九話

 家の中には誰もいなかった。電気もついておらず、暗闇は静まり返っている。

 ソラの体力は限界だった。靴を乱暴に脱いで電気をつけ、急いでソラの部屋の布団に寝かせる。汗びっしょりなので着替えた方がいいと思ったが、布団に入って五秒で寝息を立て始めたのでそれもできなくなった。寝るというより気絶だ。学ランだけはぎ取って掛け布団をかけた。


 念のため暖房もつける。もともと子供部屋にする予定だったので設置されている。


「早く良くなれよ」


 ソラの荷物を置いて部屋を出る。リビングに行くとテーブルに書置きがあった。


『父さん今日は帰れません。母さんも泊まりです。晩御飯は冷蔵庫にあります』


「……タイミング悪いな」


 月に一度はこういう日がある。よりによって今日かという落胆と、一人で看病ができると喜ぶ気持ちがあった。


 冷蔵庫を開けると母ちゃんが作ったらしきサラダとハンバーグ。親父が作ったらしきクリームシチューが入っていた。二人とも着替えを取りに一度戻ってきたのだろう。米を炊けば夕食はなんとかなる。


 二人ともいない日の定番は親父のクリームシチューだ。望月家の料理で俺が一番好きなものでもある。


 いわばお約束のようなものだ。ヒーロー物のアニメではピンチになったら主人公が助けに来る。それと同じように、二人がいなくてさみしい日には、クリームシチューで気分を紛らわせていた。小学生のころから染みついた習慣だ。親父と距離が離れてうまく話せない今では、このシチューを食べているときだけが素直になれる。


 夕飯の心配がないことに感謝しつつ米を炊く。ソラの分はおかゆを作ることにした。


 とりあえず今は寝かせるとして、二時間くらいたったら起こしてみよう。

 その間に飯食って風呂入って……あ、あと鍵もかけなきゃ。






 二時間後。ソラを起こすとまだ辛そうな顔をしていた。体温計を渡したときに触れた肌は真夏のアスファルトのように熱い。


「食欲あるか?」

「あんまり食べたくないよ。おなかがだる~い」

「できれば食ってほしいけどなぁ。シチューだけでも無理か? 食べた方が回復も早い」


 看護師の母ちゃんの受け売りだから間違いない。


「まあそれくらいなら……」


 そこでピピピ、と体温計が鳴った。受け取ると三十九度近くあった。


「ほんとにただの風邪か? インフルエンザとか? 受診した方がいいんじゃ……」


 それに、昨日の夜に冷えて今日の昼に発熱は早すぎる気がする。もう少し潜伏期間があってもいいと思うのだが……。


「……ううん、ただの風邪だよ」


 ソラがきっぱり言い切った。


「何日か野宿したからね。日本は慣れないし、弱ってたんだと思う」

「はい⁉」


 さらっととんでもないことを言った! なに、野宿? いつ? なんで?

 しばらくぽかんと口を開けていたが、ソラが話しにくそうにしているのでハッとして立ち上がる。少なくともいま話すことじゃない。


「……シチュー持ってくるから。その間に着替えておけ。汗かいたままだと冷えるぞ」

「は~い」


 元気そうな声だが、覗かないでねと冗談を飛ばせないあたり弱っているのだろう。

 リビングの冷蔵庫からシチューを取り出して電子レンジで温める。着替え終わるのを待ってから部屋に入った。昨日と同じ黄色のパジャマだ。


 シチューとスプーンを渡す。


「熱いから気をつけろよ」

「ありがと……って熱っ!」

「気をつけろってば……」


 かなりぼーっとしている。目の焦点がふらふらと揺れており、ここではないどこかに意識の半分を置き去りにしているようだ。シチューをすくう手つきは危なっかしい。


「……おいしいね」


 それでも一生懸命に食べていた。ふーふーと冷ましつつゆっくりと。懸命にスプーンを動かしている。


 親父の料理が褒められるのは自分のことのように嬉しかった。


「だろ。親父の得意料理なんだ。望月家の自慢だぞ」

「おじさんの自慢かあ」


 空虚な響きがあった。たった一つのつぶやきが耳の奥で何度もこだまする。

 それきり沈黙が降りた。スプーンとエアコンの音だけが物悲しく聞こえてくる。用が終わったら退散していいはずなのに、俺はソラの横から動けないでいた。動いては行けない気がした。不安定な瞳は寂しそうに揺れていて、孤独の寒さに凍えているようだった。


