第3話 ボクたちはいま『ある』ものでいまを生きるしかないんだからさ

就職してからはいつも目の前のことで精一杯で、自分について改めて考えてみることなんてなかった。仕事中はとにかく気が休まらないし、家に帰っても散々残業して疲れているので思考が働かない。かと言ってせっかくの土日に考え事をする気にもなれなかった。だからここ数年の僕の自分自身に対する印象は仕事のできない役立たずで、プラスの印象なんて持ったことがなかった。


そんな風にいつも後ろ向きだった僕に、ナツは『ある』ものを探せと言った。好きなもの、やっていて苦にならないこと、許せないことを見つけろ、と。正直自分の中にそういうこだわりみたいなものがあるとは思えなかったけど、あの時のナツの真剣な眼差しを思い出すと意地でもなにかを見つけないといけない気がした。


僕の仕事は簡単に言えば廃棄物の仕分けだ。毎日入ってくる廃棄物の性状を簡易的に分析し、適切な場所へと荷下ろしするように指示を出す。たくさんの廃棄物が次々と入ってくるためいつも忙しく、今週も例外ではなかった。ただ、ナツのおかげか無意識に感性のアンテナみたいなものを張っていて、いくつか気づいたこともあった。相変わらず仕事は一人ではさばききれず先輩に迷惑はかけてしまっていたけれど。


日曜日になり、僕はいつも通りナツにマウスを与えた。ナツが器用に口を動かしながらマウスの頭を探して呑み込んでいくのを僕は黙って見つめていた。


「それで、自分に『ある』ものは見つけたかい?」


マウスを呑み終えたナツは舌をチロチロと出しながら訊ねてきた。


「明確に『ある』ものを見つけられたわけじゃないけど、気づいたことはあったよ。まぁ、たいしたことじゃないんだけど。まず、いまの仕事の分野は嫌いじゃないけど、いまの自分の持ち場は嫌いかな。とにかく手を早く動かしながら人とコミュニケーションを取らなきゃいけないんだけど、自分には向いてないと思う。僕はどっちかと言えば一人で黙々と作業できる方がストレスがないかな。事務作業は嫌いじゃないから」


ナツはうんうんとうなずきながら聞いている。


「あとは、高圧的な態度を取る人は嫌いだね。威圧的な態度を取れば思い通りに人を動かせると思ってる感じがして。その人にも事情があるのかもしれないけど」


いつも数人はそういう態度で僕を急かしてきて、僕はそれが苦痛だった。その時の記憶がフラッシュバックして僕はギュッと目を瞑った。


「……でもやっぱり一番実感するのは自分の無力さなんだよね。なんで先輩たちみたいにできないんだろうって、そればっか考えちゃうんだ」


「君はすぐに人と比べるね。君と先輩たちでは個性も違うし勤続年数も違うんだから過度に気にしてもしょうがないよ」


ナツは呆れるように首を振る。


「前にも言っただろ? あれがあったら、これがあったらなんてないものねだりしても意味ないって。ボクたちはいま『ある』ものでいまを生きるしかないんだからさ」


「それはそうかもしれないけど、じゃあ僕にはなにが『ある』んだよ」


後半の語気が少し強くなって、そうなったことをすぐに後悔した。でも、やりきれない思いもあった。ナツに言われて前向きに自分を見てみようとして、それでも結局は自分の至らなさと直面するだけだったから。もちろんナツは悪くない。悪いのは自分だ。それで自分のペット相手に八つ当たりなんてひどく情けない話だ。

うなだれている僕に、ナツはポツリとなにかをつぶやいた。聞き取れなくて顔を上げると、ナツはもう一度、はっきりと言った。


「君にはやさしさが『ある』じゃないか」


その声はいつかのときに聞いたような優しい声で、僕の胸はドクンと強く脈打った。


「威圧する人間が許せないくらい、他人のために苦しんでしまうくらい、そしてボクをここまで健康に育ててくれるくらい、君にはやさしさが『ある』んだよ」


鼻の奥がツーンと痛むのを感じた。次の瞬間には目の前がぼやけてきて、僕はギュッと力強く目を閉じた。落ち着いてきてから目を開けると、ナツは僕の顔を見て、そんなはずはないけど、ニコリと笑っているように見えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る