第6話 君が苦しんでいるのになぜ立ち向かおうとしているのかが分からない
先週と打って変わって今週はとても忙しかった。廃水の新規の大型案件が始まったのだ。入荷量が多い上に性状もかなり気を遣わなければならず、緊張感が先週の比ではなかった。しかもこの案件が終わった後も今度は汚泥で新規の大型案件が予定されており、こちらも厄介な性状をしている。前々から朝のミーティングで話題になっていて、僕はずっとこの日を迎えるのが嫌だった。
今回の大型案件のように厄介な性状で何日も入荷が続くものは初期対応が重要になる。最初にこけてしまうと余計な仕事が増えて立て直しが大変になる、と先輩はよく言っていた。だからかいつもは放任主義な先輩も今週はたびたび様子を見に来て、大型案件が来たときは僕が言う前に手伝ってくれた。
ただ、厄介な性状で量も多いというだけあって作業や各所への報告が多く、先輩はいつも以上にイラついていて、僕への指示は雑で言葉や語気も荒れていた。それだけでもキツイのに、不幸なことにイラついていたのは先輩だけではなかった。廃棄物を運搬してきたドライバーも早く荷下ろしして次の現場に向かわないといけないため急かしてくるし、処理を担当する現場の人も手間のかかる工程のためかこちらの指示に文句を垂れる。
久々に僕はこの持ち場を任され始めたときの感覚を思い出していた。自分の周りだけ高速で時間が進み取り残されている感覚。自分への非難の声が頭に響き、心臓はまるで全力疾走をしたみたいに激しく脈打っている。
家に帰ってからも見えないなにかに追われているような気がして、それを振り払うように机にかじりついた。新しくメモをまとめて、過去のものも含めて何度も見返した。身体は疲れているはずなのに、不安で眠気がやってこず僕は遅くまで机に向かっていた。
そうして怒涛の平日が終わり土日を迎えたが、それでも気持ちが休まることはなかった。むしろ平日になにか判断ミスをしてそれが露呈し、電話がかかってくるのではないかと気が気でなかった。いまの持ち場を任されてから、休日は家に居ながらも会社の人に見られているような状態であまり気持ちが落ち着かないが、今週は特に息苦しく感じる。
日曜日の朝、といってもほとんど昼に近いが、ナツのケージに入れている飲み水用の水の入れ替えをした。水入れはナツが全身浸かることができるように大きめのプラスチック容器を使っている。洗面所で古い水を捨てて新しい水を入れて戻ると、さっきまでケージの端でとぐろを巻いていたナツがガラス扉の前で待機していた。僕がガラス扉を開けて水入れを戻すのをナツは首を持ち上げてジッと見つめていた。
「大丈夫かい?」
僕がケージを閉めようとしたところでナツは声をかけてきた。
「なにが?」
「顔色が良くない。無理をしているんじゃないのかい?」
「ちょっと疲れが溜まってるだけだよ」
「ちょっとじゃないだろ。最近ずっと夜遅くまで起きているし、しっかり休んだ方がいい」
その後も「大丈夫」「いや、大丈夫じゃない」のやり取りが数回続き、さすがに僕もイラっとしてきた。まるで母親に無駄な心配をされているみたいな鬱陶しさがあり、僕は頭を乱暴に掻く。
「大丈夫って言ってるだろ。だいたいナツになにが分かるんだよ。人間の世界のことなんて、なにも分からないだろ。放っておいてくれよ。僕は好きで……」
好きでやっている。そう言おうして言葉が詰まった。
それは本当に君の好きなことなのかい?
ずっと頭の隅にこびりついていたその言葉が頭の中を支配して、口にするはずだった台詞を遮った。
「分からないよ」
ナツは首を横に振りながらポツリとつぶやく。
「ボクには分からない。分かるのは君が苦しんでいることだけ。だから、君が苦しんでいるのになぜ立ち向かおうとしているのかが分からない」
ナツは僕をまっすぐ見つめながらそう言った。一方の僕はなにか言い返そうとしてなにも言えずに目を逸らした。いろんな感情や考えが浮かんでは消えて、言葉にすることができなかった。
「そうだ。ボク脱皮が近いから、しばらくはご飯いらないよ」
ナツはそう付け加えるとケージのガラス扉を閉めた。
ガラス越しによく見ると、ナツの身体は全身が白く濁っている。
いつもは一目みてすぐに分かるのに、今日は言われるまで全く気が付かなかった。
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