第7話 君はいま、楽しいかい?

朝起きてケージを見ると、ナツはペットシーツの下にもぐっていて姿が見えなかった。昨日のことで気を悪くしてしまったのか、単に脱皮前で身体がだるいのか分からないけど、いつものようにとぐろを巻いて寝ている姿が見えないと妙に気分が落ち着かない。

ナツと話したかったけど、どう話せばいいか分からず時間もなかったので、諦めていつものようにケージに霧吹きだけして家を出た。


今週も先週に続いて大型案件がやってくる。水曜日までは先週と同じ廃水が来て、金曜日からは汚泥の大型案件に切り替わり、それが来週いっぱいまで続く予定だ。

相変わらず入荷量が多く忙しかったが、大型案件は先週の続きで要領は分かっているので迷うことはなかった。慣れに加えてサンプルの性状をメモにまとめて復習していたこともあって、ただの作業ではなくしっかり分析値を理解したうえで、現場担当者に指示を出すことができた。特に問題なく処理も終わり、この何事もなかったというのがなによりも自分を喜ばせた。


金曜日になり、入荷リストを確認すると予定通り大型案件の汚泥が組まれていた。

朝のミーティングが終わり、分析室で先輩達が作業を進める中で僕ひとりだけはずっとそわそわとしていた。いつも手助けをしてくれる一つ上の先輩が今日は体調不良で休んでいるのだ。

汚泥の性状は何度も確認して、どこに受けてどう処理するかは考えてあるが、当日に相談ができないというのはやっぱり不安が大きい。自分で見て、考えて、答えを出す。学校のテスト問題を解くのとは違う、社会人としての重みがズシッとのしかかっていた。


一台目の汚泥が来たのは昼前だった。僕はサンプルを受け取り、まずはどういう状態かを確認した。ドロドロの濃い状態なのか水分が多いのか、それだけでも処理の仕方が変わってくる。見たところ水分多めで汚泥は濃くなく、ドライバーに聞いても同じ意見だった。

状態が分かったところで次は汚泥の成分を分析機にかけて測定する。有害な成分が多いのか少ないのかでも処理の仕方は変わり、この判断が汚泥の処理で最も重要なところとなる。汚泥の成分以外にも揮発性の有害ガスが出ていないかも測定する。この二つの測定結果が出るのに少し時間がかかるので、その間に想定している処理が行えるかどうかをビーカーテストでチェックする。


約三十分後、測定結果が出て確認したが、有害な成分やガスはどちらも基準値以下だった。ビーカーテストでの処理も特に問題なく、事前の報告書と性状は一致する。

僕は分析結果と処理の仕方を課長補佐と現場担当者に報告した。両者からすぐにゴーサインが出て、無事に一台目の荷下ろしが終わった。

その後も続けて汚泥の入荷が来て、金曜日は予定通り四台で終わり、そのすべてが同じ性状だった。


すべての入荷が終わり、事務作業をしていると課長補佐から声をかけられた。


「お疲れ様。今日は大活躍だったね」


「なかなか大変でした」


僕は息を吐きながら答える。

運よくあの汚泥と他の入荷と重ならないタイミングで来てくれたおかげで、あの汚泥だけに集中して取り組むことができた。


「ひとりでこなせるようにもなったし、もう一人前だね。これからも期待してるよ」


課長補佐はそう言って僕に笑顔を向けた。

自分の身体が熱くなるのが分かった。目の奥もジーンと熱くなり、眠いふりをして乱暴に目をこすった。

いままでやってきたことは無駄じゃなかったと、苦しくても耐えて頑張ってきてよかったと、そう思えた。自分の価値を認めてもらえた気がしてうれしかった。溢れてこぼれてきそうな感情を抑えながら、僕は平静を装って「はい……!」と返事をした。



土曜日の朝、霧吹きのためにナツのケージを開けた。ナツは相変わらずペットシーツの下に潜っていたけど、どうしてもナツと話がしたくてペットシーツをめくった。

ナツはゆっくりととぐろをほどいて顔を見せた。基本的には夜行性だから朝は眠いのかもしれない。まるで寝起きの人間のようなけだるさがあるように感じた。


「ナツ、こないだはごめん。でも、僕やったよ。なんとかひとりで回せるようになったんだ」


「それは、良かったね」


ナツの声は小さくて頼りなく聞こえた。やっぱり朝だと調子が出ないのだ。


「ごめん、朝は眠いよな。また夜の餌やりのときに聞いてよ」


「いや、悪いけど脱皮前だから食欲ないんだよ」


ナツにそう言われてハッとした。

先週も同じことを言われたのだった。あの時は全身が白く濁っていたけど、いまは色の変化がおさまっていたのですっかり忘れていた。


「そうだったね。じゃあ、脱皮終わって元気になったら聞いてよ」


ナツは「ああ」と短く返事をしてから、首を少し持ち上げて僕を見た。


「ねぇ。君はいま、楽しいかい?」


「ああ!」


僕は笑顔で即答した。

ナツはやっぱり元気がないのか、「そう」とだけつぶやいてとぐろを巻いた。

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