空箱(3)


 兄の部屋から出てきた不思議なものは、他にもある。テレビ台の中にはサイン入りの小説が数冊入っていて、どれも同じ作家の作品だった。私も、読書家である母もその作家の名前に見覚えはなく、小説より漫画派の父はもちろん知っているはずもない。同じ作家の本を、しかもどれもサイン入りで持っているなら、兄はこの作家のファンであったことは確かだ。一体いつからファンだったのか、私たちは全く知らなかった。裏表紙に書かれていたあらすじや帯のキャッチコピーが面白そうだったので、これらは帰ったら私が読むことにした。大事な兄の形見である。

 それから、ベッドの下の隙間に埃にまみれた女性物のピンクの下着が落ちていた。布の面積が極端に少ない、Tバックである。それも一枚じゃない、三枚も。色やデザインは微妙に違ったが、同じピンクのTバックということで、多分、彼女の忘れ物ではないか……という結論に至った。それは、あの顔だし、彼女の一人や二人いたところでおかしいことはない。ただ、兄はそういう話も一切、家族の誰にもしていなかったので、持ち主はわからない。今も関係が続いていたのか、それともすでに別れた相手のものなのか————兄の葬儀で大泣きしていた人が何人かいたが、もしかしたらその内の誰かのものかもしれないと思った。流石にこれは捨てていいだろうと、母は燃えるゴミの袋に三枚とも投げ入れていた。

 また、この他にレシートも数枚落ちていて、それは近くのコンビニとスーパーのものだった。コンビニのレシートには苺のアイスだったり、缶コーヒーだったりおでんだったり決まった商品ばかりが並んでいた。日付は違ったが、だいたい同じ時間帯のものなので、仕事帰りに立ち寄った時のものだろう。コンビニの方もレジのシフトが合うのか、担当者は決まってイエチカで、謎なのはスーパーのレシートの方だ。

「ねぇ、ママ。ヌクマムって、何?」

「ヌ……なんですって?」

 家族三人で顔を見合わせたが、こちらも誰一人わからなかった。兄はスーパーで一体、何を買ったのか……謎である。レシートの日付は兄が殺害される二週間ほど前のものであったが、結局、部屋のどこにもヌクマムらしきものは見つからなかった。


 そして一番驚いたのが、煙草の空箱だ。兄が実家で煙草を吸っているのを見たことがある人はいない。二十歳をすぎているのだから、喫煙しようがしまいが個人の自由ではあるが、父も母も兄が喫煙者であることは知らなかった。全く知らない兄の一面が少し垣間見えたものの、非の打ち所がないと思っていた兄にそんな一面があったなんて、煙草に対してあまりいいイメージがない私は少しだけショックを受けた。

「まぁ、煙草は大人なんだから別にいいとして、このタッパーはなんなんだ? なんでこんなに?」

「本当よ。なんなのかしら……?」

 父も母も、やはり一番引っかかったのは、この大量のタッパーである。答えを知りたくても、正解を知っている人間はもういない。考えていてもしかたがないが、ゴミ袋に入れているのなら、きっと大切なものではないのだろうと、私はその袋を二つ持って、先ほど向井さんが教えてくれたアパート専用のゴミ捨て場にそれを運んだ。その時、私は視界の端にあのボタニカル柄のミモレ丈のワンピースがチラついていることに気がついた。

「それ、捨てちゃうの?」

「え……?」


 向井さんだった。左手にこのアパートへ来る前に通ったスーパーのロゴが入ったピンク色のエコバッグを持ち、右手で指をさす。今気がついたが、その指にはピンク色のマニキュアが塗られている。この人はピンクが好きなんだなと思った。

「もったいないと思って。壊れているようには見えないけど」

「ああ、その、ゴミ袋に入って置いてあったので、ゴミなのかと思いまして————それに、母も今家にある分で十分事足りているから必要ないと……」

「それなら、私がもらってもいいかしら?」

「え? この量を、ですか?」

「ちょうど新しいのを買おうと思っていたのよ。私ね、この歳で独り身なんだけど、料理を作るのが趣味でね……いつも作りすぎてしまうから、ご近所の方達とかお友達とかにお裾分けしているのよ。でもねぇ、自分の家で使われたり、引っ越しちゃったりしちゃうから数が減っちゃってね。ちゃんとその都度返してくれる人って意外と少ないの。ダメかしら?」

「いえ……別に、いいですけど」

 どうせ捨てるものだし、それが必要だというのなら構わないと思った。ゴミを他人に渡すというは少し変な気もしたけれど……向井さんはエコバックに食材が詰まっていて重そうだったので、私は向井さんが住んでいるという近所の別のマンションまでついて行くことになった。


 向井さんのマンションは、『向井ハイツ』の向かいにあった。こちらは二階建てのファミリー向けのマンションで、向井さんは二階のA室に住んでいる。屋上には家庭菜園もあって、ミニトマトやバジルなんかのハーブを育てているのだと言っていた。『向井ハイツ』は向井さんのお父さんが所有していたものをそのまま引き継いだそうだが、こちらのマンションは向井さんが若い頃に溜め込んだ貯金と親の遺産によって建てられた新築だそうだ。

「悪いんだけど、そのままキッチンの方に置いてくれる?」

「はい、わかりました。お邪魔します」

 中へ入ると、ドラックストアで売られている芳香剤のサンプルを嗅いだ時のそのままの匂いがした。玄関の靴箱の上にピンク色の可愛らしいボトルが置いてある。間取りは多分、2LDK。作りが最近引っ越した友達の住んでいるマンションと全く同じに見える。おそらく、同じ建設会社が建てたものじゃないかと勝手にそう思った。それに、兄のあの殺風景なキッチンとは違って、見たことのない調味料がたくさん並んでいる。

「あ……!」

 言われた通り袋を下ろして、なんとなくその調味料たちを眺めていたら、そこに謎だった例のものを見つけて、つい声大声を出してしまった。

「ヌクマム!!」


 『ヌクマム ドレッシング』と書かれたボトルがあった。

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