たとえどれほど遠くても

空式

あの光

 目を逸らしたい気持ちを抑えながら、スマホの画面を操作する。

 開いたサイトは、大学が主催する、公募の文学賞のサイト。

 高校生限定の部門なら、余裕で賞が取れると思っていたのだが、私の送った小説は箸にも棒にもかからず。

 賞の結果が発表されてから六か月、ようやくサイトを開くことができた。

 そう、これは研究だ。今年に向けて、参考程度に去年の受賞作を見ておかなければいけない。

 大賞の作品をとりあえず読んでみる。

 文章は上手いが、いまいち乗れない作品だった。

 ——これなら、私の作品の方が。

 そう考えるたびに、自信が削がれていく。あと一作ぐらいしか読めそうにない。

 次は――。

 北高。近くの高校の人だ。優秀賞だが、これにしよう。

 一言でいえば、尖った小説だった。自分のコンプレックスや暗い部分をそのまま映し出したような、荒々しい小説。

 それは、自分の弱い部分を残さず削り取っていくような、壮絶な体験だった。

 ——でも、最後はハッピーエンド。主人公は報われて終わる。それが、自分事のように嬉しかった。

 視界が揺らぐ。

 ——ああ、これには勝てない。

 感動する心の中を渦巻くのは、一種の諦めと、好奇心。

 これを書いた人はどんな人なのだろう。会ってみたい。

 そう考えると同時に、足は動き出していた。

 顔を洗い、服を着替え、髪を整える。

 久しぶりの外出だ。荷物は携帯と財布、それからメモ帳とボールペン。

 北高なら、ここから歩いて10分だ。

 高ぶる気持ちはそのままに、歩きなれた道を歩く。

 北高についた頃には、校門から人がぽつぽつと出て来ていた。

 メモ帳を一ページ破り、ボールペンで文字を書く。


『遠江莉緒を知っていますか?』


 私は声を出せない。私が人と交流できるのは、文字だけだ。

 校門から出てきた人に歩み寄り、肩を叩く。

 優しそうな女の人。


「遠江さん? 知ってますけど……」


 女の人は一瞬怪訝そうな表情をした後、柔らかな表情に変わる。


『どこに居ますか?』


 メモ帳への走り書き。


「うーん……もう、帰ったんじゃないかな」

『連絡先などは』

「ごめんね。わからなくて。……そうだ、私、おんなじクラスだからさ、明日にでもここに呼び出しておこうか」

 全力で頷く。

「じゃあ、明日3時40分、いい?」

 

 頭を下げ、礼をする。言葉のない私の、精一杯。


「うん。いいよ、全然」


 親切な女の人と別れ、帰路に就く。

 ものすごく疲れた。でも、これも必要なことだ。

 私はなんとしてでも小説家にならないといけない。私にはこれしか、自分を表現する方法を持っていないから。だから、そのたった一つぐらいは、どんな人にもも認められる一つにしたい。私は天才だ、できるはずだ。

 家に帰ると、すぐさま机の上のパソコンと向き合った。

 あの小説を読んでから、アイデアが滝のようにあふれて止まらない。

 意欲をそののまま、書き記す。次に応募する賞の締め切りは1か月後。その分も完成させつつ、次も書かないと。

 小説を書いている時だけ、私は自由になれる。自分の好きに作れる世界、思うままに紡がれる言葉、こんなに楽しいことはない。


 いつもどうり、昼に目を覚ます。

 時刻は12時、画面の光が目に痛い。

 一階に下りると、そこには誰もいない。

 母さんはきっと、今日も帰ってこないのだろう。

 いつもどうりの食事を胃に詰め込んだ後、もう一度遠江莉緒の小説を読んだ。

 ——やっぱり、すごい。

 膨らませた期待感はそのままに、時間が過ぎるのを待った。いつもは時間なんてあっという間に過ぎていくのに、今日は一分一秒が永遠のように感じられる。

 支度を済ませると、時間よりも少し早いけど、家を出ることにした。

 北高の校門の前で、携帯の画面を見るふりをしながら、まだ見ぬ彼女を待つ。

 それからしばらくすると、遠くの方から一つの人影が見えた。

 長く、透き通るような黒髪。端正な顔立ちは、少しやつれている様にも見える。

 その彼女は私の目の前で立ち止まると、気まずそうに眼を背けた。


「えっと……」

『遠江莉緒さんですか?』

「……あ、うん」


 遠江さんは私のメモを見た後、小さく頷いた。


『小説、読みました。ファンなんです』

「……え、あ、あれ、読んだんだ」


 遠江さんはたどたどしく話す。目は常に泳ぎ、私と目は合わない。


『それで、会ってお話してみたいなって』


 ここまでは事前に用意していたメモだ。


「……そう、うん。——それじゃあ、どっか、場所を」


 そう言って、遠江さんは歩き出した。

 校門からは、多くの人が出てきている。みんな同じ制服を着ている中、私はきっと目立っていたのだろう。

 遠江さんの後を付き、しばらく歩く。

 たどり着いたのは、小さな東屋だった。

 川沿いの、少し開けた広場の端、その空間は静かに佇んでいた。


『いい場所ですね。ここ。知りませんでした』


 遠江さんの隣に座り、メモ帳に文字を書く。


「……喋れないの?」

 頷き、肯定の意を示す。

「……私も、苦手」


 そう言うと、遠江さんは俯いて黙り込む。

 沈黙の中、ペンと紙が擦れる音だけが響く。


『遠江さんの小説、良かったです。特に、最後の主人公が報われていく過程が、なんだか、関係のない私まで許されたような気分になれて』

「そう……理想。……あれ」

『理想?』

「私も……できれば、ああなりたい」


 遠江さんは遠い目をしながら、天井を眺めていた。夢を語りながら、塞がれた空を、ただじっと。


『それと、あの一節も、すごく好きです』


 遠江さんの携帯を借り、それで開いた遠江さんの小説を指さしながら、私は文字で語る。


「あれはね……」


 遠江さんは私が考えていたよりもずっと深く、物事を考えている。


『ここも、しびれました』

「それは……」


 言葉の一つ一つが理想的だった。きっと遠江さんは誰よりも小説が好きで、何よりも優先して小説を書いていたんだろう。

 ——だって、遠江さん、なんだか楽しそうだから。

 校門で出会ったときは、こんなふうに笑う人だとは思っていなかった。決して派手に表情が動いているわけでは無い。それでも確かに暖かいものが、遠江さんの笑顔にはある気がした。


