八話
「あんたなにやったのよ」
その日の昼休み、委員長が呆れたように言ってきた。
学校に着いてから由紀が一言も口をきいてくれなかったのだ。昼休みになると避けるようにどこかへ行ってしまった。
「なにって、まあ、そりゃ……」
ためらったが、状況の悪化を防ぐために今朝の出来事を委員長に話す。
視線がみるみるゴミを見るようなものに変貌した。
「あんた、クズね」直球である。
「反省してるってば……」
殴られた頬がずきずき痛む。全力パンチだった。
「ラブコメの主人公はこれだから。す~ぐハプニングを装って女の子をホテルに連れ込んだり」
「それなんて昼ドラ?」
そもそも主人公じゃねーし。
指摘すると恥じたのか、委員長は少し顔を赤くして誤魔化すように腕を組む。
「……でもまあ、由紀らしくはないわね。望月がやらかしたら罵倒の限りを尽くすのが由紀の役目なのに」
「俺たちどういう関係に見られてるんだよ」
「犬も食わない夫婦喧嘩を毎日のように提供されたらねえ」
「……別に俺と由紀は付き合ってないってば」
「それはもういいから。だって、申し訳ないと思ってるんでしょ? 由紀の気持ちを知っているから」
「……」
指摘されて自分の心の内を覗いてみる。
今まではっきりと自覚していなかった黒い霧のような罪悪感が広がっていた。もやもやとした胸中に自分で驚く。
「ま、ちゃんと謝っておきなさい。あんたが悪いのは間違いないんだから」
「それが難しいんだよ」
謝りはした。けれど、由紀は何も答えてくれず俺を避けるように過ごしている。
その距離感に戸惑った。想定よりも少しだけ外側にいる。つなごうと差し出した手がむなしく空を切るような感覚だった。
「あんた一人じゃなくて、ソラちゃんも一緒に連れて行きなさい。男だけが言い訳をしても聞いてもらえないでしょう?」
「だな……って、ソラはどこだ?」
教室を見回すと自分の席で突っ伏していた。弁当すら広げず微動だにしない。寝ているのだろうか。
「お~いソラ。今から由紀のとこに行かないか?」
「う……」
「ソラ……?」
うめき声とともに不規則なテンポの寝息が止まり顔をあげる。額にびっしょりと汗をかき、苦しげな表情を浮かべている。
「お、おい、大丈夫か? なんかきつそうだぞ」
「ソラちゃん、顔赤いわよ」
慌てて委員長も駆け寄ってくる。
意識がぼんやりしているのか姿勢が安定していない。ふらふらと頭が揺れ、今にも倒れてしまいそうだった。急いで額に手を当てる。
「あっつ! おまっ、熱あるじゃねえか! よく授業受けてたな」
十一月にはだけた服で布団もかけずに寝ていたからだろうか。ソラは寒そうに両肘をさすりうつむいた。息は荒く、苦悶の表情を浮かべている。
俺がちゃんとしていなかったからだ……。
鼻水をすすっていたり、シャワーで寒がっていたりと予兆はあったのに……。
委員長も額に手を当てる。顔をしかめ、心配そうな眼差しを向けた。
「熱が高いわね……。これは早退かしら」
世話焼きの委員長らしい優しい声音だった。
「とりあえず保健室に行きましょうか。歩ける?」
ソラはこくりとうなずき立ち上がるもフラフラとしていた。見ていて危なっかしい。委員長が即座に肩を貸した。
「じゃあ二人で行ってくるわ。悪いけどそっちは自分でやりなさいよ」
「手伝おうか? 委員長一人じゃ大変だろ」
「……変態」
委員長に蔑みの目を向けられる。そんなつもりはないのだが……。
二人はゆっくりと教室を出た。昼休みの人であふれた廊下を歩いて行く。心配だが俺が行っても意味がない。
それより問題は由紀の方だ。謝ろうにもどこに行ったかわからない。電話をかけても出らず、メッセージも既読無視だ。怒っているのか落ち込んでいるのか、あるいはその両方か。どちらにしろ俺を拒否している。義足で追い付けない速度で逃げたのはそういう意味だ。
