三話
前言撤回。ひどい一日だった。
――あいつはいいよな~。月下の同情を引けて。
――金魚の糞のくせによ。
ゲラゲラと手を叩いて笑う声が、壊れたラジオのように耳の奥でリピートされる。
腹に収まった弁当が罪のように思えた。
「朔夜、落ち込んでる?」
由紀は無表情だが、からかうように言ってきた。帰り支度をしつつ机に突っ伏す俺の後頭部をつんつんとつついてくる。
「落ち込んでねーよ」
「……金魚の糞」
「だから金魚の糞を由紀が言うなっ!」
がばっと起きてにらみつける。弁当を渡したのは俺をからかうためなんじゃないか?
「やっぱり気にしてるし」鼻で笑われた。
「この状況で平然としてる由紀がおかしいんだろぉ」
注目を集めてもものともしない。昔から見てくれが良かったからか、人の視線になれていた。
帰り支度を終えたのか鞄を閉じて手を差し出してきた。
「帰ろ。明日になれば噂も落ち着く」
鞄を持って由紀と手をつなぐ。秋になって気温が下がったからか温かく感じる。
いつもより少し強く握られている気がした。
特に会話もなく歩く。靴の履き替えを手伝ってもらっていると数人の生徒がちらちらこちらを見てきたが、今回は気まずく目をそらしていた。むき出しの義足を見ることが罪であるかのように。
すっかり陽が傾いていた。冬が近づいているのか、冷たい風が木々の葉を揺らしている。
学校を出るとすぐに美雪坂に差し掛かる。坂の下りは義足にとって最難関だ。
肉体の膝を再現できないので踏ん張れずにバランスを崩してしまう。緩やかな坂ならリハビリでも練習したが美雪坂はそうはいかない。一人ではほとんど不可能だった。
目だけを動かして由紀を見る。顔は夕日に照らされて紅くなっていた。無表情だがなんとなく温かみを感じる。
由紀は俺と手をつないでの登下校をどう思っているのだろう……。事故からもう六年になるので今更だが、ふと心配になった。
思案していると家に着いた。坂を下った先の一軒家。三角屋根も白塗りの壁も等しく夕日の紅に染まっていた。由紀の家はこの先のアパートなのでお別れだ。
「ここまでありがとな。それじゃ、また明日」
手を離して玄関前の階段を上り、扉に手をかける。
「……朔夜」
か細い声だった。振り向くと由紀が複雑そうにうつむいている。
ためらうように視線をさまよわせていた。
「どうした?」
「……なんでもない。また、明日」
表情を変えないまま由紀が踵を返し、俺が扉を開ける。
その時だった。
「――王子様ぁぁぁぁ!」
特徴的なイントネーションの日本語とともに、家の中から金色の弾丸が飛び込んできた。
流れ星のようだった。義足でよけられるはずもなく、金髪が俺の腹に突き刺さる。
「がふぅぅ⁉」
ドシン――‼
勢いのまま外に放り出されて尻もちをつく。二人分の体重を乗せてアスファルトに打ち付けられた。
「やっと、やっと会えたよ~! よかった~!」
「いって……」
上半身を起こす。小柄な金髪の少女が俺の膝に乗っていた。
人形と見間違うほど可憐な少女が。
笑顔は晴天、動きは子犬、弾む声は鈴のよう。――そんな少女が。
「やっと会えたよ! 王子様っ!」
…………誰?
状況を整理すべく深呼吸をした。
俺の家から出てきた見知らぬ少女が、道路に倒れこんだ俺の上にまたがっている。
満面の笑みを浮かべ、潤んだ瞳は夕焼けを反射していた。
紅い瞳は宝石のように光を反射し、左右のお団子は子犬のようにぴょこぴょこ揺れている。
風で揺れる髪からははちみつのような甘い匂いが漂ってきた。
今朝の記憶がよみがえる。金髪で、お団子で、小柄――登校中に見た画家の女の子だ。
「君は」
ふと、背中に悪寒が走った。
心臓を背中から槍で貫かれているような寒気。死が頭をよぎるほどの本能的恐怖が全身を駆け巡る。逆らってはいけないと頭の中で警鐘が鳴り響いた。
「朔夜。その女、だれ」
「俺も知らねえよ⁉」
振り向くと由紀の目は生気が消失し、殺意に近いものを宿していた。
こ、殺される……。
恐怖に支配され慌てて少女の肩をゆする。
「だ、だ、だれなんだ君は! どうして俺の家から」
「あれ、王子様は知らないの?」
少女がきょとんと首をかしげる。
その仕草も表情にもどこか幼さを感じた。
「王子様……?」
由紀が訝しげにつぶやく。俺も困惑していた。
あ~も~どうなってんだよ~っ!
