第4話 逃げることが許されないなんて、人間はずいぶんと窮屈だね

「やさしさが『ある』って……それだけじゃ意味ないよ」


僕は珍しくナツの言葉を受け止めきれず、ひねくれて言った。


「会社での役割を考えるなら、もっと作業の慣れや知識が必要だろうけど、人間にとってやさしさというのは大切なものだろ? 人間に限らず群れで生活する生き物にとって他を思いやる心というのは生きていく上で必要不可欠なはずだ」


「急に話が大きくなったね」


「まぁ、君の場合はやさし過ぎると思うけどね。他人の期待に応えるためにここまで自分を追い込むなんて、もはや自己犠牲だよ」


自己犠牲。その言葉がまっすぐ胸に突き刺さった。


「……そうかな?」


「そうさ。こうしてボクと話はじめてからは見なくなったけど、以前は自分の至らなさを悔いてよく泣いていたじゃないか」


「なっ……!」


なんで知っているんだ……! ……いや、でも待てよ? 考えてみれば同じワンルームの部屋で過ごしているのだから知っていてもおかしくはないのか? ただそうすると、もはやこの家に僕のプライバシーは存在しないということになるんだが……。


僕は「はぁ……」と大きく溜息をついた。ただでさえ広くない部屋がよりいっそう窮屈に感じられた。それと同時に恥ずかしさや情けなさが入り混じった複雑な感情もこみ上げてくる。


「どうしたんだい?」


「いや、まぁ、もういいや……。知っていたんだね……」


「ああ。ただ苦しそうに泣く君は、正直痛ましくてあまり見ていられなかったよ」


僕はなにも言わず、ただ自分の手元を見つめていた。


いまの持ち場を任されてすぐの頃は目まぐるしく変わる状況に全くついていけなかった。高速で動いていく時間に自分だけが取り残されて、だけど自分に向かってくる怒号だけは鮮明に届いてきた。あとから先輩にああすればいいこうすればいいとアドバイスを受けたけど、いざその時になっても頭は回らないし身体も思ったように動かなかった。最初の一ヶ月は先輩も「はじめはそんなもんだよ」と笑ってくれていた。でも二ヶ月を過ぎたあたりからは「なんでできないの?」と溜息をつくようになり、この時に僕は思い知った。自分がとんでもない役立たずなのだと。そして絶望した。それまでなんとなく思い描いてきた社会人生活とは正反対にものになったことを。


いまは多少できることも増えたと思うけど、まだまだ足りない。いままでの先輩たちはみんなこの持ち場はひとりで回してきたから、僕も当然そうならなければいけないのだ。先輩にはもう他の仕事もあるからいい加減迷惑はかけられないし、なにより「また仕事が溜まっちゃうよ」と嫌そうに手伝う先輩の隣に立つのは苦しい。

だから、僕は一刻も早くひとりでできるようにならないといけない……。ひとりで、できるようにならないといけないのだ……。


「逃げちゃえばいいじゃないか」


「え?」


「そんなに苦しいなら逃げちゃえばいい。生きづらい環境に居続けるなんて生物として間違ってるよ」


「そんな簡単なことじゃないんだよ」


僕は首を横に振りながら言った。


「そうなのかい? 逃げることが許されないなんて、人間はずいぶんと窮屈だね」


「人間には耐え忍ぶことも必要なんだよ。ちょっと苦しいからって逃げていたらなにもできないよ」


「ふーん。難しいものだね。ボクなんか天敵がいる場所とか寒い場所とかだったらすぐに逃げるよ。居続けたら死んじゃうし」


ナツは首をかしげながら心底不思議そうにしている。


「僕の場合はそういう生き死にが関わった話じゃないから」


まぁ、ナツには分からないだろう。人間の苦しみなんか。ヘビには仕事や会社なんて概念はないし、そもそもヘビは群れを作らないから人間の組織的な話なんて分かるはずもない。


「まぁ一部だけど『ある』ものは見つかったし、付け加えてボクが言いたいのは、『逃げるという選択肢もある』ということだね」


ナツは「それじゃあ、おやすみ」と言って、先週と同じように身体でガラス扉を閉めた。僕はナツがケージの隅でとぐろを巻くのを見届けてから鍵をかけた。鍵をかけた時のガチャンという音が、今日は大きく聞こえた気がした。

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