空箱(2)

 兄が住んでいた『向井ハイツ』は単身者・学生向けのアパートだ。各階に四部屋ずつ、全部で十二部屋あり、階段の方から201〜204室と並んでいて、兄の部屋は202号室。兄を殺したその女は203号室の住人だった。201号室の人間は、隣で殺人事件————しかもそのまた隣の住人が犯人であったことが嫌だったようで、事件から一週間も経たずに引っ越してしまったらしい。つまり、今このアパートの二階は現在204号室しか使われていない状態だった。

「すぐ近くに住んでいますので、わからないことがあればいつでもご連絡ください」

 

 向井さんはゴミ置場の説明をした後、202号室の部屋を父に渡してそう言った。数年前からこの物件だけは管理会社を通さずに向井さんが直接管理をしていたらしい。生前の兄とは親しかったようで、「他に何かできることがあればなんでもご協力します」とも言っていた。

 父は鍵を差して回すと、ドアを開ける前に一度深く息を吐いた。事件の直後にも捜査に協力するため二度ほど現場を見ているはずだが、それでも自分の息子が無残にも殺された玄関を見るのは、やはり気が引けるのだろう。ドアが開いたので中を見る。殺人現場なんて見たこともなかったし、私も少し緊張していたが、思ったほど汚れてはいなくて拍子抜けした。一応、私たちが訪れる前に清掃業者が床や壁に残っていた血痕は拭き取ったそうだが、それでも消しきれていない茶色いシミが、まだ所々に残っている。兄の荷物を片付け、部屋の中を空っぽにして明け渡した後、壁紙は全面貼り替えになるそうだ。

 三人分の靴でいっぱいになってしまうほどの小さな玄関で靴を脱いで、上がり口に足をかけると、ギシギシと心もとない音がした。正面のドアを開けると、リビングに繋がっていて、間取りは1DK。ダイニングキッチンの部分はよくある少し黄色っぽい茶色のフローリング。入って右側に扉が三つあって、手前からトイレ、洗面所と風呂、4畳ほどの和室。左側はキッチンスペースになっていて、シンクとガスコンロ、背の低い冷蔵庫と、その上に電子レンジが乗っかっていた。日当たりの良い東南の窓の向こうは一応ベランダになっている。

 兄はマメに掃除をするタイプだったのだろうか、男の一人暮らしでよくある、床に物が散乱して足の踏み場がないとか、飲みかけのペットボトルがそのまま放置されているとか、脱ぎっぱなしの服がそのまま床に————なんてこともなく、綺麗に整理整頓されている。もっとゴミ屋敷のような状況を勝手に想像していたけれど、顔だけじゃなくて部屋も綺麗だなんて、やっぱり自慢の兄だ改めて感心するほどだった。


「何かしら、この袋……」

 ところが、一箇所だけ妙なところがある。母もそれに目がいったようだ。透明な大きなゴミ袋に、大量の四角い箱が詰められてガスコンロの上に置いてあった。100円ショップやホームセンターなどで売られているタッパーのようだが、どこか壊れているとか、割れているというわけでもなさそうだった。ただの空箱になってはいるが、水で洗い流しただけのようでニンニクや香辛料か何かの臭いは少し残っていた。

「お兄ちゃんって、料理してたのかな? 何か、大量に作りすぎちゃって保存してたとか?」

「まさか……料理をしている人のキッチンには見えないけど……ガスコンロの上にものを置くなんて、普通やらないでしょう」

 母に言われて改めてキッチン周りを見たが、調理器具も調味料も必要最低限くらいのものしか置いていなかった。炊飯器もない。小さい鍋とフライパンが一つずつコンロの下に収納されていたが、あまり使われていないようで、新品のように綺麗なまま。まな板はあるが、包丁はない。刑事さんの話では、凶器に使われた包丁には兄の指紋が付いていたらしいから、多分、この部屋に唯一あった包丁を使われたのだろう。

 冷蔵庫には使いかけのマヨネーズとケチャップくらいしか調味料は入っていない。兄が死んでから一ヶ月経っているため、賞味期限はとっくに過ぎている牛乳パックと、あとはペットボトルの水とエナジードリンク、ビールが数本入っている。とても料理をする人間の冷蔵庫ではない。その代わり、冷凍庫にはパンパンに冷凍食品が入っていた。どれも、電子レンジで温めてそのまま食べられるものばかり。

「あ、苺だ」


 苺味のアイスクリームがいくつか入っていたのを見て、私は中学生の頃に兄と二人でファミレスに行った時のことを思い出した。デザートにティラミスと苺のパフェを頼んだら、運んできた店員さんが私の前に苺のパフェを置いたのだ。苺のパフェを頼んだのは、兄の方だったのに。その店員さんがいなくなった後、兄は少し恥ずかしそうにパフェの位置を自分の方へずらしていた。兄は昔から苺味が好きで、お盆の夏祭りでかき氷を買った時も、私がメロンで兄が苺だったので「普通、逆じゃないの?」と、親戚のお姉さんにからかわれたこともある。

 シンク上の吊り戸棚には、カップラーメンやレトルト食品と一緒に、大量の期間限定の苺のお菓子がたくさん入っていた。どれも今の時期には売られていない冬限定のもので、賞味期限は早くても今年の秋頃までだった。きっと兄は一年かけて大事にこれらを味わう予定だったのだろう。もう食べることはできないので、これらは毎月私が兄の仏壇に供えてあげようと思った。もちろん、賞味期限があるので、最終的には全部私のお腹に入ることになる。


 母がキッチンを片付けている一方、父は和室の方を片付けていた。兄のベッドは、縦にも横にも大きい。私の部屋にある普通のシングルベッドとは違って、身長の高い人用にできている。あの顔で身長も190cm近くあり、大学の寮のベッドでは長い脚がはみ出して不自由していたのを父が知って、就職祝いに買った特注品だ。こちらも特に汚れていたり、何かゴミが落ちているという様子はない。というより、そのベッドが大きすぎるので和室のほとんどをベッドが占領している。押し入れとベッドの間にスペースが少しある程度。ところが、その押入れを開けた父が、母と同じことを口にした。

「なんだ? この袋……」


 ガスコンロの上にあったのと同じく、空箱の入った袋がそこにあった。


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