十四話
カナの家に遊びに行ったら遅くなってしまった。辺りはすっかり暗くなり、静かになっていく住宅街を独りで歩く。夜の風に吹かれて思わず身震いした。
家に帰りたくなかったのだ。サクヤの顔を見たくなかった。会うと胸を締め付けられるのに、つい一挙一動を目で追ってしまう。自分の身体が熱暴走してコントロールできなくなっていく不安があった。家が近づくにつれ足が重くなる。
望月家の窓からは、古ぼけた電球のような暖かい光がもれていた。家そのものに体温をがある。イギリスの豪邸よりずっと小さな建物だけど、こっちの方がずっと『家』だと感じた。
――ふと、人影を見つけた。
道の真ん中に立ち、望月家からもれる光をじっと眺めている。
ユキだった。
何をするまでもなく、切なげな表情で見つめている。これまでのユキからは想像もできないほどその姿は儚げで今にも消えてしまいそうだった。
足音でボクに気づいたのか目が合った。
「うちに何か用事?」
うちに、と強調して言った。思いがけず嫌な言い方になってしまった。
「別に」
「サクヤは中にいるよ」
「……偶然ここにきただけ」
目をそらして言うが、その手には買い物袋が握られていた。業務スーパーへのバス停はユキの家から反対側だ。
煮え切らない曖昧な態度が癪に障った。
どす黒い衝動的な義憤に駆られて口調が強くなる。
「そんなんじゃサクヤがかわいそうだよ」
本心の言葉ではない。とにかくユキを責める口実が欲しかっただけだ。
「知らない。サクヤなんて嫌いだし」
「……それでいいの? だって、サクヤはユキのこと――」
自分で言って悲しくなった。やりきれない痛みにこぶしを握り締める。
こんなの八つ当たりだ。
「そんなの関係ないし。あんなバカ、好きじゃないし」
ユキは買い物袋をぎゅっと握りしめる。
「……嘘つき」
「嘘じゃない。だってバカだし。うるさいし。子供だし。鈍感だし。イケメンじゃないし。すぐに甘えてくるし。自信なさすぎだし。金城といるときのほうが楽しそうだし」
ユキは早口でまくしたてる。けれどその一つ一つの言葉に歴史を感じた。
「みんなに優しいし。すぐデレデレするし。いざってときにしか頼りにならないし。ワガママを言ったらやれやれってため息つくし。私がいないと何もできないし……」
絞り出すような声をきいてボクの喉は詰まってしまった。
愛しいものにそっと触れるような声が、切ない涙でにじんだ瞳が、やりきれない思いで握られた拳が……。
見せつけられた。
十年の重み。二人の絆を。
かぶっていたベレー帽に触れる。絶対に譲れない思い出なのに、ちっぽけだった。
「……じゃあ、もう帰ってよ」
できるだけ感情を殺して言う。そうしなければボクの中でくすぶり続ける醜い炎を看破されそうだった。ユキもこれ以上は不毛だと感じたのか「そうね」とボクに背を向ける。ボクに向けられたその言葉は寂しげだった。
「バイバイ」
言い残して去っていった。背中が遠ざかっていく。
望月家の暖かな光は、独り残されたボクの心の影を克明に作り出していた。
逃げるように玄関を開けて「ただいま」と中に入る。ちょうどサクヤが二階から降りてきたところだった。ボクを見ると安心したように微笑む。
「遅かったな。夕飯がそろそろできるぞ」
優しい笑みだが、その中にわずかな乾きがあった。以前よりも疲れた印象を受ける。
なんで、ボクじゃダメなんだろう……。
ボクならサクヤを困らせることはしないのに。乾いた笑いなんてさせないのに。
やりきれない思いがのしかかってくる。
――なんとしてでも奪い取ってしまえ。
また、悪魔の声が聞こえた。どんな果実よりも甘い囁きだった。朽ちかけていた倫理の鎖をあっさりと引きちぎり、頭がぼーっとしてくる。
――なんとしてでも奪い取ってしまえ。
衝動が全身を貫いた。身体が意思を外れて動き出す。ブレーキはとっくに壊れていた。
「お、おい、ソラ⁉」
鞄を放り出し、靴を脱ぎ捨て、サクヤに駆け寄る。困惑するサクヤを無視し、バランスが崩れないように首に手を回してぎゅっと抱きしめた。
「ど、どうしたんだよ。何かあったのか?」
低音が耳元で優しく響く。脳が痺れるようだった。
「ねえ、サクヤ。――ボクじゃダメ?」
「え……?」
戸惑ったような声だった。どうしたらいいのかわからないという風に手をさまよわせている。
「それってどういう……」
キスでもすれば伝わるだろうか。もはやここまできて歯止めなどきかない。ただ暴走する衝動に身を任せれば――
――あんなバカ、好きじゃないし。
ふと、ユキの声が蘇る。拗ねたように目線をそらし、けれど愛しそうにつぶやく姿が脳裏に映る。
それで理性と倫理の鎖が再生した。自分の過ちに気づき、慌ててサクヤから離れる。
「ご、ごごごごごごめん! なんでもない! 今のは忘れて!」
「え、いや……」
「いいから忘れて。ほんっとごめんだよ!」
鞄をつかみ、急いでその場から逃げ出した。勢いよく扉を開けて自室に転がり込む。
後ろでサクヤの困惑の声が聞こえたが、反応する余裕はなかった。
なんで? なんであんなことをしてしまったの?
