十六話

 公園の明かりは中央にある街灯一つで保たれていた。さほど広くはない平凡な公園だが、けたましい街中にありながら虫の声さえ聞こえる静けさがあり、周囲とは隔絶した雰囲気があった。


 俺たちはベンチに座る。他には誰もいなかった。


「――話があるんだ」


 自分で言っておいて、ついに始まるんだと緊張した。頭の動きがどうにも鈍い。

 返事はなかったが、続きを許された雰囲気だった。薄暗く由紀の顔は見えにくいので僅かな息づかいや仕草で判断するしかない。


「今まで悪かった。俺がバカで、自分勝手だったから……」

「……別に。朔夜が謝る必要は」

「それでも」


 由紀の言葉を遮る。


「それでも、謝らせてくれ」


 座ったまま横の由紀に向かって深々と頭を下げる。こうしないとスタートラインに立てない気がしたから。


 由紀はしばらく無言だったが、ふっと息を吐くと俺の肩に手を乗せた。


「ごめんね」


 それが何に対する謝罪かわからなかった。俺は顔をあげてじっと由紀の目を見る。この星空よりも暗い瞳だった。


 許されたのかな……。


 わからないが、空気の緩みを感じてもう一度由紀に向き合う。

 覚悟を決めるために深呼吸。かっと目を見開いた。


「もう一つ、言わなきゃいけないことが」


 由紀はそれで察したのか立ち上がろうとする。迷う暇もなくその手をつかんでいた。


「帰ろ」

「話が終わったらな」


 両者無言のまま、時が凍り付いたように動かない。静かな公園がこの世のものではないように思えた。


 ここまでくると意地の張り合いだ。永遠のような一秒が過ぎていく。

 逃げ出さないよう由紀の手をがっちりつかんで離さない。強い意志を持って、けれど縋るように力を込める。


 空気が張り詰める。剣呑ささえあった。映画のような告白のシーンではない。


 それでも――俺は口にしていた。


「由紀が好きだ」


 たった一言。けれど重みをもって澄んだ空気を揺らした。

 ぽろり、涙がこぼれる。

 由紀は泣いていた。

 その意味をはかりかねて、戸惑う。


「前に言った……朔夜のこと……嫌い……」


 苦しそうに頬を引きつらせて絞り出すように言う。その様子に既視感を覚えた。


 まるで――


 ――ナイフを振り下ろす直前のような。

 ――その刃先は自分自身にも向けられていて。


「あれは……今も……嘘じゃない……」


 けど――と言葉が続くのを期待したが、それきり由紀は黙ってしまった。

 遅れて理解した俺にナイフが襲い掛かってくる。肉が裂かれ、皮がびろんとリンゴのようにみっともなく垂れた。


「そうか」


 俺は立ち上がり手を差し出す。脳が現実を拒んだが、強がるという選択肢だけは適切に選べていた。ひどく傷ついたようにうつむく由紀の表情を見ないように少しだけ視線をずらす。


 まだ、泣いてはいけない。男だから。


「帰ろうぜ」


 おずおずと差し出してくる由紀の手を握り、俺たちは公園を出る。うるさい街の中に戻り行きかう人混みをかき分けていく。由紀のすすり泣きや震える肩、鈍い足取りにに気づかないふりをして。


 せわしなく歩く人々はみな目的をもって歩いていた。早歩きで過ぎていく時間の中、俺たちはのろまに歩く。つながれた手に意味はなく、孤独を責めたてる冷たい風が吹いていた。


 赤信号を前に立ち止まるとぞろぞろ人が集まってきた。先頭から彼らを振り返り、このままみんなで永遠に足止めされないかな、と妄想した。


 自分の思考の行き所がわからなくなってぼーっとする。他人事のように音が遠い。


 ――それがいけなかったのだろうか。


 うつむいていた俺はヘッドライトで照らされるまで突っ込んでくる車に気づかなかった。


 とっさに由紀を押し出したのは覚えている。それは本来、義足の踏ん張りでは出せない力だ。とっさゆえの奇跡だろうか。


 しかしそんな力を出して転ばないはずもなく。

 由紀の悲鳴だけが妙に印象的だった。











 目を覚ますと白い天井があった。

 いつもとは違う、けれど見覚えのある部屋だ。上体を起こすと消毒液の匂いがつんと鼻につく。六年前の入院生活を思い出した。


「病院……」


 すでに消灯したのか部屋は真っ暗だった。ベッドの横には様々な測定機器が並べられ、身体にいくつものコードが伸びている。俺の身体はそんなに悪いのかと不安になった。


 完全個室らしくベッドは一つだけ。かなり広い部屋だった。交通事故ならば入院費は相手に請求できるが、個室料は贅沢とみなされ自己負担になる。親父が気を使ったのだろう。


 身体にはあちこちに包帯がまかれ、さながらミイラのようだった。だが意外にも痛みはなく、自由に動かせる――と調子に乗って腕をあげたら激痛が走った。あれだけもろに跳ね飛ばされたのだから当然だ。むしろよく命があった。