 それはまだシチューがなかったころのお留守番。暗い部屋にぽつんと残され、一人で冷たい夕食を食べる寂しさに近いものを感じた。


「ごめんね」


 消え入りそうな声だった。小さな声は小さな部屋に充満して空気に重しをつける。


「なにがだよ」

「風邪ひいちゃって。看病してもらって。迷惑でしょ」


 不遜さはどこにいったのやら。申し訳なさそうに力なくうつむいている。

 強がりすらも消え失せて魂が抜けたような顔つきだった。


「あのなあ、ソラはうちにホームステイしてるんだろ? ならもう家族なんだよ。家族なんて迷惑をかけあうんだよ」

「やっぱり迷惑じゃないかぁ」

「それがどうしたってんだ。看病なんてしてもらえて当たり前くらいに思っとけ」


 半分は自分に言い聞かせていた。足を失った俺は一人では――家族のサポートなしには生きていけない。迷惑をかけるのは当たり前だと思い込まなければ、自分が世界の邪魔者に思えて仕方なかったから……。


「その代わり元気になったら今度は俺がソラに迷惑をかける。それでおあいこだろ」


 いつも誰かに助けてもらってばかりだから、頼られるのは嬉しい。世界から必要にされていると実感できるのだ。金魚の糞なんかじゃない、俺は役に立つ男だと自信が湧いてくる。


 自己満足にソラを巻き込む罪悪感は、すでに霧散していた。

 人助けなら誰でも良かったのかもしれない。俺の目に映るのはソラではなかった。

 ただ……由紀の隣に立ちたいだけで。


「でも、ボクのホームステイなんて、押しかけただけだよ? 家族だなんて」

「まあ親父は色々大変そうだし迷惑だったかもな。でも俺は関係ねーもん。むしろ兄妹が欲しかったくらいだし。そりゃ、最初は戸惑ったけど、家族が増えるって楽しいだろ」

「家族……かぁ……」


 望月家には歪な空気が流れている。俺は親父とうまく話せない。

 そんな雰囲気を一蹴してくれるソラの明るさはありがたかった。


「サクヤはさ、おじさんのこと好き?」


 おそるおそる訊いてきた。ソラも数日で俺と親父について察したのだろうか。

 複雑だった。好きとか嫌いとか、そんなもんじゃない。それだけで感情を決められるのなら世の中はもっと単純だ。


「嫌いなわけないだろ。だからこそだよ」


 もっと図々しくなれば解決するのかもしれない。

 それができないのは嫌いじゃないから。家族は迷惑をかけあうと自分で言っておきながら、まったく実践できていない証拠でもあった。


「ボクは……自分のパパのこと、キライ。ホームステイなんていうけどね、ほとんど家出してきたんだ。勝手に向こうの学校を休学して、勝手に飛行機のチケットをとって。何も考えてなかったからホームステイの受け入れ先なんてあるわけないし、学校に転入できるわけもないし。だからこっちにきて一週間くらいは野宿してたんだよ」

「の、野宿かよ……」


 本格的な冬ではないが、外で寝たら凍え死にそうだ。そりゃ風邪もひく。

 かなりぶっ飛んだ説明だったが、不可解だったことに理由がついた安心感からかすぐに受け入れていた。ソラの行動力やエネルギーを見ればありえない話じゃない。


「本気でホームステイできるとは思ってなかったよ? 手続きしてないんだもん。パパが日本に来て、連れ戻されると思ってた。……でも、そんなことなくて、パパの会社の日本の従業員がボクのとこに来て、二日くらい会社に滞在してたら、あれよあれよとホームステイ先が決まっちゃった。日本の王子様に会いたいってずっと言ってたから、サクヤの家に来られたのは良かったけどね」


 淡々と語った。疲れたような表情で、無感動な声音だった。


「いい親じゃねえか。子供の行動力を応援してるんだから」

「違うよ……。ボクは見捨てられたんだよ。そっちの学校を卒業しろって。帰ってくるなって。ボクは……ターナー家の恥だから」


 ソラはうつむく。涙を見せたくないのか、布団に顔を押し付けた。

 簡単な言葉で励ますことはできなかった。簡単に踏み込める話じゃない。

 ソラを初めて見たとき、彼女は絵画を描いていた。でもここに来てからそんな様子はなく、漫画に興味を持つばかり。ソラは社長令嬢で、イギリスでも貴族のような立場だったと考えれば、なんとなく話の予想はついた。


 目を見ればわかる。ソラは一人ぼっちなんだろう。それも日本まで逃げ出すほどに。


 俺もそうだった。足を失った直後、親とはうまく話せず、サッカークラブの仲間やクラスメイトともうまくいかなかった。


 でも――由紀がいたから立ち直れた。由紀がずっとそばにいてくれたから……。

 辛い時にそばにいてくる。ただそれだけで救われるって俺は知っているから……。


 うつむいたソラの頭をわしゃわしゃとなでる。ソラも黙って受け入れた。


「食い終わったなら寝ろ。俺でよければここにいてやるから」

「サクヤが……?」


 ソラが顔をあげる。目が少し腫れていた。


「漫画の続きも読みたいしな。この部屋の方が都合いいだろ」


 照れ隠しと大義名分は忘れない。本当は頼られて嬉しいだけ。


「いいの?」

「熱も高いしな。何かあったらすぐに救急車を呼ぶ係がいた方がいいだろ」

「…………うん」

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