第2話


「解消……ですか。それはお返事できませんわ」

「なんだと!」

「私にお返事をする権限はございませんもの。……ね、お父様」

「!」


 私が彼の背後に向かって声をかけると、ロナルド様はすぐにその意味に気がついて振り返る。そして身をすくませた。

 彼の後ろには私のお父様であるウエイバー伯爵と、彼を呼びに行ったジャンの姿があったの。普段から厳めしい顔を更に鬼のように厳しくさせているお父様は大迫力で、ロナルド様は一気に背中が寒くなったに違いないわ。


「あ……」

「で、『そういうわけだから』というのは、どういうわけかね。ベイルートの」

「え、ええと……お、僕とアリエスの間にはどうしても越えられない壁がですね……」


 しどろもどろに言い訳をしようとするロナルド様。私はそれを逃さず、さっと口を挟む。勿論そんな事は淑女としてはあまりお行儀が良くないから、ショックを受けて思わず言ってしまった雰囲気を作ってね。


「まあ! 酷いわロナルド様。愛する恋人を『壁』と表現なさるだなんて!」

「なっ、アリエス! 違う!」


 あら、もしかして「壁」とは、私が彼に一線を引いて、絶対に唇を許さなかった事を指していたのかしら? だっていくら婚約者でも特に好きでもない殿方と結婚前にキスをしたいとは思わなかったし、ここ二年は指導されていたのだもの。


 お年頃なのもあって最近やたらと『男女のふれあい』をしたがるロナルド様は、私が淑女らしく拒むたび不満をあからさまに顔に出していたわ。……リューグ男爵令嬢とはきっともう唇を重ねているのでしょうね。もしかしたらその先も……


 でも、まぁ、その事には触れないでおいた方が良さそうなので、そのまま気づかないふりをしておきましょう。私は眉を下げたまま同情するように言う。


「何が違うのですか? 今のお言葉がルビィ・リューグ男爵令嬢のお耳に入ったりしたら、彼女、きっととても悲しまれますわ。お可哀想に……」

「なんだと!!」


 私の言葉にお父様が激怒する。わあ、青筋を立てているのを見るのはいつぶりかしら。父より頭ひとつぶん背の低いジャンが必死でお父様を止めている。止めなければロナルド様を今にもボコボコにしそうな勢いだもの。


「貴様!! アリエスが居ながら浮気をしていたのか!!」

「ち、違、違いま……」

「酷いわ! さっき私の他にルビィ様という愛する方がいると告白されたばかりですのに! それも違うと仰るの?」

「あ、アリエス!!」


 真っ青になって私とお父様を交互に見るロナルド様。ふふふ、とても楽しいわ。私って悪趣味でしたのね。でも顔には出してあげない。引き続き困り顔で彼をなじる。


「ルビィ様とは前世から結ばれたお相手とまで仰ったじゃありませんか……」

「貴様ああああああああ!!!」

「ヒエッ!!」


 最早完全に鬼となったお父様の形相に、情けない声を上げて私の後ろに逃げるロナルド様。まぁ、女性を盾にするなんて最低だわ。殴りかかろうとするお父様を小さい身体で何とか抑え込んでいるジャンの肉体と精神の強さを少しは見習ってほしいものね。


「旦那様! お気持ちはわかりますが堪えてください!」

「ええい、止めるなジャン! お前は知らんだろうが、ワシは亡くなられたアンリエッタ妃殿下のファンだったのだ! それを……それを! ワシの可愛いアリエスを同じ目に遭わせたコイツを殺す!!」


 15歳のジャン、16歳の私とロナルド様が生まれるよりもずっと前……25年くらい前だったかしら。当時隣の大帝国からこの国へ嫁いでこられたアンリエッタ様は嫋やかでとても美しい方だったそう。結婚式の時に遠くからその姿を見たお父様は一目でファンになってしまったのだとか。私のアリエスという名前もアンリエッタ殿下に一部あやかったのですって。


 ところがアンリエッタ殿下の夫となった当時の王子殿下(現国王陛下の兄にあたられるそう)はなかなか酷いひとで、結婚前後も堂々と浮気をなさったのだとか。お相手の伯爵令嬢とは『前世から結ばれていた真実の愛だ』と主張されて。


 アンリエッタ妃殿下はその後亡くなられた。当時は伯爵令嬢が暗殺したのだとか、妃殿下自ら毒を飲んで自殺したのだとか色んな噂が飛び交ったそうよ。公式には病気で亡くなったって事になってるけど、それも王子殿下の浮気のせいで世を儚み、病になったと言うのが国民の大多数が信じている意見なの。


 当然話はこれで終わらない。アンリエッタ殿下の生家である帝国がこの事に大激怒して、王子殿下と浮気相手の身柄を引き渡せと言い出した。

 最初は前国王陛下も帝国の要求を突っぱねようとしたのだけれど、今にも帝国が戦争を仕掛けそうな勢いだったし、浮気者の王子は自国民にも不人気だから支持されていない。


 結局、王子殿下は王位継承権を剥奪され、後添えとなった浮気相手共々離宮で隔離され、実質的に幽閉されたって


 そんな歴史が近年あったばかりだから、この国では身分ある人の浮気はご法度っていうのが最近の風潮なんだけど、ねぇ……。まさか婚約者に浮気をされてしまうなんて。お父様がお怒りになるのも当然よね。


「旦那様! 本当にお気持ちはわかりますが! 殺しはダメです!」


 ジャンが足を踏ん張りながら(あら、芝生がめくれちゃったわ)、お父様を抑えて叫ぶ。お父様はそれに間髪入れず答えた。


「では半殺しだ!!」

「ひいいっ」

「半殺しもダメです! ベイルート伯爵家に請求する予定の慰謝料をロナルド様の治療費と相殺されてしまいますよ!」

「は? 慰謝料!?」


 ジャンの言葉に目を丸くするロナルド様。


「「「……」」」


 その姿に、私もジャンも、お父様も目を丸くする。ほんの少しの間、時が止まったような無言が皆で共有されたあと、私は口を開いた。


「……まぁ、ロナルド様。まさか婚約の解消にあたって、慰謝料をお支払いにならないおつもりでしたの?」

「……え、だって、そんな。これは穏便な婚約解消で」

「貴様アアアア!!! どれだけアリエスを虚仮にすれば気が済むのだアアアア!!!」

「ひゃあああああ!!」


 一度は止まったお父様がまた猛獣のようにロナルド様へ突進しようとするので、今度こそ彼は脱兎の如く逃げ出した。その後ろ姿にジャンが声をかける。


「後程ベイルート家に慰謝料について連絡を致しますねー!」


 ロナルド様はビクッとして振り返り、何か言おうとしたけれど、その途端お父様が走って追う素振りを見せたので再び慌てて逃げ出したわ。


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