第3話 雨音で閉じ込めて

「そういえば自己紹介がまだだったね。私は水見霞みずみかすみ。二年一組です」

「あ、すみません。名乗るのも忘れてて。私は仲月凪なかづきなぎです。一年三組です」


 帰り道を二人で辿ること数分。

 ようやくお互いの名前もまだ知らないことに気がついた凪と彼女は自己紹介を済ませた。お互いに名前を言うと、ぺこりと頭を下げ合う。

 

 どうやら凪の隣にいる彼女は、水見霞という名前らしい。名は体を表すと言うけど、霞という響きの美しさは彼女の容姿の美しさを見事に表しているものだから、それをここまで体現する人がいるのかと凪は心の中で感心した。


「水見先輩、ですね。よろしくお願いします」

「……」

「……先輩?」


 その言葉に驚いたのか、霞は凪の顔を目を丸くしながらじっと見ていた。これまでの言動に何か失礼なところがあっただろうか、と凪の頭に緊張が走る。

 だが凪が言葉を発したのは自分の名前と挨拶くらいなもので、いくら考えを巡らせても霞が驚く要素があったとは思えず、凪は頭を悩ませた。


「先輩、どうかしましたか?」

「……あ、ううん。なんでもないよ。ちょっと驚いただけ。そんな反応されるのは随分と久しぶりだったから」

「久しぶり?」

「うん。私、役者をやってるの。テレビとか雑誌にもそこそこ出てるから、仲月さんは私のこと知らないんだなってそう思っただけで。ちなみに私、今度主役もやるんだよ」

「え、す、すみません。私、テレビとかあんまり見ない方で。女優さんだったんですね」

「気にしないで。むしろ反応が新鮮で面白かったというか、むしろ……ううん。とにかくそんな謝らないで」


 まさか隣にいる人が有名人だとは思いもしなかった。あまりの衝撃に道の途中で足が止まる。傘の先に溜まっていた水滴が、反動で一粒落ちた。

 凪は慌てて霞に謝罪を告げるが、霞は怒るどころか嬉しそうな表情を浮かべていて、その表情に凪はほっと胸を撫で下ろす。


 驚きで止まっていた足をまた動かしながら、凪は隣の霞を横目で見る。作り物のように綺麗だと思っていたけど、どうやら彼女は作り物ではなく有名人だったみたいだ。


「でも女優さんって聞いて、納得しました。先輩、すごく綺麗な人だから」

「そう真正面から言われると照れちゃうな。でも、ありがとう」

「やっぱり昨日みたいな告白って、何回もされたことあるんですか?」


 恋愛経験のない凪は興味津々とでも言うように目を輝かせた。そんな凪に霞は嫌な顔一つせず穏やかに答える。


「そうだね、経験はかなりあるよ。付き合うことはないけどね」

「……それはどうして?」

「どうして、か。うーん。そういうものはそうとしか言えないんだけど……そうだな」


 霞は少し考えた様子を見せる。凪はそんな霞をじっと見ていた。


「今まで人を好きになったこと、ないからかな」


 そう告げる霞の表情があまりにも穏やかなものだったから、凪は数秒の間、言葉を発することも忘れてしまった。


「好きになったことが、ない……」

「うん。別に誰ともそういう関係になりたいと思わないというか。興味ないんだ、恋愛とか」

「……」

「仲月さん?」

「……いいなあ」


 自分と正反対で、それでいて晴れやかな顔をする霞を見て思わずそう呟いてしまった。凪の言葉を拾った霞は、「いいなって、どうして?」と問いかけてくる。

 それが今度こそ失礼になってしまうと思った凪はとっさに誤魔化すが、霞は話を逸らしてくれなかった。


「どうしていいなって思うの?」


 そう聞いてくる霞の目は、先ほどまでの凪の目のように輝いていた。それは霞が凪に興味を持っているからなのか、星の光のせいなのかは分からない。

 どちらにせよ霞が諦めるつもりがないことだけは分かったから、凪は観念したように口を開いた。


「──私、今まで誰にも好きって言われたことが無くて。……あ、家族とかはありますよ。その、恋愛的な意味でってことです」

「……そうだったんだ」

「それってつまり、私は誰にも選ばれたことがないってことなんじゃないかなって、そう思って。だから、先輩が恋愛とか興味ないって言ってるのを聞いてすごいなって思ったんです。誰とも特別な関係にならないで生きていける先輩は強い人で、すごいなって」


 今まで友人にも言うことができなかった悩みが、口から次々に出てくる。それは霞が友人でも他人でもない、ただの顔見知りだったからかもしれないし、霞の人柄のおかげかもしれない。

 だけど自分の中に秘めておこうと思った悩みは、止まってくれなかった。


「……相手は誰でもいいの?」

「……え?」

「付き合う相手。誰でもいいのかなって」


 だが凪の悩みを聞いた霞の口から出てきたのは、同情でも慰めでもなかった。あまりのも突拍子のない質問に戸惑いながらも、凪は肯定の意味で頷く。


「多少好みはありますけど、今の私は恋に恋しているみたいなものなんです。だから、特定の人が好きってことはないですね」

「……そうなんだ」

「こんな話されても困っちゃいますよね、すみません。雨もさらに強くなってきましたし、早く帰りましょうか」


 凪は歩く速さを少し早めようとして──それは叶わなかった。右手が誰かに掴まれていて、足が止まってしまったからだ。

 凪の手を掴んでいるのは当然隣の霞しかいない。


「……先輩?」


 凪は振り返って、手の先を辿るように視線を移す。

 そこには顔を俯かせた霞がいて、凪はどうしていいのか分からなくなってしまった。


「あの、先輩? どうしたんで──」


 次の瞬間だった。

 凪が認識できたのは、突然こちらへと身を寄せてきた霞と、唇に伝わる温かい感触だけだった。


 それは数秒の間重なって、やがてゆっくりと離れていく。


「……」

「……」


 キスをされたと気づくには、かなりの時間が必要だった。


「仲月さん」


 透明感のある高い声が、他人事のように耳に響く。そうして──


「君に一目惚れ、したみたい。だから私と恋人になってほしいんだ」


 目の前の霞は、そんな訳の分からないことを口にしたのだった。


「……え?」


 ドッと、途端に鼓動が早くなるのが分かる。混乱している凪にできたのは、今でも早まっていく鼓動を雨の音で隠すことだけだった。

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