「……夜だね、帰らなくていいの?」

『母さん、最近は忙しそうなので』

「そっか……」


 遠江さんは立ち上がり、東屋の外に出た。

 星空を反射する川を背に、遠江さんは穏やかに笑う。


「——月はこんなにも明るくて、眩い星は、空の暗さを際立てる。水面に映し出された星空は、本物と鏡合わせ。手の届く空に留まる光も、きっと朝まで」


 遠江さんは私の隣に戻ってくると、恥ずかしそうに笑った。


「笑わないんだ。……割と、痛々しいことしたと思うけど」


 私は迷うことなく、メモ帳に文字を書き記す。


『笑いません』


 メモを見た遠江さんは嬉しそうに微笑んでいた。

 月に照らされたその横顔には、小さな雫が浮かんでいた。


「ごめん、暗くて……見えないよ」

「——ぃ――」


 絞り出すように、必死に喉を震わせる。


「わかってるよ」


 遠江さんは振り絞るように声を出した後、顔を逸らしてしまった。

 月明かりの下、遠江さんのすすり泣く音だけが聞こえて来る。


「……ありがとう」


 私の方を決して振り向こうとしない遠江さんに、返事を返すことは出来なかった。




 /2



 ――私がこうなってしまったのは、いつからだろう。

 生まれつき声が出なかったわけじゃない。でも、ずっと長く、この状態な気がする。それこそ、この状態に、ある種の諦めを持ててしまうぐらいには。


 目が覚める。見飽きた天井、嫌になるような自分、嫌でもこの世界に引き戻されてしまう。でも、今日だけは少し、憂鬱に浸る時間が短くて済んだ。

 今日も昨日と同じ時間に、遠江さんとの待ち合わせだ。私の小説を見てくれるという約束もしてくれた。

 思わず口元が緩む。

 友達なんて、何年ぶりだろう。

 パソコンと向かい合っていると、時間はあっという間に過ぎて行った。

 今日も昨日と同じ時間に家を出て、昨日の東屋へと向かう。

 なんだか、風が心地いい。

 川の水面は太陽を反射して輝いている。昨日の星空とは違う、たった一つの、眩い光。


「おまたせ」


 暫く景色を眺めていると、遠江さんがやって来た。口元を緩めた、楽しげな表情。


『嬉しそうですね』

「そう? ……まあ、そうかも」


 遠江さんは朗らかにに笑う。


「あ、それ?」


 遠江さんが指さした先には古臭いパソコンが置かれている。

 昨日、私も小説を書いていることを遠江さんに伝えると、遠江さんは嬉しそうに笑いながら「今度、読ませて」と、言ってくれた。


「ウィンドウズ7。……小学校以来かも」

『これしかないので』

「まあ、文字書くだけだったら困らないもんね」


 開いたのは、最新作にして一番の自信作。賞にはまだ一度も出していない小説だ。

 遠江さんは目を細めながら、じっくりと画面を眺めた。

 長さは原稿用紙二十枚強。

 はち切れそうな心臓を抑えながら、遠江さんを眺めること一時間。遠江さんは画面から目を離した。


「……まあ、よかったよ」


 遠江さんは表情を和らげながら、静かに言う。

 急激に不安がこみあげてくる。

 ——実を言うと、自分の小説に自信など全くない。落選に次ぐ落選。一年も小説を書いていると、それは嫌でも実感させられる。

 それでも、諦めずに書いていた。半分意地で、半分の惰性で。

 でも、惰性は昨日吹き飛んだ。眩しすぎる光に焼かれ、先に進まずにはいられなくなった。

 その光を放つ遠江さんを前にすると、素直な賞賛の言葉も、信じることができなかった。


『アドバイスとか、ありますか?』

「あー。……文章がちょっと読みずらいかも」


 遠江さんの言葉は尻すぼみだ。やっぱり、遠慮しているのだろう。

 両手の掌を遠江さんの方に向け、上下に振る。”来い”のジェスチャーだ。


「なに? もっと?」


 遠江さんはくすくすと笑う。私はうなずきながら、中指をたてた。これで遠慮は消えるだろう。


「じゃあね……。まず、雰囲気に頼りすぎ、これが許されるのは一部の文章上手い人だけ。この内容なら三人称のほうがいいかも。あと、主人公の言動がかなり支離滅裂、物語に引っ張られすぎ。あと、このシーン要る? それと……」

『もういいです』


 止まらない遠江さんの口と自分の間に紙を挟む。


「そう……」

『ありがとうございます』


 想像以上に、ボロクソに言われてしまった。まあ、わかってはいたのだけど……。実際に受け止めるとなると、かなりしんどいものがある。


「……でも、退屈じゃなかった。割と、一番大事だよ」


 この言葉は真実だと、直感でそう思った。そう信じたいだけなのかもしれない。だけど、心の底から、その一言が嬉しかった。


『遠江さんは、次に何か書く予定は?』

「うーん……。出し切った感はあるけど……」


 目が合う。先に逸らしたのは、遠江さんの方だった。


「書くよ。もう一回」

『!!!』

「……そんな、嬉しいんだ」


 再び遠江さんを見る。再び視線が衝突する。どちらも視線を逸らすことはない。遠江さんは緩んだ口元を隠そうともしない。私は、ただ嬉しかった。もう一度遠江さんの小説が読めるのだ。嬉しくない訳が無い。


