第5話 それは本当に君の好きなことなのかい?
思い返してみれば、僕は逃げてばかりの人生だった。例えば大学受験。僕は第一志望の国公立大学に落ちて、泣く泣く滑り止めの私立大学へと進んだ。浪人することも考えたが、お金がかかるし、わざわざ浪人してまで行きたい大学だったのか分からなくなってやめた。でも本音を言えば、もうこれ以上受験勉強なんてしたくなかったのだ。周りが次々と受験を終えて自由な時間を得ていくなかで、ひとり闘い続ける勇気がなかった。僕も早く解放されて、自由な時間が欲しかったのだ。
私立大学は思ったよりかは楽しく過ごせた。数は少ないが気の置けない友人ができて、卒業後は僕が地元を離れて気軽には会えなくなったけど、帰省のタイミングではいまでも会って話をする。後悔があるとすれば、結局ここでも勉強から逃げたことだ。はじめは、今度こそしっかり勉強して高い専門性を身に着けよう、と意気込んでいた。講義もサボらずに出席し、板書をノートにまとめ、図書館で関連書籍を借りて読んだりもした。
でもダメだった。全然ついていけないのだ。自分の興味ある分野に進んだけど、いままでおろそかにしてきた勉強の負債は確実にあって、それが僕の足を引っ張っていた。運が良かったのは、多くのテストで出題箇所を事前に教えてもらえて、しかも配布されたプリントと同じ問題しか出なかったので丸暗記すればどうにかなったことだ。レポート課題も必要最低限のことを書いて提出してさえいればそれでよかった。おかげで単位を取ることには困らなかったけど、終わってみれば表面をさらったような浅い知識しか身に付かなかった。
就職活動でいまの会社を選んだ理由は二つある。一つ目はできるだけ大学で学んだことを活かしたいと思ったから。決して学びが多かったわけではないが、せっかく高い奨学金を借りて通っていたからこそ、大学生活の四年間に少しでも意味を与えたかった。そして二つ目は、いまの会社しか内定をくれなかったからだ。だから僕はここでこそ逃げないようにしようと思った。ここでも逃げてしまったら、もう次に行く場所なんてない。なんとか踏ん張って耐えて続けていれば、いつか日の目を見ることができるはずだと、そう信じて僕は辛くても働き続けると決めた。
今週は厄介な廃棄物の入荷もなく、受け場所にも余裕があったため比較的マシな方だった。毎日入荷があるものや性状が安定しているものは受け場所が決まっているので、処理を担当する現場の人とのやり取りもスムーズに進む。おかげで僕ひとりでも回せる時間が多くなり、先輩の手助けもいつもより少なく済んだ。
「今週はかなり楽だったな」
金曜日の夕方、いったん入荷が落ち着いたので事務作業をしていたところ、先輩が話しかけてきた。
「クセのある入荷はなかったですね。一気に入荷がくるときは大変ですけど」
「あんなのたいしたことないよ。お前もあれくらいは楽にこなせるようにならないとな」
先輩は表情こそ穏やかに見えたが、声は硬くピリッとした緊張感が漂っていた。
「来年は新人が入ってくるかもって話だし、お前ももう甘えてばっかじゃいられねぇぞ。もっと頑張れよ」
「は、はい……」
僕の返事と同時に先輩の携帯に着信が入り、先輩は慌ただしく立ち去っていった。先輩がいなくなってから、僕は再び手元の書類に目を落とした。それは今日入荷してきた廃棄物のリストで、毎日どういう性状だったかを簡単にメモして社内でデータとして残している。今週はここに書いてあるものの大半を僕が分析し、受け場所を割り振った。そのはずなのに、ちっとも僕は喜べなかった。
日曜日になり、僕はナツに餌やりをしていた。最近はこの時間にナツと話をしていたが、今日は特に話すこともなく、ナツが二匹目のマウスを呑み込むまでの間、僕は自分が書いた会社のメモを見返していた。そのメモは定常的に入荷する廃棄物の性状とどこで受けているかをまとめたもので、他にも個人的に厄介だと感じた入荷についてはどこでどういう理由で受けて処理をしたかを記録している。いつもは始業前にそのメモとその日の入荷リストを照らし合わせることで復習をしていたが、たまにこうして家でも見返していた。
僕がジッとメモを見ながらブツブツと独り言を言っているのが気になったのか、いつのまにか呑み終わっていたナツは身体を伸ばして僕の視界に入ってきた。
「ずいぶんと熱心だね」
「早く一人前にならないといけないからな。サボっている暇はないんだよ」
「別にサボっているわけではないだろ? 今日は休日なんだし」
「そうは言っても明日からはまた仕事だから復習しておかないと。僕は要領が悪いから、休日も使わないとできるようにならないんだ」
普段の平日は落ち着いた時間なんてなかなか取れないから、ある程度時間をかけようと思ったらやっぱり休日を使わざるをえない。
僕はナツと話している間もメモからは目を離さなかった。
「無理はしないでくれよ?」
「好きでやってることだから大丈夫だよ」
僕がそう言ってからナツが返事をしなかったので、少しの間沈黙が流れた。こんな中途半端な状態で会話が途切れることなんてなかったので、気になってナツの方に目をやると、ナツは人間でいう眉をひそめたような表情をしていた。ヘビに眉はないので確実に見間違いではあるが、僕にはそう見えて驚きを隠せなかった。
「それは本当に君の好きなことなのかい?」
「……え?」
僕はすぐに反応できなかった。またお互い無言になり、僕がなにも言わないことにしびれをきらしたのか、ナツは「それじゃ、おやすみ」と言ってケージのガラス扉を閉めた。
僕はその場からすぐに動くことができなかった。切り替えて復習しようとしてもメモが頭に入っていかない。
ナツの一言がいつまでも頭にこびりついて離れなかった。
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