深淵のあなた
muneko
一日目
深海3000メートル。深海帯上部とも呼ばれるその深さに人類が到達してから数十年後の話である。
某国某州の沖合200キロメートルの海深くに、一つのプラントが建設された。ただしそれを知るのは施工関係者と、政府の一部高級官僚のみであった。
落成してから数年後、ある男が派遣されることになった。名をビリー・ロイドという。彼は同時に派遣された十数人と同じ時間に起床し同じ三食を食べ、同じ時間に就寝するただの研究員の一人に過ぎない。突出した何かがあるわけでもなく、野心があるわけでもなく、命じられたまま行動することを疑いもしないが、常人程度には人間味がある。そんな彼にくだされた指令は、ある人間を監視することだった。
「……というわけなんだけどさ、どう思う? この仕事」
「おいおい、俺なんて今日から一ヶ月は獲ってきた深海魚のおもりだぜ? それに対してお前さんは人間だろ? こっちはもう、来月には深海語しか話せなくなってるんじゃないかって気分だ」
「こっちだって訳ありだね絶対。こんなところで監視されている人間なんて、まともなやつじゃないに決まってる」
「ふはは。死刑囚かもしくは……実験体、か」
「怖いこと言うなよ」
「骨は拾っておいてやるよ。餌になってなければな。じゃあな兄弟」
「それじゃあまた明日」
ロイドは、比較的仲の良い研究員であるマコーミックと分かれ、それぞれの勤務場所へと向かった。
「さて……ここか」
プラント最下層のそのまた最奥に佇む鉄扉を精一杯押し開けた先には、自分たちの宿舎とほぼ同じの、白くて清潔で眩しい空間が広がっていた。唯一違うのは、刑務所の面会場所のように手前と奥が仕切られていることだった。ガラスの代わりにシャッターが下ろされていて、向こう側は確認できないようになっている。
「うえー。一体どんな化け物が封印されてるんだよこの部屋に」
ロイドはデスクに座り、作業概要書を開いた。部屋は依然として静かなままだった。
「えーっと……『被検体Fについて』か。『まず初めに。Fは人間ではない。彼女が何と言おうと、動物の鳴き声のようなものと考えることが重要だ』だと? 少なくとも、シャッターの向こうにいるのは深海魚ではないということか」
ロイドはシャッターの方を見た。灰色の波は一つも動きを見せないから、書類の方に目を戻す。
「次が『業務内容』か。『やることは至極単純である。被検体Fの世話と会話相手だ。ただし、先程も言ったように呑まれるなよ』……やけに砕けた内容の書類だな。書いたのは誰だ? 前任者か?」
ロイドはデスクの引き出しや棚を次々に開け放っていったが、どれも空っぽだった。落胆した勢いのまま椅子に腰を下ろして、ガシャンという金属の軋む音が部屋にこだまする……はずだった。
「ねぇ」
この瞬間ロイドの耳は、さながらヘッドホンをかけたように、謎の声だけを受け付ける状態に変化した。
「誰だ?」
ロイドはその場で彫刻のように身体を硬直させながら、机を爪で叩き続けた。すると、徐々にその音が聞こえてくるように耳が変化してきた。そして、イヤホンを着けている程度の遮音性に落ち着いた。
「開けてよ」
「被検体Fか? 嫌だと言ったら?」
「押し通る」
その瞬間、光という光が失われた。次に音が消え、部屋の状況把握が不可能になった。その次に触覚が消えたから、自分が今立っているのか尻もちをついているのかが不明になり、最後に味覚と嗅覚が消えた。しかし消えるその刹那、ロイドが感じたのは塩の味であった。
果たして今自分が『何』なのか。今考えている自分は実際に存在しているのか。といった問いをロイドは覚えた。そして、自分の存在を証明するのはこの問いにこそ他ならないという結論に至り、ロイドは目を覚ました。