「そうだ、一緒に書いてさ、一緒の賞に出さない?」

『目標?』

「目標というよりは……締め切りって感じ。そうでもしないと完成させれないし」

『なるほど』


 今はいくらでも意欲があるが、それがいつまで続くかはわからない。締め切りを作るのには私も同意だ。


『じゃあ、遠江さんが去年出してたやつで』

「あー。……二か月後。丁度いいね」


 遠くの空は赤く染まっている。昼と夜の境界線は、思わず目を瞑りたくなるほど眩しく見えた。


「……綺麗」

『そうですか?』

「うん。特別だから。……朝と夜、日に二度だけの異界。この時間は誰もがきっと、空を見上げてるんだと思うよ」


 確かに、目を引く光景だ。単に物珍しいだけなのか、それとも、私は心からこれをきれいだと思っているのか。


「結局、主観だから。……車のライトだって、見る人が見れば星空に見えると思うよ」


 遠くに見える橋の上には多くの車が入っている。見慣れた、見飽きたとも言える光景。でも、これを始めて見たのなら。


『流れ星、ですね』

「……確かに、星空よりは、そっちの表現のほうがいいかも」


 遠江さんは顔一面に笑みを浮かべる。


「さて、そろそろ帰らないと」

『もう?』

「日が沈む。よい子は変える時間だよ」


 私は良い子ではない。遠江さんは……どうなのだろう。こうして話してみると、彼女は面白く、良い人間のように見える。

 明るい笑みを浮かべた彼女は、彼女の書く小説とは真反対の表情に思えた。


「じゃあ、明日は図書館に集まろうか。私もパソコン持ってくるからね」


 離れていく遠江さんに勢いよく手を振る。

 一人になると、急に寂しくなってしまう。今日の出来事が頭を渦巻き、高ぶった心は少しずつ冷めていく。

 ——でも、また明日会える。それだけで、生きていく理由ができた。


 次の日は、図書館で遠江さんを待った。公民館の一角にある、小さめの図書館。館というよりは、室という字の方が相応しいサイズ感。その図書館の端にある椅子に座り、窓の外を眺めて時間が経つのを待った。


「……おまたせ」


 昨日と全く同じセリフを発しながら、遠江さんはやって来た。


『……遅いです』


 パソコンの画面に文字を打つ。


「ごめん、一旦家帰ってたから」


 そう言いながら遠江さんは私の隣に座ると、鞄からパソコンを取り出した。


「安物だけどね」

『私のよりましですよ』

「そりゃそう」


 パソコンにはメモ帳が開かれている。文字は何も書かれていない。


『アイデアだしからですね』

「意図して出るものじゃないけどね……」

『わかります』

「まあ、なんとなくはあるんだけど」


 遠江さんは口を斜めにし、悪戯な表情を浮かべる。


「あとは書くだけ、みたいな」

『それ知ってます。何もやってないって意味です』

「高校生は忙しいんだよ」

『む……私も高校生ですよ』


 遠江さんは目を丸くする。子供っぽく見える自覚はあったのだが、そこまでなのか。


「へぇ……何年?」

『1です。2年目ですけど』

「そっか。いいなー」


 遠江さんは遠くを見ながら言う。


『何がですか』

「いや、強くていいなって、早紀ちゃんは」

『……よくわかりません』


 学校に行けてないんだから、むしろ弱いというべきじゃないのだろうか。


「それでいいの。大人になったらわかるよ」

『また、子ども扱い』

「まだまだだよ」


 確かに、遠江さんは落ち着いていて、私よりもずっと大人に見える。


『大人って、いつなれるんでしょうか』

「いつの間にかだと思うよ」

『ですかね……』


 大人の私と、今の私。その二つが地続きになっているとは、到底思えない。


「夢とか、不思議とか、愚かさとか。そういうのを切り落としていくんだろうね。子供の頃には、確かにサンタは実在していて、自分の家にすら未知が潜んでいる。自分が特別だと信じて疑わないし、夢は叶うと信じてる」

『なくなっちゃうんですかね。そういうの』

「……なくなったらいいなって、半分は願望。私も、もう大人なんだろうけど、早く大人になりたいよ」


 言いながら、遠江さんはパソコンに文字を打ち込む。

 細い指が信じられないような速度で動いたかと思えば、急停止する。


「……書き出し、難しいよね」

『ですね』


 遠江さんのパソコンを覗く。普通の冒頭一行、何もおかしな点はないように見える。

 

『いいと思いますけど』

「……もっとかっこいいのがいい」

『頑張ってください』

「早紀ちゃんは、何書くの」

『……実は、もう三千字ほど』


 昨日一日で三千字書けてしまった。最近は創作意欲が溢れて止まらない。


『見ます?』

「いや、完成してから、楽しみにしとく」

『これ、一緒に居る意味あります?』

「いーの」


 遠江さんはにんまりとした表情になる。

 人気の少ない公民館、静まり返った図書室。耳に届くのは下校中の子供の声と、キーボードを叩く音。

 その沈黙は、不思議と心地よかった。

 ——なんとなく、遠江さんの言っていたことがわかったような気がする。


「……気になる?」


 遠江さんが唐突に画面から目を離す。できるだけ自然にふるまおうとしていたのだが、チラチラと遠江さんの画面を覗き込んでいたのはばれていたようだ。


「いいよ」



 ——窓の外の、揺らぐ世界を眺めていた。

   

   それは、夢のようなひと夏。例えるなら、子供の頃、ゲームもスマホも家に無いころ、ただ永遠と退屈を嘆く夏休み。

 夢のようにぼんやりとしていて、もう思い出すことはなくて、でも、きっと、幸せな夏の思い出。

 

 あの頃から伸ばし続けた手は中途半端に夢を掴んでしまった。

 まだ、もっと、さらに先に進んでいきたいけど。もし、今の私を認めてくれるなら、それで満足だ。


 熱のこもる体で、黙々と地面を踏んでいく。


 ――それは、どうしようもなく遠い思い出の名残、焦がれ続けた夢の終着点。





 /3


 遠江さんと出会ってから二か月と少し、じめったい梅雨も終わり、七月も、八月も、あっという間に過ぎ去った。

 一緒に書いた小説は七月の終わりごろには完成していた。

 遠江さんはもっと時間がかかると思っていたと言っていたが、私からすると、平均ぐらいの時間で書き上がった。

 それからも、私たちは一緒に日々を過ごした。小説を一緒に書いていた時のように毎日というわけでは無いが、三日に一度は図書館に集まった。きっと、遠江さんも夏休みで暇だったのだろう。


