを利用することにした。


「足が痛くてな。ちょっと休憩したい」


 役所では立ちっぱなしだった。ギリギリ嘘ではない。

 由紀はわかったとばかりに頷いて歩き出す。

 夜のとばりが下りて街明かりがキラキラと輝きだす時間。

 夜空を見上げても星は見えなかった。

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