端的に言えば、ロイドは見知らぬ女性に膝枕をされていた。どれだけ脳を回転させてもこの状況を咀嚼することは難しかったので、思考を止めて立ち上がり、彼女と対峙することにした。
「……被検体Fか?」
「そうよ。お疲れ様」
「何をした」
「少しいたずらを」
周りを見ると、どうやらシャッターの向こう側らしいことがわかった。そのシャッターはきれいに開けられていた。ロイドは顔色一つ変えずシャッターをくぐり、精一杯の力を込めて下ろした。
「はぁ、はぁ、どうしよう。まだ何もわかっていないのに、術中にはまってしまった。そもそも、あんな人智を超えた何か……何なんだよ。とりあえず、このドアだけでも死守しなくては」
ロイドは動かせそうな棚をドアの前に移動させた。それであの力を防げるとはとても思えなかったが、やらないよりはマシだと必死に唱えながら作業を続けた。
「そんなに怒らなくてもいいじゃない。ね?」
シャッターの向こうから物理的な声が届けられた。
「よく聞け被検体F! お前が何者かは知らないが、ここからは出さないぞ! 一端の研究員だと思って甘く見るなよ!」
虚勢も虚勢であった。彼女はそれを見透かしたように答えた。
「私、そもそも『出して』なんて言ってないわよ? ただこのシャッターを開けてもらって、あなたとお話したかっただけ」
ロイドはやっと、自分の仕事が『世話と会話相手』であることを思い出した。
「そうだ。仕事内容は……話すこと、か」
ロイドはバリケードから椅子を引っ張り出し、全体重を乗せて腰を下ろした。ちらと部屋にかかった時計を見ると、おそらく4時間は寝ていたようだった。
「一応だが、これから話す内容はすべて録音させてもらう。容量は心配するな。この手のひらサイズで半年は保つ代物だ」
「へぇ。そんなものがあるのね。でもシャッターを下ろした状態では見えないから、開けてくれないかしら」
「自分で開ければいいだろう。鍵なんてものともしないだろうに」
「あなたに開けてほしいのよ」
「……面会部分だけだ」
ロイドは渋い顔をしながらシャッターを上げ、録音機を差し出した。
「……これで満足か」
「すごい。本当に小さいのね」
「もういいか」
「なんで目を合わせてくれないのかしら?」
「合わせたら危険だからだ」
そう言って手を引っ込めたロイドは椅子に座り、入口のドアの方へ向いた。危険生物に対して背を向けるほうがよっぽど危険なことはわかっていたが、どうにも彼女の方を向く勇気がなかった。
「残念ながらもうすぐ定時だ。こんな意味不明の仕事なのに労働時間はきっちりしているって、変だよな。四六時中見張っているほうが安全だろうに」
「そうね。私としては、このままここにいてくれてもいいのだけど」
「本当に労働を理解しているんだか。もちろん残るわけはない」
「ええ。また明日」
「……」
ロイドはバリケードを解体する間も決して後ろを振り向かず、部屋を出た。その顔は七連勤を終えたときのような顔であった。
***
「おい、知ってるか? あの最下層のアレの担当、変わったらしいぜ」
「へー。今何人目?」
「えーっと俺がここに来た時点で三十四だったから……ちょうど五十じゃないか?」
「ずっとあるよな、あそこ。中に何があるんだろう」
「それなんだけどさ、明日見に行かないか? 仕事終わった後にさ。ほら、俺たちもう交代じゃん。やっと地上生活に戻れるわけだけど、最後の思い出としてどうだ」
「乗った! もう5年も働いたんだ。ちょっとくらい覗いても……許されるわけはないな。あのおっかない所長のことだ。バレたら深海魚の餌にでもされちまうよ」
「だからと言って」
「逃げたら男の」
「名がすたる」
「それじゃあ明日、鉄扉の前で」
「それじゃあ明日、ロマンを見つけよう」
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