第14話 顔を上げて、前を向いて、全力疾走することだよ 2

―――自分と会社を観察し、総合的に判断した結果、分かったのは今の職場が自分には合っていないということだった。

ナツに言われた時は、そうかもしれないという程度にしか考えていなかったけれど、改めて見てみると自分が苦手とする要素が多く、ストレスを抱えやすい環境にあると今は感じている。


例えば、僕は黙々と作業するのが性に合っているのだけれど、今の持ち場は作業しながらも話しかけられることが多くて集中できない環境だ。それに複数の作業を同時並行で、しかもスピーディーに処理しなければならないのも苦しい。このミスマッチは以前にも感じていたことで、仕事との相性に大きく関わる部分だと思う。


また、このミスマッチと同じくらいにストレスを感じる要素としては、他課との関係もある。僕の所属する課は分析して指示を出すという業務の性質上、責任を負う立場となることが多い。それ自体はしょうがないと理解しているけれど、その性質に胡坐をかいて他の課が責任転嫁をしてくることも多いのだ。社内のパワーバランスを見ても僕の所属する課は弱くていろいろと言われやすい立場にあった。

それでも課長を筆頭に他の先輩達は何を言われても上手く受け流している。だけど、僕にはそれがどうしてもできなかった。この会社で働いて分かったことだが、僕は人の機嫌に対して過敏に反応してしまうところがあり、先輩達がさらっと受け流せることでも、真正面から受け止めてあれこれ考え込んでしまうのだ。多少吹っ切れたはずの今でも、その傾向は変わっていない。僕と先輩達とでは、どこか心の作りが違っていて、完全に馴染むことはできないのかもしれないと、そう思ってしまう自分がいる。


馴染むことができないと思う要因は課内の雰囲気にもあった。僕の所属する課は仕事量の割に人数が少なく、全員が毎日遅くまで働いている。拘束時間が長く責任も重いためか、課内には常にピリッと張り詰めた空気が漂っていて、その空気感は入社してすぐに感じ取っていた。

今週ももちろん重苦しい空気は流れていて、そんな空間では当然ながら和気あいあいなどしておらず、どちらかと言えば殺伐としている。みんな自分のことで手一杯のため自分の領分以外の仕事を極端に嫌がり、僕の仕事のように必ず毎日やらなければならないこと以外は手伝うという習慣がない。それどころか仕事を押し付け合う様子はよく見受けられ、細かい仕事に関してはその矛先が僕に向かってくることが多かった。一番下っ端という立場と頼み事をなかなか断れない性分もあって、僕は自分の業務がままならない状態でも頼まれれば引き受けていた。そして、一度引き受けてからはもう、断ることができなくなっていた。

今週も何回か頼まれて、そして気づいたことがあった。僕は今まで一度も引き受けた仕事に対して感謝をされたことがなかった。別に見返りを求めてやっていたわけではない。けれど、胸がモヤっとしてしまうのも事実だった。

入社して一年が経ったくらいの時に先輩の一人から「お前が入ってきて良かった」と言われたことがある。当時は自分が役に立てているのだとうれしく思ったけれど、あの言葉は手放しで喜んでいいものでもなかったのかもしれない。

そう考えた時、ふと、ナツの言っていた自己犠牲という言葉がまた頭に浮かんだ。そして、胸にポッカリと穴が空いたような、妙な違和感を覚えた。




「食らいつくのに必死で気が付いてなかったけど、整理すると自分の苦手なことばっかりなんだよな。黙々と集中できる環境じゃないし、マルチタスクだし、高圧的な人は多いし、やさしさに付け込んでくる人も多い……」


「じゃあ、もう辞める決心をしたんだね?」


ナツにそう聞かれたが、僕はすぐに首を縦に振ることができなかった。


「辞めたいっていう気持ちは強くなったよ。だけど、不安もあるんだ。このまま逃げて別の場所に行ったとしても、うまくいかないんじゃないかって……」


自分が抱えている悩みはきっとごく普通なものでありふれたものだ。別の会社に移ったとしても、同じことで悩み苦しむかもしれない。そしてまた、逃げ出してしまうかもしれない。だったら……。


「じゃあ君は、今の環境だったらうまくいくのかい?」


ナツの問いかけに胸を突かれた。思わず「うっ……」と声が漏れて、でもそこから言葉が続かなかった。

そうだ。今の環境だって居続けてうまくいく保証はどこにもない。むしろ、うまくいかないと思い始めているくらいなのに。

結局僕は、現状を変えることが怖いのだけなのだ。


「不安になるのも分かるよ。環境を変えてもなにかしらの悩みは出てくるだろうからね。でも、君は現状の自分を識ることで、少なくとも今自分を苦しめているものが少ない道を選び取ることができるはずだ。そして、そうした道を選ぶことは思考を放棄した逃げとは全く別物なんだよ。自分と向き合ったからこそ生まれた、生きるための逃げ道だ。その道を通ることを恥じる必要なんてない。むしろ堂々と胸を張っていいくらいだよ」


黙ってうつむいている僕に、ナツは優しい声色で語りかける。


「生きるための逃げ、か……」


僕は思わずひとりごちる。

逃げることをそんな風に考えたことがなかった。僕にとっての逃げは、臭い物に蓋をするようなイメージだったから。

でも、思い出してみれば、ナツは以前から逃げることに対して肯定的だった。逃げる選択肢もあると、そう言ってくれていた。


「ねぇ、逃げるときに大切なことって、なにか分かるかい?」


ナツは首を持ち上げて、問いかけてきた。


「え? なんだろう……」


「ちょっと考えてみてよ」


そう言われても僕の頭の中にはまともな答えが浮かばなかった。逃げに対して否定的なイメージがあるせいで、「ずる賢いこと」とか「鈍感であること」とか、言われたら悲しくなるような言葉しか出てこない。流れからしてナツの答えがネガティブな内容ではないことは分かっていたので、僕は浮かんだ言葉を口にすることはなかった。


「うーん……、やっぱり分からないや」


諦めて降参すると、ナツは首を伸ばして僕との距離を詰めた。

そして、僕のことをまっすぐに見つめたまま、はっきりと力強い口調で言った。


「顔を上げて、前を向いて、全力疾走することだよ」

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