三章

十二話

 教室に着くと由紀は手を離し、さっさと早歩きで自分の席に向かった。鞄の教科書を机にしまい話しかけるなとばかりに文庫本を開く。背筋を伸ばして無表情に本を読み続ける姿はミステリアスな高嶺の花だった。


 おずおずとその隣の席に座る。窓際から二番目にして最後尾。いつもは居心地がいいが、今日に限ってはちくちくと何者かに咎められているようないたたまれなさがあった。居心地が悪いのはソラも同じなのか元気なく廊下側の席に座る。俺とは目も合わせずに周囲の人と話していた。俺は何をするにも落ち着かず目線をさまよわせていると、ちょうど委員長がやってきた。俺を見るなり異様な雰囲気を察したのかジトっとした目を向けてくる。それを救いの眼差しと強引に解釈して立ち上がり委員長の隣に座った。


「あんた、金曜は何してたのよ」


 荷物を整理しつつ訊いてきた。


「……寝てた」

「バカぁ?」呆れたように言う。

「違うからぁ! ほら、ソラが早退しただろ? 看病の途中で寝落ちしたんだよ」

「やっぱりバカじゃない」


 じろじろと容赦のない視線をぶつけてくる。強気な眼光は心の底で澱む罪悪感を打ち抜いてくるようだ。思わず言い訳が口に出る。


「仕方ねえだろ。風邪ひいたときは誰かが近くにいるだけで安心するんだよ」

「だからこそ看病イベントは不倫の第一歩なのよ」

「不倫ゆーなし」


 委員長はなんでもそういう方向に持って行きたがる。


「いや真面目な話よ? 弱ってる女の子と二人っきりで優しくするなんてチャラ男の常套手段だから。多分、拓海がよく使ってるわ」

「それ男女逆じゃねえの? 女子が看病するんじゃなくて?」


 ソラの持っていた少女漫画には逆の展開があった。


「どっちでもよ。あんたが由紀に惚れた理由、忘れた?」

「……」


 俺が事故で足を失い辛い時にそばにいてくれた。ずっと支えてくれた。

 あのとき俺は救われた。だからソラも救われてほしいという気持ちに嘘はないが、彼女を利用しているような思いもあった。


 委員長は真剣な口調で続ける。


「それで、由紀が怒ってるのは看病イベントがあったから?」

「まあ、それもだけど……」


 二日間の出来事を話す。ソラを二人で連れ帰ったこと。一晩中看病をしていたこと。由紀を拒絶したこと。


 委員長は難しい顔をした。


「あんた間抜けねぇ。プチ喧嘩をした後に拒絶して、しかも他の女にかまけてたって。由紀が拗ねるはずよ」

「タイミングが悪かったんだよぉ」


 嘘ではない。親のどちらかがいれば鍵は開き、由紀は締め出されなかった。


 ……それが言い訳に過ぎないのは、わかっていたけれど。


「あんたがヘタレなのが悪いのよ。さっさと由紀を押し倒せばそれでハッピーエンドなのに」

「教室でそういうこと言うな!」


 彼氏すらできたことないくせに言うのだ。委員長の耳年増は加速している。

 大きな声をだしたせいか、由紀がちらりとこちらを向いた。


「あ……」


 由紀と委員長の目が合った。噂しているのがバレたのか、お互い気まずそうに目をそらす。再び文庫本に目を向ける由紀だったが、やがて耐えられなくなったのか席を立ち廊下へと歩きだした。