「とにかく。何でもいいから朔夜から離れて。くっつきすぎ」
「え~いいじゃないかぁ。六年ぶりの再会なんだよ~!」
駄々をこねるように言う。不満が素直に声と顔に出ていた。
「関係ない。私は朔夜と十年の付き合い。私の勝ち」
「ぐぬぬ……で、でも、少女マンガ的には再開系の方が……」
「いや何を張り合ってるんだよお前ら」
不毛な争いを止める。くっついてくる少女を引きはがし、由紀の手を借りて立ち上がった。
汚れたズボンを由紀がパンパンと払う。
「王子様ぁ。この人だれ~?」
「……その言い方だとまるで俺と君が知り合いみたいじゃないか」
少女は目を丸くした。「へ?」と間抜けな声をあげる。
「覚えてないの?」
「……」何も言えず目をそらす。
「王子様ぁ~、そんなのないよ~」
しなしなと脱力してぺたんと地面に座り込んだ。呆けたような顔だ。よほどショックだったのか魂が口から出ているように見える。
罪悪感が湧いてきたが、謝っても仕方ないので誤魔化すしかない。
「ええと、こいつは月下由紀だ。俺、望月朔夜の――」
「彼女」
「――じゃなくて幼馴染だ。すぐにばれる嘘を言うな」
じろりと睨まれるが気にしない。
「それで、あなたは朔夜のなに。セフレ? 愛人? 捨てられた女?」
「ありえねーだろ。六年前は小学生だろうが」
「それになんで朔夜の家から出てきたの。場合によっては通報」
「わ~違うよ~! ちゃんと許可取ってるって~!」
由紀の取り出したスマホを取り上げようと少女が手を伸ばす。身長差によりまったく届いていなかった。ぐぬぬと顔に悔しさをにじませつつ諦めて下がる。
不利を悟ったのかマウントをとるように由紀に向かって言い放つ。
「ボクがここに来たのは、そう、運命だよ。一度は別れてしまったけど、導かれるように王子様と再びめぐり合って――」
「運命なのに覚えられてないけど」
「そ、そっちのほうがドラマチックだし! ここから挽回するもん!」
「そもそもお子様は相手にされないけど」
「ボクは王子様と同じ年だし~っ!」
威嚇する小動物のように少女はにらみつける。かわいかった。愛玩的に。
なんでこいつら初対面なのにこんな喧嘩するんだよ……。
呆れつつ間に割って入る。
「二人とも喧嘩すんなって。覚えてなかったのは謝るから……」
「ほんとに何も知らないの~⁉ ぼ、ボクのアドバンテージが……」
がっくりとうなだれる。絶望の谷に突き落とされたような落ち込み具合だ。
悪いことをしたかなと思ったが、本当に記憶がないのでどうしようもない。
声をかけられず戸惑っていると、家の中から親父が出てきた。
「む、声がすると思ったら。帰ってきていたのか」
親父のワイシャツはくたびれていた。年齢以上に深く刻まれた顔のしわが印象的な細身の中年である。陰のある表情はうつむいており、光のない濁った瞳の焦点はあいまいだった。
いつもより二時間ほど早い帰宅である。
「親父、帰ってたのか」
「早退の命令があってな。まあ、この子に関することなんだが」
少女に視線を向ける。親父も戸惑うような顔だった。
「彼女はいったい……?」
「あー、それなんだが」言いにくそうに顔をそらした。「事情があってな」
「おじさん。不法侵入やストーカー被害なら即刻通報を」
「違うんだよ由紀ちゃん。安心して」
由紀は安心できなさそうに一歩引く。不満顔だ。
「彼女はホームステイでうちに来たんだ。すごく急だけど」
「は?」
反応したのは由紀だった。先ほどよりもさらに低い、閻魔様の声である。
「説明してください。急に同棲じゃ納得できないです」
「いや同棲じゃないし。ホームステイだし。てか、説明を求めるのは俺のセリフだし」
「朔夜は黙って」
ヒエラルキーには逆らえず、俺は命令のまま口をつむぐ。
おかしい。これは望月家の問題なのに、なぜ由紀が主導権を握っているんだ?
親父も困ったように頭をかいた。
「断れなかったんだよ。社長の娘でね。僕も、さすがにクビは惜しいから」
「命令だから同棲を認めるんですか? しかもこんな唐突に」
「いやだからホームステイ……」
「朔夜は黙って」
次はないぞ、との視線を向けられた。恐怖で口が縫い付けられたように動かなくなる。
「迷ったけど、すでに来ちゃってたから、受け入れないと野垂れ死んじゃう」
「……」
「朔夜も……納得してくれたら嬉しい」
親父から視線を向けられて考える。
迷いはあった。
悪人には見えない。むしろ希代の美少女だ。ころころ変わる表情に嘘は感じない。
騒がしい人と一緒に暮らすのは楽しいだろうとも思う。
だが――急にホームステイと言われても困る。一時とはいえ家族が増えるなど一人っ子には想像もつかない。非現実的な状況を前に心の準備もなく、肯定も否定もできなかった。せめて考える時間が欲しい。
親父はすまなそうにうつむいた。へりくだるような態度に胸が締め付けられる。
「……急すぎるけど寝床とかは大丈夫なのか?」不満を隠し、心配してる体を装う。
「そこは問題ない。ホームステイは命令だから、軍資金がでるんだ。布団も買ってきた」
「じゃあ、反対理由はねえよ」
言葉にしない葛藤は山ほどあった。だが親父を困らせたくなかった。
物分かりの良いふりをした。
「なに、朔夜はこいつを受け入れるの? 同棲ライフ万歳?」由紀の声は淡々としていた。
「いや言い方ぁ。違うから。仕方なくだから」
「王子様ぁ~、今日からよろしくね~」
ギリギリギリギリ。
由紀の歯ぎしりの音が聞こえた。闇を宿した目でターナーさんを見ている。
「あなた……名前、なんだっけ」
「ターナー・ソラナ。三人ともソラって呼んでね」
「ソラとはいい友達になれそう」
「え~、そうかなあ? 顔が怖いよ?」
由紀はまっすぐにソラを見据える。宣戦布告をするように。
「別に、敵視はしない。あなたは、所詮、ただの家族なんだから」
「……?」
「朔夜のバカ。鈍感」
言い残して由紀は去っていった。怒ったように早歩きで背中が遠ざかっていく。
なにかとんでもない不吉の予感がした。
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