 事故で壊れたのか義足は外されている。


 ――そのとき、存在しない左足と病院の景色が重なった。


 ピ、ピと連続的な機械音。消毒液の匂い。消灯して薄暗い部屋。さらさらしたベッドの手触り。


 なにより、一人ぼっちの個室。


 失ったはずの左足に激痛が広がる。ムカデが骨の中で暴れまわっているような感覚に身をよじる。あまりの辛さにうめき声が声にならない。


 六年前と同じ暗闇に閉じ込められていた。外では駆け抜けるように時間が過ぎていくのに、ベッドに座っているだけの俺はそれに取り残され、世界から置いて行かれる。お荷物のように人の手を借り続け、そのくせ自分は何もできなくて――


「――朔夜?」


 声は右足のあたりから聞こえた。イスに座った由紀が俺の右足に寄りかかって寝ていた。


 足が重さから解放される。だが左足の痛みは止まらない。なにせ存在しないのだ。切り落としてもなお苛み続けている。


 それを察してか由紀は慌ててペットボトルを取り出し渡してきた。最小限の動きで受け取って一気に飲み干す。それでも痛みはおさまらず、呼吸が荒くなる。


「大丈夫。大丈夫だから。私がここにいるから」


 落ち着けようと由紀が背中をさする。それが優しくて、なにかに縋りつきたかった俺は身を乗り出して由紀の肩にしがみついていた。すると由紀も俺を受け止めるように手を回し、呼吸のテンポに合わせて優しく背中をさすってくれた。


 ――ひとりじゃない。


 伝わってくる体温でそれを理解した。混乱する頭を落ち着けようと深呼吸を繰り返す。足の中のムカデは次第におとなしくなっていき、しばらくすると痛みはひいていった。


 呼吸が整うと病室は静けさを取り戻す。

 カーテンの隙間から差し込む優しい月明かりが俺たちを照らした。


「痛くない?」

「ああ。平気だ。ありがとな」


 それでも由紀は振りほどこうとしない。俺も離れたくなかった。辛い時は、そばにいるだけで心が安らぐから。


 互いの存在を確かめ合うように強く抱きしめる。温かな体温が心に入り込んでくるようで、孤独の氷を溶かしていく。抱きしめるだけで色々な壁があっけなく崩れていく気がした。


「……怖かった」


 耳元で由紀がささやく。小さな声だが詰まった感情はあまりに複雑で重く耳に響いた。


「今度こそ……朔夜が消えるんじゃないかって。拒絶したからどこかに行っちゃうんじゃないかって」


 事故にあうのは二度目だ。一度目も由紀の目の前で轢かれた。そのときのトラウマを思い出したのか肩が震えている。俺はさらに強く抱きしめた。


「あれは嘘……嘘じゃないけど、嘘だからね……?」

「どこにも行かねーよ。俺は。由紀も無事でよかった」

「……うん」


 頭をなでてやる。小さい頃はこうすると落ち着いたのだ。違うのは髪が長く美しくなったことと、俺の心臓がどきどきしていること。昔は何気なくやっていたことにも、高校生となった今では別の意味が付与される。


 俺の肩に雫が垂れる。直接は触れていないが、由紀の想いのすべてが込められているようで、とても熱かった。


 六年前に目を覚ました時もこんな感じだった。俺は白い部屋で片足がなくなっていて、けれど悲しむ暇もなく泣きじゃくる由紀を必死になだめていた。


 あれから時間が経っても、俺たちはまだ幼馴染のままで。

 どんなに喧嘩をしても、嫌いと言われても、運命に導かれるようにこの部屋に戻ってきて、また昔のように抱きしめあう。何も変わっていないように見えるが、やはり六年の年月は重く、昔とは変わった感情があった。


 多分、それは由紀も同じ。この温もりからすべてが伝わってくるようだ。

 仮面に包まれて全くわからなかった由紀の想いがここにある。

 結局のところ、言葉では足りなかったのだ。どんなに言葉を尽くしても意味がない。たった一度抱きしめあうだけでよかったのに、随分と遠回りをした。


「朔夜なんて嫌い。私の傍にいてくれない、朔夜なんて」

「ずっと、そばにいるって」

「うん……」


 由紀を残しては死ねない。俺たちは二人でいなければダメなのだ。

 愛しさがこみ上げて、さらに強く抱きしめる。


「おかしいよね、私」

「そうかぁ?」

「朔夜なんて嫌いなのに。なのに……なのに……」


 由紀の手が緩み、俺たちは顔を合わせた。月明かりに照らされた涙はどの宝石よりも上品で美しく輝いていた。


 潤んだ黒の瞳は魔法のように俺の視線を引き付ける。身体を乗っ取られたかのごとく、青白く照らされた頬に手を添えていた。


 夜闇の瞳に引きずり込まれていく。由紀が涙をにじませつつ目をつぶり――


 唇を合わせた。


 一瞬で離したはずなのに永遠にも感じられた。


 再度顔を合わせると、由紀は涙をこぼしてはにかんだ。


「こんなに、好きなんて」


 心にじんわりとにじむ。

 女神のような笑顔を前に、俺も笑った。


「ああ。俺もだ」

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