空箱(4)
「あら、知っているの?」
「あ、いえ……名前だけですが……ヌクマムって、なんですか?」
「ベトナムの調味料だよ。日本でいうところの醤油みたいなものね。それをドレッシングに使ったものらしいの。ほら、この近くにあるスーパーがね、ここ最近店長さんが変わったのか、よく世界各国の調味料を置くようになったのよ。前は台湾料理にハマってたんだけど、最近はベトナム料理にハマっていてね」
向井さんは、私がヌクマムに興味を持ったことが嬉しかったようで、色々と教えてくれた。ヌクマムとは何かという謎は解明されたものの、逆に兄に対する謎はさらに深まっていく。家に炊飯器もなく、料理なんて全くしていた気配のない兄が、どうしてそんなマニアックな調味料を買ったのか————わからない。向井さんは他の珍しい調味料も一つ一つ手にとって饒舌に説明してくれていたが、私はその謎の方が気になって、後半はほとんど話を聞いていなかった。さらに、このキッチンの窓からは『向井ハイツ』のベランダの真向かいにあることに気がついた。それも、兄が住んでいた202号室がよく見える。ちょうど父がベランダへ出てきたところだったのだ。
「あの、向井さんはいつもこのキッチンでお料理を作っているんですよね?」
「あぁ、そうだよ?」
「それなら、見たことはありませんか? この窓から、向かいの兄の部屋に、誰かが訪ねてきているのを」
「うーむ……そうだねぇ、カーテンが開いているか、今みたいにベランダに出ていれば見えるかもしれないけれど……」
向井さんは目を細めながら、首だけ動かして窓の方を見ながらそう言った。確かにレースのカーテンが邪魔をして部屋の中までは見えない。
「どうしてそんな事を聞くの?」
「あ……その……恥ずかしながら、兄の部屋から女性ものの衣類を見つけまして————」
流石にベッドの下からTバックが見つかったとは言えず、濁した。
「兄はあまり、彼女がいるとか、どんな友人がいるとか……そういう話はしない人でしたので…………いったいどんな人が彼女だったのか気になっていたんです」
「あらまぁ、そうだったのね。確かに、
「そう……ですよね」
向かいの住人だからといって、知っているとは限らない。そんなことはわかっていたのに、兄のことを知る手がかりが何かないだろうかと、つい期待をしてしまったのが恥ずかしくなった。
「あぁ、でも一度だけ……会社の上司だって女の人が尋ねてきたことがあったわ。彼女かどうかはわからないけど」
「会社の上司……?」
「うん、女の人だったよ? 去年の秋頃だったかなぁ? なんでも飛鳥くんが風邪で会社を休んだから、心配で見に来たって……私は偶然その時アパートの周りの掃除をしてたから、声をかけたんだけど」
向井さんはその会社の上司がなんだか挙動不審だったので、声をかけたらしい。名刺をもらって、怪しい人物ではないことはわかったが、結局その上司が兄の部屋に上がったかどうかまでは見ていなかったのでわからないと言っていた。見舞いの品なのか、コンビニの袋を持っていたのは見ているが、玄関先でそれを渡してすぐに帰ったかもしれないし、しばらく滞在していた可能性もなくはない。近所の別の住人から話しかけられ、その人の家で世間話をしたりしていたため、階段を上がっていくところまでしか、見ていなかったそうだ。
向井さんは親切にもその時もらった名刺を小さな三つ引きタンスの中から見つけ出して、渡してくれた。『株式会社ハマコウフーズ 営業部販売促進課 課長
* * *
向井さんのマンションから出て、私は『向井ハイツ』に戻った。父と母は私のいない間も黙々と作業を進めていて、綺麗に片付いていた兄の部屋は段ボール箱がいくつも積み重なっていた。一人暮らしの荷物だから、そこまで多くはない。テレビや冷蔵庫などの大型家電は、中古品の買取業者が明日の昼に査定と回収に来るらしい。父は自分が発注したベッドだけは家に持って帰ろうとかと最後まで悩んでいたけれど、残念ながら実家にベッドを置くスペースはない。これからこのダンボールが兄の高校時代まで使っていた部屋に積まれるのだから、その上あんな大きなベッドなんて邪魔になるだけだ。その日の夜には全ての荷物をまとめ終わって、最後に窓のカーテンを外すと、向井さんの住んでいるマンションがよく見える。キッチンの窓にはブラインドが下げられていて、中の様子までは流石に見えないけれど、隙間から光が漏れてたので、向井さんはキッチンで何か作っている最中だったのだ思う。私はベランダに一度出て、兄も見ていたであろう夜空をぼうっと眺めていた。星はあまり見えなかったけど、そのタイミングでドーンと大きな音が鳴る。
「花火……?」
東の空に、花火が何発も上がっていた。
「そういえば、近くの神社で祭りがあるって、ここに来る前に寄ったコンビニで誰かが話していたな……今日だったのか」
父も母も、一緒に花火を見た。いつもお盆になると帰って来た兄も一緒に見ていた地元の花火大会のことを思い出して、今年からもう、兄と一緒にお祭りの屋台でかき氷を食べることもないのだと思うと、悲しくて泣きそうになる。泣いているのを両親に知られたくなくて、視線を花火から向かいのマンションの屋上に移すと、そこに人影があった。花火が逆光になっていて、顔は見えなかったが、スカートの裾が揺れていて、それが女性であることはわかった。あの屋上からなら、逆にこちらの顔は見えていたんじゃないか————なんて、ふとそんな風に思ってしまって、何故だか少し怖かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます