十三話
「ソラ? 弁当食べないの?」
ぼーっと見つめているとカナに指摘された。
ボクははっとして誤魔化すように箸を動かす。
「食べるよ食べるよ! たくさん食べるよ!」
おばさんが作ってくれた弁当はおいしい。イギリスでの昼食はカフェテリアだったから慣れないが、おばさんの愛情が伝わってくるようで好きだった。
「変なの~」
カナはくすくすと上品に笑う。隣の席に座る彼女は日本でサクヤの次にできた友達だ。背は小さく眼鏡をかけており、公園のタンポポのようなかわいらしさがある。誰にでも好かれる落ち着いた子だった。
「ねね、話の続きだけど、ソラって望月君と一緒に暮らしてるんだよね? 男の子と一緒に住むってどんな感じなの?」
「う~~~~~ん」
好奇心に満ちた顔で訊かれるが、どう答えていいかわからない。
最初は楽しかった。あこがれの王子様と一緒に暮らせるなんてお姫様みたいだと舞い上がっていた。おじさんは優しいし、ごはんはおいしいし、マンガを読んでても怒られないし。息のつまるイギリスの豪邸よりもずっと家が広く感じた。
けど今は――サクヤに看病されたあの日からは、少し息苦しい。脱衣所で出くわすと恥ずかしいし、風呂上がりのぼさぼさ髪を見られたくないし、サクヤとの距離が近すぎるから心臓がどきどきしっぱなしで苦しいし。気を張り詰め続けているような感覚だった。
男子と一緒に暮らすのは難しいのか。それとも、好きな人と一緒に暮らすのが難しいのか。
「毎日がテーマパークって感じかなぁ」
「ごめん、よくわからないよ」
困ったようにこくりと首をかしげる。
「ジェットコースターは楽しいけど疲れるじゃん。毎日が楽しくて、ドキドキして――でもちょっと大変みたいな」
「毎日遊ぶのは疲れるもんねえ」
うんうんと同意される。カナは聞き上手で話しやすい。
「それに、最近はどうすればいいかわからないよ」
無意識のうちにサクヤを目で追っていた。ミオとキンジョーの二人と一緒に食べている。何やら深刻な顔をして話し合っているところを見るとユキのことだろうか。すごく仲が良さそうであの輪に入っていけないのは疎外感だ。
「あ~、望月君と月下さんが喧嘩したらしいもんね。ソラもあんまり望月君と話さなくなったし。やっぱり家でも元気ないの? 気まずいとか?」
「家では話してるよ~。ボクは喧嘩してないもん」
「でも来たときは隙あらば『王子様っ!』って飛びついてたよね」
「……サクヤも大切だけど、今はカナも好きだもん」
「そ、ソラ~!」
口元をほころばせて頭をなでられる。髪が乱れるから「う~」と抗議したけど「まあまあ」と押し切られてしまった。
カナが大切なのは本当だ。でもサクヤに近づけない理由はまた別にある。
顔を合わせられないのだ。面と向かって話そうとすると心臓がバクバク鳴りだし、顔がとんでもなく熱くなる。言葉はつっかえてうまく出てこないし、出たとしても聞き取れないほど早口になってしまった。ボクとは違うボクに乗っ取られたかのようにあらゆる制御が効かなくなる。逃げ出してしまいたい衝動に駆られてしまう。だから夕飯の時以外はサクヤから逃げ回っていた。最近は下校もカナと一緒だ。
学校でもカナと過ごすようになったのに、ふとした瞬間にサクヤを見ているから不思議だ。
「ちなみに、ソラって望月君が好きなの?」
「もちろんだよ~。サクヤだけじゃなくて、クラスの人はみんな好きだよ」
「うーんと、そうじゃなくて」
言いにくそうに顔をしかめ、むむむと言葉を選ぶ。
「恋人になりたい? ハグしたい? キスしたい?」
言われて想像する。ボクとサクヤが恋人になって、ハグをして、そのまま顔を近づけて唇を合わせ――
「ぱふ……」
妄想だけでくらくらした。心臓がバクバクいっている。
こっちに来たときはサクヤに抱き着くなんて何ともなかったのに。むしろボクから突撃するくらいだったのに。なんで、今はこんなに息苦しいんだろう……。
思考を現実に戻して顔をあげるとカナがニヤニヤとしていた。
「そっかー。かわいいなぁ、もう」
またなでなでされる。カナのペットみたいだ。
「でも大変だね。望月君には、ほら」
ユキに視線を向ける。弁当を早々に食べ終わり、一人で読書をしていた。
クラス中からちらちらと目を向けられていてもまったく動じていない。ユキの周りだけ別次元の空間があるようだった。
――美しい。
孤高の花の美を前にして息をのむ。ブラックホールのように視線が吸い込まれて抗えないなかった。少女マンガのヒロインのように、おとぎ話のお姫様のように、ただそこにいるだけで存在感を放っている。
「でもチャンスじゃない? ケンカしてるならさ」
カナに言われてどきりとさせられる。言葉に詰まったボクは黙って首を振った。
チャンスだと思いたくないのだ。ユキと喧嘩をしたサクヤは辛そうだ。一緒に暮らしていると、日に日に落ち込んでいくのがわかる。なんとか慰めてあげたいけど、その原因を作ったのはボクなのだ。それはユキからサクヤを奪い取るようで――少女マンガの悪役のようで嫌だった。落ち込んだサクヤを慰めればもしかすると好きになってくれるかもしれなけど、そんなの卑怯だ。
――なんとしてでも奪い取ってしまえ。
悪魔のささやきが聞こえてくる。正々堂々なんていらないと。
それが辛く、苦しかった。メインヒロインのように何もドロドロした気持ちを抱えずに王子様と結ばれたい。ユキを蹴落としたいとか、このまま仲直りしてほしくないとか、嫌な気持ちを抱きたくなかった。そんなことを考えるなんて汚い奴だともう一人の自分が罵ってくるようだ。