 ふと、ひとつの予感が身を貫いた。


 ――追いかけなければいけない。


 歯車をきしんだまま放置しては致命的なヒビが入る。これは由紀の拒絶なのだ。突き動かされるように立ち上がった。


「ま、待ってくれ由紀!」

「なに」


 足を止めて振り向いた由紀は不機嫌というより疲れたような言い方だった。うっとうしいと目が語る。


 心にぐさりときたが退くわけにはいかない。


「え~っと、その、ジュースでも奢ろうと思って」


 由紀は小さくため息をつく。


「……朔夜は悪くない。お詫びなんていらない」

「んなわけねーだろ?」


 電話では裏切り者って言ったくせに。


「由紀が学校に行けなかったのも、心配させたのも俺のせいじゃねえか。何もなしじゃ俺のが気がすまねえよ」

「私が勝手に行かなかっただけだし。心配なんてしてないし」


 冷たく心を閉ざされる。


 いつもはすぐに言い返してくるのに……。


「ただ疲れただけ。今は一人になりたいの。もういいでしょ」


 いら立つように言い放ち、再び出口へと向かう。俺は慌てて追いかけて腕をつかむ。


「そろそろ機嫌直してくれよ。何でもするからさぁ」

「じゃあ手を離して」

「逃げないならないいぞ」

「職員室に書類をもらいに行くだけだし。奨学金の」

「こんな時期に申請するやつはないだろ? それに、もう予鈴だぞ」

「……奨学金はほんとだし」


 気まずそうな顔を見て、思わず手を離した。


 俺と由紀の間には「金の話はタブー」という暗黙の了解がある。奨学金うんぬんの話は本当なのだろう。


 けれど、ここで退くわけにはいかない。


「疲れたなら頼ってくれよ。悩みがあるなら相談してくれよ。不満があるなら責めてくれよ。だって俺たち――」

「うるさい」


 心底うっとうしそうに言った。静かな声だが、それゆえ俺の罪悪感をかき乱すほど重みのある響きがあった。


「朔夜なんて嫌い。大嫌い。それだけだから」


 俺を振り切るようにすたすたと出ていく。義足では追い付けない速度。明確な拒絶だ。


 一歩も動けずに教室に残される。一線を引かれたという事実が、重しのようにまとわりついていた。










 俺たちの喧嘩はすぐに噂になった。金魚の糞がフラれたらしいと聞きつけたのか、何人かの男子が教室に入ってきて由紀をデートに誘ってきた。すぐに撃沈していたが。


 だがその様子を三度ほど真横で見せられると嫉妬で心をかき乱される。俺は由紀と釣り合っていないんじゃないか、由紀も本当は別の人がいいんじゃないか、由紀の自由を奪う金魚の糞なのではないか……。そんな思いがぐるぐると頭を回る。


 仲直りのために何かしないといけないと思いつつ、何かをしたらそのすべてが空回ってしまいそうで足が重かった。ここまで由紀の気持ちがわからないと感じたのは初めてなのだ。どうすれば許してもらえるのか見当もつかず、結局なにもできなかった。


 そうして一週間がたった。その間、由紀との関係は変わらなかった。

 登下校の手伝いはしてくれる。でもそれだけだ。会話もなく、ただ事務的に日々が過ぎていく。


 ――大嫌い。


 由紀の言葉が何度もこだまする。何をするにも気力がなかった。


「お前らめんどくせー。一週間って長すぎだろ」


 昼休み。菓子パンをかじる拓海が呆れたように言った。

 なにがと聞くまでもなく目線は由紀を向いている。男子からのアタックも少なくなり、一人ぽつんと弁当を広げる姿は浮いていた。


「うるせ~。じゃあどうすりゃいいんだよ」


 疲れたようなため息が出た。心の核をごっそり盗まれたように胸の穴を風が通りぬけていく。冬の到来を目前に控えた十一月の下旬。寂しい寒風に凍えてしまいそうだった。


「さあなぁ。月下もそろそろ許せばいいのにな」


 不可解とばかりに頭をぽりぽりかく。

 俺のエゴで狂った歯車は、未だギシギシと悲鳴をあげていた。

 しかし動機が何であれ、由紀がソラと会えば風邪がうつるリスクがある。家に来させなかったのは妥当な判断だ。


 選択は間違っていない。ソラの傍にいるのは必要なことのはずなんだ。


 それがどうしてこうなった……?


 長引いた冷戦にどんどん不安が広がっていく。


「由紀がなにを考えてるのか……俺にはわかんねえ」


 締め出された由紀が怒るのは仕方ない。だがここまで頑固な態度は初めてで違和感があった。


「あの子は意地になってるだけよ」


 委員長が会話に混ざってきた。小さな弁当箱とイスを持ってきて拓海の横に座り、呆れたようにため息をつく。いつも一緒に食べている女子をほったらかしているところを見ると、俺たちを心配して来たらしい。あだ名に恥じぬおせっかい……いや、ありがたい世話焼きだ。