「……飯、食うか」
どうしようもないので一人寂しくパンをかじることにした。由紀の弁当と比べると雲泥の差である。久しぶりの一人飯はなんだか寂しかった。
そうして昼休みが終わるころ、どたどたと教室に担任が入ってきた。
「望月はいるか?」
十一月なのに汗を額ににじませて、きょろきょろと教室を見渡す。
手をあげるとほっとしたようにやってきた。
「ああ、見つかってよかった。実は、ターナーが早退することになったんだ。けど家に電話をかけても誰もでなくてな」
やっぱりか。三十八度は超えていただろうしな。
「父は仕事で……母は寝ていると思います。夜勤で疲れていると思うので」
「困ったな。家まで一キロ以上はあるだろ? 迎えに来てもらおうと思ったんだが。お父さんはどのくらいに帰るかな?」
「遅いと思います。今日は早くに出て行ったので、忙しいんじゃないかと」
俺らの寝坊を起こしてくれなかったほどだ。起きる前に出て行ったということである。
「そっかぁ」
担任は一瞬だけ俺の足に目を向ける。金属製の左足ではソラを連れて帰ることはできないだろう。顔に落胆が出ないようにしているが、その手の感情を向けられ続けてきた俺にはわかってしまった。
――お前が普通の人ならば。
そう言われている気がした。
昼休みギリギリまで由紀は戻ってこなかった。話しかけられないまま放課を告げるチャイムが鳴る。すぐ隣にいるのに、歯車がかみ合わないようなもどかしさだった。
「由紀、ちょっといいか?」
授業の終わりと同時に話しかける。下校があるのでこのタイミングなら無視できない。
「なに」
「今朝のことで。俺、由紀に謝りたいと……」
「別にいい。あれは事故」
淡々と無表情で言うが、どこか拗ねたような声色だった。
「いやでも、由紀怒ってるし」
「怒ってないし」
「え、いや、怒って――」
「怒ってないし」
きっと睨まれる。恐怖の大王は健在だ。ぶるりと震え、「はい」と服従した。
「あんなことは気にしない。……信頼、してるから」
最後の一言をぼそりと付け加え、照れたように顔をそらした。
――信頼。
なにより重い言葉だった。金属の足で支え切れるか不安になるほどの。でも、その重量は心地よかった。
「朔夜は悪くない。気に入らないけど、ソラも悪くはない。悪者はいない。だから、これでおしまい」
「……ああ」
不自然なほど流暢な言葉だった。多分、昼休みに一人で練習したのではないだろうか。無表情の奥に隠れているが、勇気を振り絞った音が聞こえた気がした。
そっけなかったけど、何より嬉しかった。
「だから帰ろ。今日は早く帰らないといけない」
「あ~、その前に保健室によっていいか? ソラが熱出したんだ。もしかしたら、一緒に帰らないといけないかも」
「……どういうこと?」
訝しげに見てくる。事態を把握していないらしい。
「ソラが熱出したけど、親がこられないから帰れないんだよ。だから俺が連れて帰らなきゃいけないんだが……」
「朔夜にはできない」
「そうなんだよなぁ。親父の帰りも遅いし……母ちゃんが電話に気づけばいいんだけど」
そもそも帰ってきているかすら怪しい。病院に寝泊まりしている可能性もある。高校生の子供を迎えるので抜けますとは言いにくいだろう。
「私にソラを送れと」
「まあ、そういうことになるかなぁ……」
拓海も委員長も家は正反対だ。こんなことを頼めるのは由紀しかいない。
図々しいお願いに対して由紀は不満げだ。
「私が泥棒ネコを」
「そんなこと言わずにさぁ~」
げんなりとしている。しかし緊急事態なのはわかったのか、諦めたように手を差し出した。そこに俺の手を重ねる。
