空箱(5)


 翌日、引越し業者が荷物を運び出している間、ふと兄の部屋にあるはずのものがないことに気がついた。

「そういえば、ママ。私のマグカップはなかった?」

「マグカップ? どんな?」

「ほら、私が中二の頃に宿泊研修の時に作ったやつ。体験学習で作った最高傑作」

 宿泊研修先で初めて轆轤ろくろに触れ、かなり上手に作ることができたマグカップは、教えてくれた陶芸家の先生が絶賛するほどの作品だった。私には陶芸の才能があったのかと、調子に乗ってもう一つ作ろうとしたら、そっちは加減を間違えてぐにゃぐにゃに曲がってしまったけれど……。成功したマグカップは、その年の年末に兄が帰省した時、とても気に入っていたようだからあげたのだ。「ちょうど、マグカップが一つ壊れてしまったところだった」と言っていた。

「ああ、あれね。見てないけど……会社で使っていたんじゃない? 後で会社の方が私物をまとめて送ってくれるって言っていたから、その中にあるかもね」

 母がそう言うので、私もそれ以上は聞かなかった。兄の葬儀には会社の人が何人も来ていた。兄は同僚たちから愛されていたに違いない。きっと、会社に残っている兄の遺品も、丁寧に扱ってくれるだろう。


 202号室にあったものは、あっという間に全て運び出されて、夕方になる前に空っぽになった。ここで兄が暮らしていた形跡は何もない。カーテンもベッドも、テレビもテーブルも、冷蔵庫も電子レンジも何もない。少しだけ黄色くなっている壁紙も、カレンダーが貼ってあった画鋲の穴の後も、玄関の茶色いシミと同じように数日後には全部張り替えられてしまう。空っぽだけれど、まだほんの少しだけ汚れが残っているその状態を見て、兄が捨てようとしていた大量のタッパーのようだと思った。この部屋も、綺麗にされて、いつか再利用されるのだ。赤の他人に。それなら、まだ兄のことを知っている向井さんに再利用されるあのタッパーの方が、いくらか幸せかもしれない————なんて、感傷的になっている間に、全ての作業が完了し、父は向井さんに202号室の鍵を返しに行った。

 効き始めたばかりの生ぬるいクーラーの風を浴びながら、後部座席の窓からぼうっと202号室のドアを眺めていると、階段を登っていく人がいた。髪が背中まで長い派手な髪色の若い女性と眼鏡をかけた茶髪の男性が二階の一番奥にある204号室に入っていく。鍵を開けたのは女性の方だったが、おそらく兄もこんな風に、恋人と一緒に202号室へ入っていくことがあったのだろうなと、ぼんやりと思う。脳裏に埃まみれのTバックが頭をよぎりる。あんな大胆な下着を身につけられるなら、きっと、相手はびっきりの美人だろう。そうじゃなきゃ、あの兄には釣り合わない。兄の葬儀に、その人は来ていたのだろうか————そもそも、兄の死をその人は知っているのだろうか?とも思ったが、あれだけニュースで騒がれていたなら、きっと別れていたとしても目に入っているはずだ。自分が愛した男が他の女に殺されたなんて、今頃どんな気持ちでいるのか、私にはわからない。

 

 鍵を返し終わり、車に戻って来た父は手に白いビニール袋を持っていた。中に何か箱上のものが入っているようで、あまり嗅いだことのない香りがしている。母は眉をひそめながらたずねた。

「どうしたの? それ?」

「ああ、大家さんがくれたんだ。帰る途中にでも食べてくださいって。たくさん作ったからって……えーと、名前はなんだったかな?」

 運転席から父はそれを私に手渡した。膝の上に置いて中身を確認すると春巻きのような白い揚げ物が、大量のパクチーと一緒に入っている。ベトナムの料理にハマっていると言っていたので、多分、ベトナム料理だろう。しかも、さっそく昨日私が向井さんの家に置いてきたあのタッパーを再利用している。私はパクチーが食べられないため、すぐに蓋を閉めた。この草の何がそんなに美味しいのかわからない。一度挑戦してみたことがあるが、トイレの芳香剤か何かを無理やり口に入れられたような嫌な感じがして、吐き出してしまった。もちろん、トイレの芳香剤なんて食べたことはないけれど……

「私、ダメなのよねぇ、パクチー」

「そうか? 俺は平気だけど?」

 母も私と同じで、パクチーは苦手らしい。結局、我が家でパクチーを食べられるのは父一人だけ。兄が食べれたかどうかは知らないが、父と兄の食の好みはよく似ている。きっと、兄が生きていたら喜んで食べていただろう。

 結局、私と母はお腹が空いていたし、父も飲み物を買いたいということで近くのコンビニに立ち寄ることにした。


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