「怒りの引っ込めどころがわからないのよ。拗ねてあんなことまで言って。望月に顔向けできないだけじゃない。あのバカは……」

「でも……」


 由紀は「嫌い」と繰り返し宣言してきた。


 あれは何なんだよ……。


「普通に考えなさいよ。嫌な人に正面から嫌いって言う? 嫌いな奴と手をつなぐ?」

「由紀は責任感が強いんだよ。放り出せないだけで……」


 委員長はうんざりしたように鼻をならす。


「これだから童貞は」


 ……委員長も恋人ができたことないくせに。


「例えばあんた、拓海と手をつないで毎日登下校できる? 無理でしょ。生理的に無理でしょ。責任感とかそういう以前に無理なものは無理なのよ」

「オレに飛び火させる必要あった?」

「拓海は少し黙ってて」


 委員長がぎろりと睨むとおとなしく引っ込む。数多の女を陥落させてきた拓海だが、委員長には敵わないのだ。


「好きの反対は無関心よ。わざわざ嫌いと宣言するってそれめちゃめちゃ意識してるじゃない」

「そうかなあ……」


 あの言葉の意味はわからない。意味を考えようとしても胸に深々とささった破片が思考を鈍らせるのだ。


「でもよぉ。いくら俺を意識したって、あんなひっきりなしに告白されてちゃ……」

「あんた、それは――」

「――殴るぞ、朔夜」


 委員長の言葉をさえぎり、拓海が低い声で言った。凄みのある表情に思わず固まる。


「月下の気持ちをお前が疑うな。お前以外を好きになると思ってるのか」

「な、なんだよ。なんで拓海がそんな……」


 ぎろりと睨まれ、反論できずに言葉が止まる。厳しく鋭い眼光が俺の目を射抜いた。恐ろしさに肩の力が入る。


「お前はどれだけ月下に助けられてきた。毎朝迎えに来てくれて、世話を焼かれて、放課後も一緒に過ごして。そこまで尽くしてくれた女なら信じろよ」

「で、でもさ、俺と由紀は釣り合わないだろ。金魚の糞と金魚じゃ……」


 それはずっと不安だった。俺なんかが由紀の隣にいて良いのだろうか。迷惑をかけていないのだろうか。俺みたいな欠けた人間と一緒にいて由紀は幸せになれるのだろうか。未来の隣り合う二人を想像すると一人は平凡な義足の男、もう一人は最高の美少女。それは世の理から離れた歪なものに見えた。


 ひどい格差だ。俺と由紀が一緒にいるのはただ幼馴染ってだけで……。


「しょーもないこと考えんな。釣り合ってるとかお似合いとか、だれが決めたんだよ」


 普段の態度からは考えられない、凄みのある真摯な表情だった。誠実さを前にして下手な言い訳も茶化しもできない。一年ほどの付き合いで初めて見る顔だった。


「月下の性格だぞ? 自分の幸せくらい自分で決めるだろうよ。その女がお前のためにここまで尽くしてくれたんだ。その真心を裏切るなよ」


 真心――。


 その言葉は妙に重く響いた。そうだ。俺はもう由紀を裏切るわけにはいかないのだ。


「あの子は全部自分の意志で決めるのよ。本当に関わりたくないならとっくに絶縁してるはず。喧嘩をしても登下校に付き合ってくれるのは、そういうことよ」


 委員長もしっかり由紀を見ている。


 由紀が孤立しているのは高嶺の花だからではなく、単に性格が悪いから。


 わがままで、気が強くて、絶対に自分の意見を曲げない偏屈もの。協調性なんてない。


 でもなぜだろうか。どうしてそれが全て魅力に見えてしまうのだろう……。


 惚れた弱みってやつだ。


「……悪かった」


 頭を下げると拓海も気まずそうに顔をそらした。


「いや、いい。オレも言い過ぎた」


 気まずい空気が流れる。ズボンのすそをぎゅっと握り沈黙に耐えていると、委員長がパンパンと手を鳴らした。


「ま、とにかく由紀の隣に――あの性悪ぼっちの隣にいられるのはあんただけってこと。責任とって付き合いなさい。できれば押し倒しなさい」

「……健全な範囲でな」


 覚悟を決める。

 委員長はすべてを許したように優しく微笑んだ。


「ちゃんと仲直りしなさいよね。あの子をぼっちにするのは気が引けるもの」


 切実な表情で祈るようにこぶしを握っている。

 ひねくれたぼっちには委員長の大いなる優しさが向けられていた。

 コンプレックスまみれの男には拓海の思いやりが向けられていた。

 二つの親切は嬉しかった。大嫌いという鳴りやまない残響が少しだけ収まった。


「ありがとな」


 感謝は一言で片づけられないと思ったが、とにかく言葉にしたかった。

 二人とも照れたように頬をかく。変な空気になったので無理やりに話題を転換した。


「それにしても由紀が拗ねてるだけかぁ。あんまり想像できんな」


 いつも毅然としており、我が道を行く由紀だ。拗ねて自分の行動を曲げるのは意外だった。


「あんたらが今までに喧嘩をしなさすぎだったのよ」

「いやしてたぞ? 子供の頃なんか何度したか」


 小学生は些細なことで言い合いになる。サッカーと野球のどっちが面白いかで壮絶な言い合いをしたこともあった。いま考ええばアホらしいことだ。


「でもそれ全部あんたが謝ったんでしょ? しかもすぐに」

「決めつけんなって。低学年の頃はハーフハーフだったぞ」


 高学年ごろから力関係は由紀が上になった。そのころになると美少女はもてはやされる。圧倒的な人気を得ていた由紀に逆らうのはクラス全体を敵に回すようなものだ。


「尻に敷かれすぎてるからよ。従順な犬が突如噛みついてきたらびっくりするでしょ?」


 憐れむような目を向けられる。少しムッとなった。


「じゃあどうしろと」

「そりゃもう押したお――」

「それ以外で」


 委員長は口をとがらせてつーんとそっぽを向く。恋愛経験がないので何も言えなくなったんだろう。


「態度をはっきりさせることだろうな。月下を安心させる。それからだ」

「拓海が言うとギャグに聞こえるな……」

「オレは真面目なんだが」


 真顔で返される。普段の行いゆえに説得力は薄かったが、それが一番だと思う。少なくとも委員長の案よりは――

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