「ねえ、どっか出かけない?」


 八月も終盤に差し掛かるころ、いつもの図書館で、遠江さんは唐突に切り出してきた。


『……お出かけ、ですか?』

「そう、お出かけ。どこ行きたい?」

『行きたいです。が……よく、わかりません』

「じゃあ、お任せってことね」


 遠江さんは上機嫌な様子で携帯を操作する。

 ——お出かけ。子供の頃には、いくつもの思い出があるのだが。今となってはよく思い出せない。


 翌日はかなり早起きをして、午前のうちに遠江さんと集合した。

 普段制服やジャージばかりを着ている遠江さんは、今日は私服を着てきている。


「さて、まずは岡山に行こうか』

『?』

「……ん? ああ、岡山市。駅前だね」

『遠いですよ』

「電車で行こう」

『お金、ないです』

「いいよ。私が払う」


 遠江さんに手を引かれ、駅までの道を歩く。

 ——電車なんて、乗ったことないのに。

 遠江さんの見よう見まねで切符を買い、改札を通り過ぎる。

 普段は柵の外から見ていた駅のホームに立つ。家からはまだそこまで離れていないのに、とんでもなく遠くに来たような気分。


「あ……来た来た」


 やってきた電車に乗る。

 ガタンゴトン。今まで遠くから聞くだけだった擬音を体で感じる。外の景色は早回しのフィルムのように流れていく。

 スーツ、制服、大人、子供、こんなにも近く、おんなじ空間にいろんな人が居る。


 いろんな初めての景色を眺めているうちに、あっという間に目的地に着いた。

 たくさんのホーム。たくさんの人。見渡す限りの人工物。

 そこは、テレビの中で見るような、曖昧などこか遠く、それそのものだった。


「さて……まずは、その恰好からだね」


 遠江さんに付いていくと、そこは服屋だった。

 服屋には、あまりいいイメージがない。お父さんやお母さんは嬉しそうに服を持ってくるけど、私は退屈だった。おもちゃ屋さんや本屋さんに行きたかった。そんな、大昔の思い出がよみがえる。


「うん……」


 試着室から出てきた私を、遠江さんは上から下までじっくりと眺める。

 遠江さんは途中で目を丸くし、俯いたまま黙り込んだ。


「やっぱ、こっちのほうがいいかも」


 そう言って、遠江さんは長袖の服を持ってくる。

 そういえば、真夏だというのに、遠江さんはいつも長袖の服を着ている。好きなのだろうか。


「うん、似合ってるよ。かわいい」


 遠江さんは満足そうにうなずく。

 鏡に映る私はなんだか別人のようで、少しだけ嬉しかった。

 街を歩く。雑踏の中に居ると、焼き付ける日差しも少しだけ軽くなったような気がする。

 本屋、喫茶店、映画館、何の店なのかわからない謎の雑多な店。遠江さんに手を引かれ、いろんな場所を回った。それは、どれも初めての経験で、画面越しにしか知らない景色ばかり。興味はないと切り捨てたものも、実際見ると案外面白いものばかりだった。


