第15話 ボクはね、自分の得意を活かすことだと思っている

顔を上げて、前を向いて、全力疾走すること。

それが、ナツの言う逃げるときに大切なことらしい。そんな爽やかな感じなのかと、僕は耳を疑った。生きるための逃げといい、どうやら僕の逃げに対する解釈とナツのそれは、正反対と言っていいほどに離れているようだ。


「納得していない感じだね」


ナツは困ったように言った。


「僕が持っているイメージと違うから、正直困惑はしてる」


「君は逃げることを悪いことだと考えているよね?」


「ああ。でも、大きくズレた考えでもないと思うよ。一般的にもネガティブなイメージの方が強いんじゃないかな」


「ふむ。じゃあまず、そのイメージを払拭しよう。逃げることはね、悪いことじゃない」


ナツは改めて肯定し、「でもね……」とさらに言葉を繋げた。


「簡単なことでもないんだ」


「え? どういうこと?」


「君の言う逃げは、例えば、責任逃れに近い解釈だよね? やるべきことをやらないみたいな感じだ。でも、ボクに言わせれば、そんなものは逃げじゃない。ただ単に目を背けているだけだ」


「じゃあ、ナツの言う逃げってなに?」


「それまでとは違う、新しい道を進むことだよ」


「新しい道……?」


また「道」という言葉だ。さっきも「生きるための逃げ道」と言っていた。


「そう。新しい道に進むと決めたら、中途半端にそれまでの道を振り返ることはせず、目の前の道をひたすらに進み続ける。それが本当の逃げだ。でも、目を背けるっていうのは、見ないようにしているだけで足は動いていないんだよ。二つを分ける一番のポイントは、動き出しているかどうか、だね」


「新しい道に進むから、簡単じゃないってこと?」


「その通り。新しい道に進むということは、それまでの道で得ていたものの大半を捨てることになるからね」


僕は顎に手をやり、考える。

確かにナツに言うことは理解できる。僕の場合、もし転職するとなれば、まず人間関係は構築し直す必要がある。当然ながら前の会社の役職は失うし、引っ越しするなら今住んでいる家も失う。今の会社に居ることで享受しているもののほとんどを捨てることになるのだ。もちろん、それが悪いことばかりではないと思うけれど。


「捨てる覚悟を持つってことか……」


ひとりごちる僕に、ナツは大きくうなずいてみせた。


「顔を上げて、前を向いて、全力疾走することが大切っていうのはそういうこと。中途半端に立ち止まったり引き返したりすると、逃げた先で失敗を招くからね。野生の世界でもそうだろ? 天敵に見つかれば、ほとんどの生き物が取る選択は逃走だ。たとえ住みやすい環境を捨てることになるとしても、命のためなら逃げるしかない。まさに、生きるための逃げだよ」


「……そうだね。その通りだ」


僕は口ではそう言いつつも、まだ決心がつかなかった。

逃げというものの本質は理解できたし、捨てる覚悟という意味では今の会社において人間関係、仕事内容、給料、勤務地、その他諸々に未練はない。

僕の足を止めているのは、逃げた先に対する漠然とした不安だ。逃げに対するネガティブなイメージが払拭できたとしても、将来の不安までは拭えない。


「まだ迷いがありそうだね」


表情が硬くなっていたのか、ナツにはあっさりと見抜かれていた。

すると、ナツは「もうひとつクイズを出そう」と言って僕の顔を覗き込んだ。


「生物が長生きするコツってなんだと思う?」


「え? 健康とか……?」


「それも正解のひとつだね」


ナツはそう言って笑った後、「ボクはね……」と続けた。


「自分の得意を活かすことだと思っている」


「自分の得意を活かす……?」


僕はそうつぶやきながら目で説明を訴えた。


「生物はみんななにかしらの特長を持ってるものだろ? 例えば、ボクみたいな地表性のヘビはしなやかで強靭な身体を活かして狭い場所を移動できるし獲物を捕食できる。魚は水の中を早く泳ぐことができるし、鳥は空を飛ぶことができる。みんな自分の特長を活かせる環境に身を置くから長生きできるんだ。進化だってそう。その環境に適応できる特長を持った種が長く繁栄していく」


僕は身体が内側から熱くなっていく感覚を覚えた。

まるでナツの言葉に呼応するように産声を上げているみたいだ。


「だから君は、君の得意が活かせる場所に堂々と胸を張って逃げればいいんだよ。自分の得意がなんなのか、君はもう識っているはずだ」


識っている。僕は、自分のことをよく識っている。自分の得意なことも、苦手なことも。

そうだ。苦手なことばかりに囚われていたら自分を見失ってしまう。自分の得意なことに、「ある」ものに目を向けるべきなんだ。

ナツがまっすぐに僕を見つめる。僕はそれに対して大きくうなずいてみせた。


「決めたよ。僕は、新しい道に挑戦する」

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