これじゃ本当に悪役だ。ヒロインからヒーローを奪う悪女だ。
もう自分が嫌だ。この家から出ていきたい。逃げ出したい。いっそ消えてしまいたい。
ボクの中には悪魔が住んでいるんだ。
いい人でいたい、みんなに好かれたい、悪者になりたくない――そんな当たり前の願いさえ、衝動に動かされるボクは叶えられない。
イギリスにいたときから世の中は理不尽だと思っていた。けれどそれ以上に、コントロールできない自分の心が理不尽だと感じた。
ソラに抱き着かれて混乱し、しばらく廊下に立ち尽くしていた。
――ボクじゃダメ?
どういう意味なのか。いや、俺だってバカじゃない。なんとなくの予想はついている。
だが実感がなかった。来た当初は男として意識されていたとは思えない。平気で下着を触らせるし、裸を見られても動揺していなかった。そこから好かれるようなことがあったとは思えない。
それにソラは美少女だ。愛嬌もあってクラスでの人気も高く、誰からも好かれるタイプである。そんな人が俺を選ぶとは思えなかった。欠けていて、一人前のこともこなせない俺なんかに……。
考えれば考えるほどわからなくなって、拓海に相談することにした。
放課後、人がいない空き教室に呼び出してソラと由紀のことを一通り話す。
「相談風モテ自慢か?」
「俺は真剣なんだよ!」
ジト目で睨まれた。「こいつは……」とでも言いたげな目を向けられる。
「その癖なおらねーよな。義足だから、欠けているから――。ネガティブが過ぎる」
「だとしても好かれる理由がないだろ? 俺は……ソラに、何もできていない」
誰かを好きになるのは大変なことだ。それが恋愛感情ならなおさら。心の大半を奪われるようなものだ。気づいたら目で追っていて、ふとしたときに考えてしまう――頭の中を埋め尽くされてしまう。その感情が自分に向いているとは考えられない。
例えば俺がヒーローで、ソラの命を救ったとかなら理解できる。心を奪い取ったとしても不自然じゃない。けれど俺はただの凡人――いや凡人以下、むしろ世界のお荷物なのに。
拓海は俺の葛藤を見透かすように目を細めた。
「じゃあ、お前が月下を好きなのは理由があるのか?」
「由紀は俺をいつも助けてくれる……」
「本当にそれが理由か?」
……理由なんてない。けれどそれは由紀がどうしようもなく魅力的だからだ。俺と比較にはならない。
俺は周りに迷惑をかけっぱなしだ。由紀の手を借り、親父に気を使われ、担任には配慮される。いつ見捨てられるかわかったものじゃない。
足がなくなった途端、腫物のように扱ってきたチームメイトのように……。
それがどうしようもなく怖かった。
「お前はお前であるだけでいいって、なぜわからない?」
「俺は……俺が嫌いだ」
「でも、お前のことを好いている奴が二人もいる」
「……」
買ってもいない宝くじの当選報告を受けたような実感のなさだった。
「それに対して決着はつけなきゃいけないだろ?」
「……わかってるよ。でも、それって」
「ま、向こうの出方次第だけどな。とりあえずお前は自分のするべきことをすればいい」
「告白しろと」
「その前にデートに誘ってからな。機嫌をとらねーと」
気持ちの準備が追い付いていない。由紀に対しても、ソラに対しても。
――ボクじゃダメ?
――ダメなんだ。
直接は言わないにしても、想像しただけで気分が悪くなる。
「きついな」
「でも、長引かせるとさらに傷が大きくなる」
拓海の言葉は厳しかったが、そこに誠実さを感じた。
ワガママを言ってはいられないのだ。もはや俺だけの問題ではないのだから。
勇気がなくても、準備が足りなくても、やらなければならない。
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