「……どうだった?」

『楽しかったです』

「よかった」


 満足そうに笑いながら、遠江さんはハンバーグを口に運ぶ。

 私の目の前にはドリアが置かれている。もう少し待たないと、熱くて食べれそうにないけれど。


「……初めてでしょ、こういうの」

『ばれてましたか』

「ずっと、きょろきょろしてたからね」


 遠江さんは目を伏せながら話す。


「……いいんだよ。これから何でもできるから」

『?』

「ううん。……ありがとね、ほんと」


 いったい、遠江さんは何を言っているのだろう。


「……私の、初めての友達」



 ***



 ずっと、私は一人だった。家族には恵まれている。学校にも行っている。それでも、私は一人だった。

 思ったことを話すのは、とても難しい。だから、私は小説を書いた。

 ——そう思っていた。本当はただ漠然と何かになりたくて、できることは文字を書くぐらいで、小説を書いている時に想像していたことは、いつもその後のことだった。

 賞を取って、褒められる自分。趣味を同じくする誰かに話しかけてもらえる自分。想像の中の自分は、いつも流暢に言葉を話していた。

 本当は夢が欲しいだけだった、何かをしていないと不安で押しつぶされそうだった。小説だって、心の底から本気で書けてはいない。

 だから、あの子と出会ったのは、本当に夢のような出来事だった。

 私の小説が好きな、声の出せない女の子。彼女の前では、夢の中のように、本物の自分で話せた。

 子ども扱いというか、見下しというか、それがどこから来たのかは知らないし、どれだとしても私は嫌な奴なのだが、私は彼女の前では、心から安心していた。

 ——だから、私はもう一度小説を書いた。六年間の集大成、これまで十八年間燻ぶっていた私の全部。

 それは、あの子に向けた物語。曖昧などこかに向けて求めていた救いを、彼女だけに求めた。

 ——でも、それも終わり。今までの私とはサヨナラです。

 私は受験生だし、彼女も私にとって特別な誰かである以前に、一人の人間だ。

 触れれば折れてしまいそうなほど細い体、時々見える痣。

 彼女がお金を持っているのを見たことがない。彼女は携帯すら持っていない。

 それに、彼女は生まれつき言葉が離せないわけでは無いと語っていた。他の障害らしきものも見当たらない。

 だとすれば……もしかすると、もしかするのかもしれない。




 /4


 ——それは、焼き付くように青い夏でした。

 夢に見る夏はいつも眩しくて、苦しい。現実の夏はあまりにも暑く、長い。何の変りもない、眠ってしまいそうな日々を、暑さを堪えながら必死になって生きている。

 だけど、あの夏だけは、この青空が私に味方してくれていた。間違いなく青春をしていた私たちにとって、青空も、灼熱も、声援のように思えた。

 きっと、人生最後の日にもこの日々のことを思い出す。

 ——ずっと焦がれ続けた夢の跡。二度と手に入ることのない、澄みきった青色。



 遠江さんの小説の、最後の一節。

 昨日、別れ際に渡されたUSBに入っていた原稿だ。七月末に完成はしていたものの、まだどこにも送ってはいなかったはずの小説。

 基本的には私が最後に見た時と変わらないものだったが、最後の一節だけが大きく変わっていた。

 ——勝てないな。

 数時間たっても冷めない余韻の中、頭の中で呟いた。

 でも、私もそこそこうまく書けたはずだ。遠江さんだって、褒めてくれた。

 動作の重いパソコンを操作し、応募フォームを一つ一つ埋めていく。何度やっても、一番緊張する作業だ。

 これで、一つ区切りができた。次も書いてはいるが、迷走中。きっと完成せずにお蔵入りだろう。

 遠江さんが賞を取ることは絶対だが、私も、その隣に並べればいいな。

 それからしばらくしたある日、知らない大人の人が家にやってきた。チャイムが鳴った時は無視を決め込もうと思っていたのだが、何を思ったのか、私はドアを開けてしまった。

 優しそうな笑顔を顔に張り付けた、中年の女の人。

 児童相談所と名乗っていた彼女は優しく微笑みながら、いろんなことを私に聞いた。

 親のこと、学校のこと、私のこと。初めにメモ帳を出して会話をしようとしたときは驚かれた。

 嘘をつく必要はなかった。時々厳しいけど、お母さんは優しくしてくれてるし、学校に行けなくなったのは私のせいだし。

 玉伊というらしいその人は一通りの質問を終えると、私を玄関に待たせたまま、どこかに電話をかけ始めた。

 どうしてこんなことになったのか。多分、学校にずっと行ってなかったのがまずかっただろう。学校からの電話も、お母さんは無視している。

 玉伊さんに優しく手を引かれ、車まで連れていかれる。その温かい手はそこまで大きくはなかったが、有無を言わせないほどの力強さがあった。

 私が連れていかれた場所は、児童相談所というらしい。

 どうやら、私は早急に対応が必要だと判断されたようだ。別に、私は大丈夫なのだけれど。ちゃんと生きてるし、これでも、あと一年で成人だし。

 一時保護。そんなことを伝えられた。今日は家に帰れないらしい。ご飯もお風呂も貰って、与えられた環境自体に文句はなかった。ただ、小説を書けないことだけが気がかりだ。

 ベットに寝転び、ぼんやりと天井を見上げる。

 こんな時に限って、やたらと妄想が捗る。無限に湧き出るアイデアと比べて、実際に私が書ける文章の量は限られているのに。

 

 次の日からは、いろんな検査に連れまわされた。

 心理士を名乗る人との会話はつまらなかった。昔から、この手の大人は苦手だ。私に向けられるある種手慣れた優しさが、どうしようもなく心地悪い。

 外科や内科の検査も受けた。身体はおおむね健康らしい。

 検査の途中で、私の声もきちんと治療をすれば直せることも告げられた。


 そんな調子で流れに身を任せ続け、気付けば私は、顔も知らない親戚の家に住むことになっていた。

 季節はすでに冬。生まれて初めて与えられた携帯電話をポケットにしまい、鏡の前に立つ。鏡に映っているのは、制服に身を通した私。買ったはいいものの、最初の一か月以降は全く使っていない制服。見た目はどう見ても女子高校生そのものなのに、その姿はどことなく浮いている。

 通信制や、夜間の高校への転入を進められたが、すべて断った。だって、私はこんなにも、普通になってしまったのだから。


「行ってきます」


 玄関に立ち、小さく呟く。結局、私の声が出なくなったのは心理的な原因だそうで、家から離れると、案外あっさりと治ってしまった。

 出席日数の関係で、私は二年生に進級できないことが決まってしまっているのだが、慣らしということで、四月までは別室登校だ。

 本当は、家で小説を書いていたいのだけれど、大人の言う事にはとりあえず従っておくべきだ。


 



 **********



 長くも短い夏も終わり、私は学生の本分に戻る。

 これでも受験生なのだ。これ以上遊んでいると、今まで貯めていた貯金が全部吹き飛んでしまう。

 ——詭弁だ。

 一因ではあるが、詭弁だ。本当は、罪悪感に耐えられなかっただけ。

 私のことを慕ってくれる、無垢な女の子。

 今までの私の全部を込めた、いわば自分そのものとも言える小説を好きだと言ってくれた子。

 それだけで報われた。人と話すことがこんなに楽しいなんて、知らなかった。

 でも、一緒に居るうちに、彼女を見ていて感じる小さな違和感は、明確な確信へと変わっていった。

 彼女の置かれている環境をあらかた察した時、私の心は彼女に完全にもたれ掛かっていた。

 私よりも辛い境遇の彼女に同情したのかもしれない。同情、憐み、そんな上から目線の感情しか浮かばなかった。

 そんな感情は必死で隠した。彼女と私が違うことを認めたくなかった。

 そう、初め、声の出せない彼女を見た時、私と彼女は同じだと思った。だから、普通に彼女と会話ができたんだと思う。

 けど、違う。決定的に違う。小説は、文字は、彼女にとっての絶対であり、唯一の手段。

 なんにせよ、私が彼女を対等に見れなくなっていたのは確かだ。彼女のことを自分より弱い存在だと認識しておきながら、その心は完全に彼女に依存しきっている。

 一度、距離を取るべきだ。私の推測が正しければ、彼女の声は元に戻る。私はきっかけを作ることしかできないけど、全部うまくいってくれれば、彼女はきっと、普通の人生を送れる。

 そうしたら、また友達になろう。



*************



 こっちの家に来てから、私は明らかに幸福になっている。身を脅かされる恐怖はなくなったし、世界に置いて行かれるような感覚も、学校に通い始めてからはほとんどなくなった。

 それでも満たされないのは、求めているものが変わらないからだろう。

 私は今でも小説を書き続けている。誰にも評価はされないけど、書いている。理由ははっきりとしている。遠江さんのあの小説だ。あまりの鮮烈さに目を灼かれた私は、盲目のまま手を伸ばし続けている。

 きっと、一生諦めることは出来ない。夜空の星のように、正確な距離さえつかめないほどの遠く、ただ輝き続けるそこに向かって、死ぬまで走り続けるのだ。

 

