二日目
研究員ビリー・ロイドは、毎朝始業時間の数分前に到着するという生活を二十数年続けて生きてきた。ギリギリというわけではないが余裕を持っているわけでもない。しかし遅刻は交通機関の遅延などを除き、一度もしたことがない。また成績は常にクラスの上位から3割付近というものであった。休憩時間は学食で数人の仲間と週3で集まり、食後は眠い目をこすりながらレポートを書く。つまるところ、彼はとても平凡な人間であった。
そんな彼がこの深海プラント──ファーティリティに派遣された理由は「動かしやすいちょうどいいポジションにいた」からである。それはロイド自身もうっすら自覚しているが、この派遣が己の人生にどのような影響を与えるか把握ができないことも、また自覚している。
そんなロイド研究員は、宿舎のベッドに倒れ込んでから一回も目を醒ますことなく、二日目の起床時間を迎えた。
「ん……ん?」
「よぉ、眠り姫様。ご機嫌麗しゅう」
「う……もしかして俺、ずっと寝てた?」
「それはもう猫のように……それともナマケモノか?」
「……コアラだよ。よく寝るのは」
「そうか。で、昨日どうだった? 俺はな、人に恵まれたのか一日中楽しくおしゃべりしてたよ」
ロイドは昨日読んだマニュアルの中の情報統制についての部分を思い出した。
「えーと……確か、深海で菌たちはどのように振る舞うかって研究だったような。まぁ、モノがモノだから人と情報の出入りはなるべく抑えようってことで、これ以上は言えない」
「ふーん。うちとどっちが楽しいのやらね」
「じゃあ俺はシャワー浴びてくるから。また今夜な」
「おう。今日はちゃんと起きてることを願うよ」
シャワー室に向かったロイドだったが、扉を開けた途端開放された生臭い臭いに思わずたじろいだ。発生源は見当たらないから、まだ気分が楽であると同時に、空間ごと消臭しなければならないという事実にめまいを覚えた。
「うっ……何がおしゃべりだよマコーミック。……ケン・マコーミックめ! 当分の間、魚料理はノーセンキューだな。逆にあいつにはうんと食わせてやるんだ」
シャワー室での呼吸を最小限にとどめることを試みたロイドは、浴び終わる頃には温まったのか酸欠なのかわからないほど、顔が赤くなっていた。
仕事場所までは多少の距離があったから、到着する頃には顔は健康な色に戻っていた。しかし、扉の前に立つと、今度は血色を失っていくのであった。
「ううむ……。入りたくない。しかし、まだひどい目に遭うと決まったわけじゃない」
ロイドは意を決して鉄扉を開け入室した。中は昨日退勤したときと何ら変わりない景色が広がっていた。
「はぁ。具体的には、プラントの書類整理と並行してあいつの世話をするんだよな」
ロイドはコンピュータの電源を押し、ホログラムモニターを自分好みの場所に展開した。
「あっちでは知る人ぞ知るホログラムモニターが、こっちでは全員に与えられてるんだもんな。すごい資金力だ」
「あら、そうなの? とっくに標準化されているものだと思っていたわ」
「……どうせ自分の力で開けられるんだから、開けて喋ってください」
「ふふ、失礼」
ギィィとシャッターの上がる音がした。3メートル先にいるのは自分より少し上くらいの美しい女性に見えるが、ただの人間ではないのだ。一瞬目を奪われながらも、ロイドは考え直した。
「まぁ、あなたに攻撃の意志は無い……と思いたいですね。もし次、昨日みたいなことをしたなら、然るべき処置──何をするかは秘密ですが、取らせていただきます。この命に代えてもね」
「命だなんて、私そこまで……。ごめんなさい。昨日のことは謝るわ。二度としないって誓う」
「わかってくれればいいんです。あなたが何者かは知りませんが、大方暇を持て余してたんでしょう」
「そうよ。前の担当者さんは……誰だったかしらね。とてもいい人だったわ。絵が好きな人でね、ほらこれ」
彼女は部屋の奥──おそらくシャワー室などがあるスペースから、一枚の絵を取り出しこちらに渡してきた。
「これは?」
「彼の故郷の景色ですって。私、絵のことは全然わからないのだけど、これは特に素晴らしいと思ったから譲ってもらったの。特にこの色使いが好きね」
「ふむ、そうか。あなた……F、どうやら俺とは少し感性が異なるらしい」
「あら、そう? 残念」
ロイドは絵を返却したが、その手は震えていた。彼女が提示した絵は、空も海も黒系色で塗られ、海からは異形が何匹も出現しているものだったからだ。彼女が嘘をついているのか、前任者が狂気に呑まれたかのどちらかしか考えられないと、ロイドは考えた。
「一つ聞いておくが……自分のことを人間だと思っているか?」
「意味深ね。そんなにさっきの絵が気に入らなかったかしら? そうね。少なくとも地上で暮らすのは不可能だと考えているわ」
「そうか。まぁ、あなた自身のことはこれからゆっくりと聞かせてもらおう」
「それがいいわ。あなたにはまだ早い。こんなに短時間に私のことを知り過ぎたら……ふふっ」
人を小馬鹿にした態度での返答であったから、ロイドは彼女を試すために唐突な激昂を実施した。
「……。知り過ぎたら何なんだ? 俺は頭がおかしくなって、深海に飛び出すのか? それともここの全員を殺して回るのか? 教えてくれよ、なぁ!」
「ご、ごめんなさい。そんなことは起こらないわ……絶対に」
ロイドの豹変ぶりにFはたじろいだ。突如怒声を浴びせられた彼女の身体はビクッと震え、ただの人間のようにこわばっていた。それを見てロイドはニコッと笑う。