「ひとつ貸し。コーヒー奢って」
「いいぞ。プラス漫画も貸してやるよ」
「それはいらない」
面白いのに……。
布教の成功を喜ぶソラの気持ちが分かったような気がした。
「やっぱりタクシー呼んだ方がいいんじゃない?」
保健室に迎えに行くと、養護教諭が心配そうに言った。たしかに病人に歩かせるのは酷だが、反射的に「いえ」と申し出を断った。タクシーは負けという固定概念が染みついていたのだ。歩くのが辛い俺は近場でもタクシーを使いかねないので、自らに制限をかしている。普通の人がしないことをしたくなかったのだ。そのせいで今回は視野が狭くなってしまったのだが。
ふらふらとベッドから出るソラを由紀が支え、そのまま帰り支度をする。
教諭にお礼を言って学校を出た。外には部活のかけ声が響いている。ソラと由紀、二人の有名人が並んで歩いているが、みんな部活に夢中で声をかけてくる人はいない。
辛そうなソラのペースに合わせてゆっくり坂を下っていく。由紀も体重を預けられてかなりきつそうだ。代わってやれないのがもどかしかった。
「ユキ……ごめんねぇ」
ぽつり呟いた。その言葉がどんな気持ちで放たれたかはよくわからない。複雑な重みをもって耳の奥に響いていた。
「なにが」
それを知らずか、それとも知らんぷりをしてか、由紀は無感動に返す。
「……なんだろうね?」
なはは、と誤魔化すように笑った。それきり会話は途切れ、遠くからのカラスの声だけが聞こえてくる。
秋の風は冷たく首をなでた。この時期は夕方になると冷え込んでくる。だが由紀は額に玉のような汗をにじませていた。
由紀は俺と委員長以外に友達がいない。楽をしている無責任な立場だから言えるのかもしれないが、必死に支える姿は二人が仲良くなったようで嬉しかった。
三十分ほどでたどり着いた。すでに太陽は稜線の向こうに沈もうとしている。
「ありがとな、由紀」
「別に。朔夜のおもりはいつものこと」
「……ありがとな」
照れたように由紀はそっぽを向く。いつものように悪態はつけなかった。
由紀の肩を離れてソラはふらふらと立ち上がる。転ばなかったものの、焦点も定まっておらず危なっかしい。
由紀は心配そうに見つめていた。
「朔夜だけで大丈夫? 私も看病した方が……」
まだ両親は帰らない。頼れる人はいなかった。
そこでふと、これは絶好のチャンスだと思った。
ソラの面倒を見ることができる。人に頼りきりの役立たずではなく、世界に貢献できる男だと証明できるのだ。独力で人を支えられれば、由紀の隣に立つ資格がいくらか手に入る。でくの坊ではないと胸を張れるはずだ。
人に頼りっぱなしは嫌なのだ。俺だって、役に立てると思いたい。由紀の隣に立つ資格が欲しい。人助けをすれば、望月朔夜が無価値ではないと証明できる。
由紀の恋人になったとき、周囲に祝福されるような男になりたかった。
自己満足なのも、由紀に恩返しができていないのもわかっている。俺は俺を赦したいだけだ。金魚の糞を脱するためにはなりふり構っていられない。
「いや、早く帰らなきゃいけないんだろ。俺一人でもできるって。母ちゃんは看護師だから看病のあれこれは教えられてるし」
無意識のうちに拒絶するような言い方になった。一人で成し遂げたかった。
それを感じ取ったのか、それとも心配なだけかわからないが、由紀は悲痛な顔をした。
「……わかった」
「ああ、また明日な」
ソラも弱々しく手を振る。それを見届けた由紀だが、手を振り返すことはなく、何かに急かされているような早歩きで帰っていった。
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