 そして今日は、遠江さんと一緒に応募した文学賞の結果が公表される日だ。大学主催の文学賞。高校生部門とはいっても、そこまでレベルが低いわけじゃない。

 携帯でサイトを開き、ゆっくりとスクロールしていく。

 最優秀賞、優秀賞、どちらにも探していた名前はない。審査員特別賞。遠江さんの名前はそこにあった。——私の名前は、どこにもない。

 何度経験しても、これに慣れることはない。現実というものは、容赦なく私を傷つける。言い訳のしようもない。だって、間違いなく、私の力作だったのだから。

 頭の中を暗いものが渦巻く。——今日は寝てしまおう。そう思い、携帯の電源を落とす。寸前、遠江さんの名前の横に、見慣れない文字列が並んでいることに気付く。

 名前は同じ、学年も数字が一つ進んだだけ。その横に並ぶ小説のタイトルは、私が見たことも聞いたこともないものだった。

 内容は、今までとは似ても似つかないものだった。軽い雰囲気、現実離れした設定。でも、文章は間違いなく遠江さんのもの。

 文句のつけどころのない。けど、今までとは百八十度違う小説だった。

 どうして、遠江さんはこんなことをしたのだろう。私と一緒に書いていた小説は傑作だった。あれを送れば、最優秀賞ぐらい、簡単に取れたのに。

 布団に入っても、しばらく寝付けなかった。悔しさや、嬉しさ、それから疑問。頭の中を延々と渦巻くそれは、意識が完全に沈んでしまうまで、消えることはなかった。




 /5



 冬の寒さも薄らぎ、桜の木がつぼみを作る。

 三月。ここまでの生活は、本当にあっという間だった。

 学校に行き、小説を書き、たまに一人で遊びに出たりもする。凪のような、普通の日々。

 でも、その普通こそが、言いようのない焦りになってきた。私にはもう、言い訳が無い。

 思い返してみれば、私はかわいそうな人間だった。この状況が異常だというのも、心のどこかではわかっていた。その状況をどうしようともしなかったのは、きっと、私は不幸そのものを心の支えにしていたからだろう。

 遠江さんとは夏が終わってからは一度も会っていない。というのも、遠江さんとの唯一の連絡手段だったメール。そのアドレスを覚えていたパソコンが壊れてしまったからだろう。人から聞いた話だが、お母さんは相当暴れたらしい。そのお母さんにも、あれからずっと会っていない。

 家のチャイムが鳴る。今、家の中に居るのは私だけだ。

 インターフォンで、玄関に立つ人物を見る。出る必要がないなら、居留守してしまおう。


「……遠江さん」


 そこに立っていたのは、間違いなく遠江さんだった。なんだかそわそわした様子で、視線を泳がせている。

 

「ちょっと、待ってください」


 インターフォンに声を吹き込み、大急ぎで着替えを済ませる。

 はやる気持ちを落ち着かせ、玄関を開く。


「お待たせです」

「……久しぶり」


 遠江さんは曇りのない笑みを浮かべ、そこに立っていた。


「はい、久しぶりです」


 私と遠江さんは連れ立って歩き、川沿いの東屋へと移動した。その間、会話はほとんどなかったが、沈黙も不思議と心地よかった。

 太陽に暖かく照らされた川沿いの、小さな影の下、私たちは並んで腰を下ろした。

 私たちの初めて出会った場所。再会には、ここが一番ふさわしい。

 


「……どう、最近。楽しい?」

「そこまで、楽しくはないですけど……。まあ、幸せだと思いますよ」


 目立った出来事は何にもなくて、いつの間にか日々が過ぎていく。きっと、それは普通で、幸せなこと。多分、そうだと思う。


「そっか、まあ、そんなもんだよね」

「遠江さんは、最近どうですか」

「大学に受かってね。明日が卒業式で、その後東京」

「……東京」


 大学、東京。それらの言葉も、最近になってようやく現実感が出てきた。


「うん、東京。遠くに行きたいから」

「遠く。……私も、行けますかね」

「頑張れば、行けるんじゃない?」


 頑張れなんて、無責任な言葉だ。けど、それ以外の言葉は考えても見つからない。


「そうだ、遠江さん。あの賞取ってたやつ、いつの間に書いてたんですか?」

「八月中に。時間はあったから」


 遠江さんはあっさりと答える。違う、そうじゃなくて……。


「なんで、もう片方の方を出さなかったんですか? 私的には、あっちの方が……」

「うーん……。そこは、けじめというか。私的には、あっちの方向で勝負したかったって感じ」

「……よくわかりません」


 遠江さんは困ったように目を伏せる。


「気付いたんだけどさ……創作は、楽しいものなんだよ。自分のくだらない妄想を形にする、凄く楽しい作業」

「よく……わかりません」


 結局、会話はそれきりだった。会話のタイミングを見失ったまま、数時間の間、遠くの景色を眺めていた。

 最後に夏休みにもう一度会う約束をして、私たちは東屋を後にした。



**********


 さて、名残惜しいけど、旅立ちの時だ。

 新天地、新生活。期待だけを胸に、私は地元を後にする。

 相変わらずのしょぼい駅。本当は、この街に中指の一つでも立ててやりたい気分なのだけど、そうはしなかった。

 終わり良ければ全て良し。最後の一年に早紀ちゃんと出会えて、本当に良かった。   

 死にかけていた自分は、間違いなく彼女に救われた。

 早紀ちゃんは無事普通の生活を送れている。なら、私も頑張らないと。

 未来の希望だけを見て生きていける時期も、そろそろ終わりだ。

 文字なんかに頼らなくても、私には口がある。友達ぐらい、作って見せるさ。


***********



 四月になり、教室に登校するようになった。噂というものは恐ろしいもので、私が二度留年していたことは、すでに周知の事実となっていた。そのおかげというかそのせいというか、そのことを話題に何人かの人が話しかけてくれた。孤立するということはないようだ。