サクヤに近づけないもう一つの理由がこれだった。これをチャンスにとサクヤと仲良くなったらダメなような気がして。悪者になりたくなくて。
女の子の世界で略奪は大罪だ。
「そっか。真面目だね」
褒めてくれるカナが唯一の救いだ。いたわるように微笑んでくれる。学校が楽しいと思えるのはカナのおかげだった。
でも――見ているだけはやっぱり辛い。サクヤとユキは喧嘩をしてても、ふとした瞬間に仲の良さを感じるのだ。会話は少ないけど、だからこそ以心伝心を感じる。
それはキンジョーとミオにも言える話だ。三人でしている会議には入り込めないバリアがあった。どれだけ頑張ったとしてもボクはよそ者で、日本に来て二週間も経ってなくて、長い時間をかけて紡がれた絆には敵わなくて。
イギリスにも日本にもないボクの居場所はなくて――。
――いや。カナっていう友達ができたじゃないか。
「で、カナには好きな人いるの~?」
暗くなった空気を振り払うようにからかってみる。「い、いないよぉ」とあわあわして返される。必死に嘘をつく姿が可愛らしくて「え~だれだれ~?」とさらにからかってみる。
「そ、そうだっ! 今日の放課後はどうする? またうちに来る?」
「ぶ~、話をそらされた~」
「勘弁してぇ~」
泣きつかれたのでこの辺で止めてやる。あまりやるとかわいそうだからね。
「またカナの家に行ってみたいな。バイクかっこよかったもん」
「ほんと? じゃあお父さんに言っとくね。今日は何に乗りたい?」
「何があるかわかんないよ~」
カナの家はバイク屋だ。しかしそれだけじゃなく、すぐ近くにサーキット場を所有している。サクヤと一緒に帰りたくなくて一度だけお邪魔したときに乗せてもらったのだ。爆音とともに駆け抜けるのは気持ちよかった。
「じゃあ適当に見繕っておくね」
機嫌よさそうにスマホで文字を打っている。
バイクに興味があったわけじゃない。けれど少女マンガを楽しめる気分ではなかったし、放課後にサクヤと距離をとれるのでカナに付き合っていた。意外にも楽しかったので感謝している。でも――
こんなはずじゃなかったんだけどなあ……。
これじゃ何のために日本に来たのかわからない。
小さいころから絵が得意だったから、ボクはマンガ家になりたかった。でもイギリスではマイナージャンル。パパを納得させるためにも通っていたのは絵画教室だった。居場所がなかったのだ。
思い切ってパパに相談したけれど、ターナー家に恥をかかせるなと拒否された。マンガなど芸術のうちに入らない。絵を描きたいなら芸術家を目指せと。
だから無理やりにでも日本に逃げてきた。なのに、ここでも居場所を見つけられない。
いまだにみんなと違う制服が、仲間外れだと告げている。
描きかけのマンガは白紙のままだ。ボクは何をしているんだろう……。
「――とりあえず月下をデートに誘えよ」
喧騒の中から、再び声が聞こえてきた。
盗み聞きは良くないと思いつつ、どうしても気になって視線と意識が吸い寄せられる。授業中も気づけばサクヤを目で追ってしまって集中できていない。
「いきなりデートはハードルがなぁ……。せめてもう少し会話を重ねてから……」
「うわ、ヘタレぇ。これだから童貞は」
「うるせうるせうるせ! 何事にも順序があってだな!」
「十年も一緒にいて順序なんてないわよ。その若き衝動は何のためにあるの?」
「そーゆーのはいらないの! 俺たちは健全なの!」
ぎゃーぎゃーと言い合っている。
楽しそうだな……。
大変な状況だけど、三人は自然と笑顔になっていた。
「いいか朔夜。いま必要なのは意思表明だ。お前が好きなのは誰だ」
キンジョーが真剣な声色で問う。つい目で追ってしまったサクヤの顔は気圧されたようにたじろいでいたが、やがて覚悟を決めて。
「――俺は、由紀が好きだ」
何気なく聞こえてきた言葉。
ボクに向かって放たれたわけじゃない言葉。
いや、だからこそ。
ボクの中の何かが――壊れた。
「ならそれを伝えろ。そのためのデートだ。そうすることでしか月下を安心させられないだろ」
「でも誘ってついてきてくれるかぁ? 普通に断られそう」
「それが難しいな」
何でもないように三人の話は続く。ボクなんか目もくれず、仲直りに向かって案を練っていく。
やっぱり、ボクは蚊帳の外で。
二人の間に入り込めるはずもなくて。
恋の意味も知らないお子様で。
少女マンガの悪役側で。
お姫様にはなれなくて。
一人で舞い上がっていただけで。
『人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んじまえ』
以前に読んだマンガのフレーズが聞こえた気がした。
手錠をかけられたように腕が動かなくなる。世界中から責められているような気がした。自分の存在が汚らしいものに思えて恥ずかしくなる。
「……ソラ? 体調悪いの?」
カナが心配そうに見てくる。
「ううん。ちょっと、野菜が苦かっただけ」
嘘をついた。けれどカナの純粋な目はボクの黒さを照らし、暴いているように思えてしまう。カナは優しいからそんなこと思うはずないのに。
今だけは、大嫌いな故郷が懐かしく思えた。
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