「なんてな。試して悪かった。悪人ではなさそうだから、これ以上厳しい態度を取ることはやめにするよ」
一転和解が成立した二人であったが、ロイドは心の奥底ではまだまだFに対してどのような距離感で接するか考えていた。呑まれるなという忠告が頭の片隅で反響を続けていた。逆に考えれば、その忠告さえ覚えておけば多少彼女と距離を詰めても許されると、ロイドは無理やり自分に言い聞かせた。
「そ、そうね。私もずっとここにいるものだから、つい訪問者に対して意地悪な態度を取ってしまうの。教えてくれてありがとう……ええと、そういえば名前をまだ聞けていなかったわね。教えていただいても?」
「俺はビリー・ロイドという」
「そう……ロイドね。いい名前だと思うわ」
「ファミリーネームを褒められても困るが……まぁありがたく受け取っておこう。そうだ、Fというのも味気ないな。せっかくだから何か名前をつけようか」
「あら、ありがとう。名前なんてとっくの昔に縁が切れたと思っていたから、嬉しいわ」
「……フィオナはどうだ?」
「フィオナ……うん。今の私にピッタリの名前だわ。ありがとう、ロイドさん」
Fもといフィオナは握手を求めて両手をこちらに差し出してきた。応えるべきか悩んだロイドであったが、初日に触れるのは触れていたので、決心して握手に応じた。しかしその手は生きた人間から感じ取るべき温度を持ち合わせていなかった。まるで死者のように冷たく、しかし弾力は生者のそれであったから、最先端の義手と握手している錯覚を覚えざるを得なかった。それは同時に、彼女が人間を外れた生物であることの証左でもあった。
「それでは、俺は少し作業をするから、何か用があったら話しかけてくれ」
一人はデスクに、一人はベッドに腰掛けた。シャッターは開けっ放しになっているが、二人の位置からはお互いを目視することができなかった。だから、互いの息遣いや椅子の軋む音、衣擦れの音だけが聞こえる妙な距離感が生まれるのであった。
先に音を上げたのは意外なことにフィオナの方であった。フィオナはベッドから立ち上がり、シャッターの面会窓に腰掛けた。
「ねぇ、やっぱりお話しない? 私知ってるのよ、その仕事って実は特に重要でもないって」
「残念ながら否定はできないな。新人の頃でもやったこと無かったよこの仕事は」
「実は、三十九年前くらいの担当者さんは、私に慣れてきたら『手伝ってくれ』と言ってきたことがあるの。もちろん手伝ってあげたけど、私、あいにくそういう能力は無いから、出来上がった書類を見て大笑いしていたわね。『なんだこの文章とデザインは。まるで子供が書いた聖書だな。あはは! 後で俺が直しておくよ』ってね。とても恥ずかしかったけど、今となってはそれもいい思い出だわ。懐かしい」
「三十九年前か……。その、三十九年前の彼はさぞ愉快な人だったんだろうな」
「ええ、それはもちろん。最初はあなた同様にとても怖がっていたけど、気がついたらすごく懐いてくれたわ。最後の方には地上から取り寄せた最新機器を見せてくれたり、奥さんの写真も見せてくれたりして」
「……今、彼は何をしているんだろうか」
ロイドはふと、脳内での言語化を拒んだはずの仮定を、平穏な答えを返してくれという願いが込められた問いを、口に出した。彼女は人間のようであって人間でないのはさんざんわかっていたはずだった。まさに地雷を踏んで、あとは爆発するだけだ──ロイドはそう思った。
「え、さぁ? 今頃は故郷で隠居でもしているんじゃないかしら? もしかしたら、まだ最前線で働いていたりして」
「そ、それはよかった。また会えたらいいな」
地雷が爆発どころかそもそも存在しなかったことに、ロイドは胸をなでおろした。相変わらず書類仕事は進んでいなかったが、どうせ急ぎではないんだし、なんなら彼女と話すほうが楽しいとさえ思えてきた。
「ちなみに、彼の名前は? もしかしたら、この会社のお偉いさんになっているかもしれない」
「そうね。確かファーストネームは……ケネスね。でも彼ったら『恥ずかしいからラストネームで呼んでくれ』ってずっと言っていたわ」
「ケネス?」
「えぇ、ケネスよ。私はケニーって呼んでいたけれどね。ラストネームはマク……なんだったかしら。マクガフ? マッカーシー? いいえ、違うわね」
「……マコーミックか?」
「……マコーミックだわ! そう、彼の名前はケネス・マコーミックよ」
「ケネス……ケニー……。つまり、彼はケン・マコーミックということか」
「短縮したらケンにもなるわね。それが?」
「……おそらくだがフィオナ、三十九年前にこの部屋にいた男は、今、俺の同僚をやっている」
***
「おい、どうだ。何か聞こえるか?」
「いいや、何も聞こえない」
「そうか。でもおかしくないか? またここに配属になったやつがいるんだろ? しかも今週だ」
「それはそうだが……」
「少し開けてみないか?」
「いや、それはさすがにまずいだろ」
「でももう終業時間は過ぎてるぜ。なに、相手は新人だ。俺が上手いこと言いくるめられるさ」
「いいや、俺はパスさせてもらう。中は気になるが、秘密の研究施設や拷問部屋でも出てきたら、俺たちは途端にそこの仲間入りさ。好奇心は人間をも喰らっちまうんだぜ」
「そうか。でも俺の見立てでは、そんな大層なもんは無いと見る。俺一人でもやるぜ」
「やれやれ、平行線だな。生きてたらまた明日、教えてくれや」
「約束するよ」
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