 初めの数日以降は、特に思い出すような出来事はなかった。普通の日々の繰り返し。嫌なことも、嬉しいことも、どれも大したことじゃない。

 クラスメイトとは、友達と言うほど深い関係になれたかはわからないが、暇な時に話せる程度の関係性を築くこともできた。

 小説も書き続けている。何作かの長編を完成させ、賞に出すこともできた。

 平坦で、幸せな日々。だけど、一日ごとに増していく言いようのない焦りは、だんだんと無視できないものになっていた。

 このままだと、永遠に届かない。才能なんかないことは、とっくにわかっている。それでも、私は自分が天才だと信じている。まだ、もう一度。そう思って書き続けてきた。

 けど、それもなんだか信じられなくなってきた。私は普通になって、つまらない人間になったんじゃないか。それで、私は何かをしている。そう思うための、安心するための、ただのアイデンティティ。私にとって小説は、そんなものになってしまったんじゃないか。

 ——そんなわけない。そう信じたい。


 いつの間にか一学期が終わり、気付けば夏休みも中盤、お盆になっていた。

 遠江さんと連絡を取り、集合時間に間に合うように家を出る。

 そういえば、一か月ほど外に出ていなかったか。

 日の光に目を細める。遠くの景色が揺れている。私自身も、油断すれば倒れてしまいそうなぐらいに熱い。

 図書館に向かうと、あの頃と同じ位置に遠江さんは座っていた。

 再開のあいさつは手短に、互いの近況を話し始める。


「やっぱ、難しいね。友達、作ろうとしたんだけど」


 遠江さんは笑いながら、あくまでポジティブにそんなことを話す。

 私としては正直、単とも言い難い。私が今まで想像していた遠江さんは孤高の人で、遠江さんの口から語られる現在のエピソードと、あまりに乖離している。


「どう、学校は?」

「別に、普通ですよ。何にも起こりません」

「……よかった。正直、ここまでうまくいくとは思ってなかったから。——うん、私も頑張らないとね」


 うまくいく? 遠江さんは私に何かしたのだろうか。

 ずっと前からつっかえていたこと。どうして急に、自動相談所の人が家にやって来たのか。あれから三月まで、遠江さんが私のもとにやってこなかった理由。


「……遠江さん、だったんですか」


 ああ、そうだったのか。


「——別に、そんなことしなくてよかったのに。私は不幸の方が、今よりずっと、楽に生きれたのに」


 沈黙が辺りを包む。

 思わず口にした言葉。思ってもいない、思うことを避けていた、本音。

 私はマイナスだ。前に進むたび、0に近づくたび、私の特徴は失われていく。できなかったことができるようになるたび、もう誰も助けてはくれないんだと実感する。

 そうだ、私はあの瞬間まで特別だった。たとえそれが不幸だとしても。私を支えていたのは、そんな歪なアイデンティティだった。


「…………早紀ちゃんはかわいそうで、同情されるべき境遇だった。でも、それじゃ、誰とも対等にはなれないよ」

 

 それは、遠江さんだけの理屈だ。


「対等になんか、なりたくないですよ。私は自信が欲しいだけです」


 決定的に、嚙み合っていない。それは遠江さんもわかっているはずだ。


「不幸に甘えるってことは、幸せを自分から捨てることになる。そんなのだめだよ」

「幸せって、あれが? なんにもない、あれが?」


 私は何もない。少なくとも少し前までは、誰もが振り返るような特別が、あったはずなのに。


「何もないから、積み上げられる。頑張るんだよ」

「それができるのは、遠江さんが特別だからですよ! 普通は一生かけて重ねてものすら、形にならない! だったら、何もしないほうがいいじゃないですか」


 壊れた蛇口のように気持ちを垂れ流す口を、止めることは出来なかった。


「遠江さんだって、私が普通だったら、友達にはなれなかったでしょう?」


 どうしようもない沈黙。言いたいこと、言うべきこと、思い浮かんだだけの、言わないほうがいいこと、全てがごちゃ混ぜで、私は本当は何を思っているのか、整理がつかない。

 わかることは、私たちは互いに致命的な勘違いをしていて、それが嫌な形に噛み合ってしまったという事だけ。

 遠江さんは苦しそうに俯いたまま、何も喋らない。


「……私、帰ります」


 行き場をなくしたぐちゃぐちゃな心からは、それ以上の言葉は出てこなかった。



 /6



 ——何やってるんだろ、私。

 早紀ちゃんと対等になるためにこんなことをしたのに、私自身は何も変わっていない。上から目線で説教なんかして。

 だめだ。本当、死にたくなるな。

 気の逸らし方は既に理解している。死にたくないから、自らを死に近付ける。痛みはあまりにも強く、感情を塗りつぶす。

 そのまま眠りにつく。そうしたらまた、立ち上がれる。砕けようと壊れようと、きっと明日には、私は元どうりだ。



***********



 一日たっても、頭の中ではあの時の会話が何度も繰り返されている。

 本当にあれでよかったのだろうか、こうするべきだったんじゃないだろうか。そんなことばかりを考えている。いつまでたっても、結論が出ることはない。

 きっと、これは後悔なのだろう。

 窓の外は痛いほどに眩しくて、それなのにカーテンを閉める元気すらなくて。ただ、壁だけを見つめていた。

 ドアがノックされる。いつの間にか、外では日が沈みかけていた。


「入るよ」


 有無を言わせない一言。その声は間違いなく、遠江さんのものだった。


「え……」


 ドアが開く。遠江さんの瞳はまっすぐに私を捉えている。


「……私が早紀ちゃんと友達になれたのは、早紀ちゃんが弱かったからでも、特別だったからでもない。——私が書いたものを、私を、認めてくれたから。

 ――そう、うん。だから、話をしよう。私には人の気持ちなんて、わからないから」


 遠江さんの背後でドアが閉まる。

 遠江さんは、私を私という人間としか見ていなかった。

 私は、たぶん、遠江さんのことを何もわかっていない。そりゃあそうだ。私は遠江さんのことをすごい作家としてしか見ていなくて、都合のいい偶像を押し付けていて、遠江さん自身の考えを、人間的な悩みを、葛藤を、何一つ知ろうとしていなかったんだから。


「……はい」

「わかった。……私は、早紀ちゃんには幸せになってほしかったとは思ってない。——私はたぶん、早紀ちゃんを下に見てたから。でも、下に見ながらも、早紀ちゃんは私の唯一の友達だから、普通になって、対等になってほしかった」


 それで、私を普通に。でも、それじゃあ。

「劣等感は強くなるばかりですよ。——対等になんてなれない」

 みんなと同じ条件じゃ、私は誰とも並べない。


「私の気持ちの問題だから」

「そんな、嫌ですよ、私は」

「——だからって、あんなの、だめだよ。いつか、どこかに行かなくちゃ、せめて進まないと」

「進んで、どこに行くんですか」

「幸せになるんだよ。そう信じるしかない」


 遠江さんのいう事は、きっと正しいのだろう。でも、どこか、欺瞞じみている。


「……じゃあ、あの小説はなんですか。あれが遠江さんですか」

 あれは、私の知ってる遠江さんじゃない。

「——そうだよ、私だよ」

「……それで、友達ができるわけないじゃないですか。私が好きになった小説は、遠江さん自身でしたよ。遠江さんが中身を見せてくれたから、心を動かされたし、好きになれたんです。逃げてるのは遠江さんも同じですよ。覚悟決めたふりして、まだ本音で話してない」


 逃げてるのは同じだ。逃げずに、全てに立ち向かうなんて不可能だ。でも、だからこそ、遠江さんのそれは受け入れられない。本気で向かい合うと言い放った彼女には、不可能にも立ち向かってほしい。


「遠江さんのことなんて、私にはわかりません。——教えてください」


 遠江さんは目を伏せながら、震える声で、言葉を紡ぐ。


「私は……。書くのが辛かった。現実なんかと向き合いたくない。私だって、逃げたい。閉じこもって、自分が世界で一番不幸なんだって、無邪気に信じたい。でも、逃げない。逃げれない。あと四年、それだけで行き止まり。未来だけに目を向ける訳にはいかない。逃げることは、強いことじゃない。それが決断をしなかっただけだとしても、道から逸れるのが怖かっただけだとしても、逃げないのが一番強いに決まってる。そう、信じてるんだよ」


 遠江さんは立ち上がる。その潤んだ瞳は、もう下を向いてはいなかった。


「私が、一番強い」


 妄言と欺瞞を積み上げて、ようやく手に入れた一人前の自尊心。それが遠江さんの正体だった。

 嘘だから曲がらない。実態がないから砕けない。私が見たもの、一年と少し前に私の目を焼いた、眩しすぎる光は、ただの光でしかなかった。


「私は、輝くものが好きだった。キラキラして、眩しくて、思わず胸が高鳴るような、そんな人生が送りたかった。

 こんな人生まっぴらごめんだって、ずっと思ってる。

 ——だから、せめて、夢は高く、意地でも前を向いて、一つぐらいは、誇れるように」


 掴めない。私には永遠に届かない。——それでも。


「私には――遠江さんが、輝いて見えました」


 遠江さんの手を握る。硬く握られた拳は、とても冷たかった。


「なら、よかった。——満足」


 彼女は笑っていた。深く、晴れやかに。


「これでようやく、私はゼロなんだ。——早紀ちゃんがいたから、私はあの小説を賞に出せた。あれを書いてるときは、心から、楽しかった」


 ——ああ、これには届かない。だからこそ、私は憧れたんだろう。


「私、頑張ります。東京、私も行きますから! 待っててください!」

 

 遠く、高く。輝く光。光で自分の目を潰しながら、彼女は走っていく。

 私は、もう光を見ない。あの光は彼女だけのものだ。

 私は星を見ない。下を向いても、そこには泥しか残っていない。なら、前を見よう。目標はずっと前。それでいて、彼女は真横に居てくれる。

 


 /7



 後日談というより、経過報告。

 あれからしばらく、具体的には十年ほど生きてきて、いろんなことに気付いた。

 作家というものは、自分の理想を作品に託す。理想には永遠に届かないけど、その過程でできたものは誰かにとっての理想になりうる。いつか見た星空には永遠に手が届くことはないけど、星空を紙に落とし込むことは出来るのだ。

 人生が運で決まるなら、サイコロを振り続ける人間が一番強い。それができる遠江さんは当然のごとく成功した。今となっては、遠江さんを呼ぶ時に本名を呼ぶ人よりペンネームで呼ぶ人の方がずっと多くなった。

 私としては、遠江さんは小説家になると思っていたのだが、遠江さんはシナリオライターとして活躍している。遠江さんが欲しがっていたものを考えると、そちらの方が合っていたのだろう。

 私は、まあ、普通に頑張っている。東京に出て、大学を出て、普通に就職した。小説は今でも書き続けている。あの頃のような強い情熱はないけど、それでも、永遠に届くことはないどこかに手を伸ばし続けている。

 思い返すと、あの時の問答で私も、遠江さんも、何かが変わったわけでは無いと思う。なら意味はなかったのかというと、そんなことはないと断言できる。少なくとも、私が走り続ける理由にはなっているだろう。

 ——だって、遠江さんと過ごしたあの夏は、人生で一番楽しかったんだから。それを思い出せたことは、それを永遠のものにできたことは、十分に意味と言える。

 いつか、遠江さんに好きなものを聞いた。そうすると遠江さんは「楽しくて、夢みたいな冒険」と答えるのだ。そんなものは、もう大人になってしまった遠江さんには、どうやっても手に入れることができない。でも、だからこそ、書けるのだ。

 

「ね、遠江さん」

「……私、忙しいんだけど」


 遠江さんはパソコンと向き合ったまま目を離さない。


「む、冷たいなぁ」

「じゃあ手伝ってよ。ここまで大きくなると、さすがに、ずっと一人はしんどいし。社長も、早紀ちゃんなら良いって言ってるよ」

「それは嫌です」


 私は今でも、十年前と同じテーマの物語を書き続けている。この路線は私には向いてなくて、そのせいで評価されていないのもわかっている。

 ——それでも。


「私、好きなものしか書きませんから」





 




 

 

 


 


 

 




 


 

 

 

 

 


 

 


 











 


 

  



 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

たとえどれほど遠くても 空式 @abcdefddd

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