4-1 ついに見えた! うしろの風子

 再び『うしろの風子』と話すことができるようになった、あの夜。

 あれから愛は昏睡状態に陥ったままだけど、その状態は、『死を待つ昏睡ではなく、長い睡眠がずっと続いている感じ』だとお医者さまが話していた。

 実は、風子のお父さんも、風子の状態について同じようなことを言っていた。

 頭部を強打しているけど、脳挫傷のような回復が容易じゃない損傷はなくて、他の生理機能はぜんぶ正常なのに、意識だけが戻らない状態だって。

「は? 風子の見舞いに行きたいって?」

「どっ、どうしてそんなに驚くのかしらっ」

「いや、一緒に学校へ行きながら話があるっていうから何かと思えば……。雅は風子とまったく接点なかっただろ」

「接点がなければ見舞いに行ってはいけないというの? その……、霊視よっ? 桜台風子を間近にして霊視をしたいのよ。そうすれば彼女が階段から落ちた訳が分かるかもしれないわ」

「しかし、それがもし雅が専門の妖怪変化のせいだって分かったら、それからどうするんだ?」

「それを基に、こうちゃんが犯人ではなかったと皆に知らしめるわ」

「誰がそんなの信じるんだ」

 天高く、気づけばもう十月も半ば。

 自転車を押しながら、雅と並んで歩く神社の境内。

 この境内を囲む木々たちも、もうずいぶん秋を奏で始めている。

 今度の週末は、『夏忘れ祭』だ。

 この神社で行われる、季節外れの夏祭り。

 見ると、参道の端には電源用のコードなんかが取り回されていて、普段はとても静かなこの場所も、祭の準備に向けてにわかに活気づき始めているようだ。

 雅には、まだスマートフォンの中の『うしろの風子』のことは話していない。

 いままで霊障や霊視の相談を山のように受けて来た雅だから、この不思議な現象のことを話したとしても、たぶん驚いたり恐がったりすることはないと思う。

 しかし、おそらく、話せばお祓いが必要だとか言い出して、変な儀式でこの大事な風子のスマートフォンを壊してしまうのがオチだ。

 もう少し様子を見て、最も危害が少ないと思われるタイミングで話そう。




「はぁ……、次は問題のホームルームであるな。永岡よ。大丈夫か? またブーイングの嵐になるのではなかろうか」

「大丈夫だ。それに、今日は僕のほうからみんなに話したいことがあるし」

 振り返った前席のハルダ。

 やや心配そうに眉根を寄せている。

 ハルダには、『うしろの風子』と再び話せるようになったことを、あの夜すぐに連絡した。

 週明けの今日は、久しぶりの風子との登校。

 風子は今日も元気いっぱい。

 一日中、イヤホンの奥でいろんな話をしてくれた。

 ただ、やはり自分自身でも、『うしろの風子』と『病院の風子』の関係はよく分からないらしい。

「そう言えば、雅どのが『リアル風子』の見舞いに行きたいと言ったのは本当なのであるか?」

「うん。どういう了見かよく分からないんだが」

「ううむ。雅どのはあるとき突然、訳の分からぬ儀式を始めるからな。ともすれば『リアル』の病状が悪化しかねないのである。とりあえず、放課後の『SSS』のミーティングでやんわりと説得しよう」

「その名称、意外と気に入ってるんだな。悪いけど、今日、僕は行けない。諸田さんがなんか用事があるらしくて放課後ここへ訪ねて来るんだ。そして、それが終わったらすぐ愛の病院だ」

「それなら小生も病院へ行くのである」

「残念だが家族以外は面会禁止なんだよ。それに、だれが雅の相手をするんだ? 雅はハルダが居ないと機嫌が悪くなるんだぞ?」

『そうよー。雅ちゃん、すっごくハルダのことお気に入りなんだからー』

 突然、スピーカーがオンになって入った、『うしろの風子』の合いの手。

 ハルダが「うわ」と言ってのけ反る。

「いきなり『バーチャル』が喋ると驚くのである。もう少しまろやかに入れんのか」

『なんですとー? あたしはさっきからずっとここに居たもん。それに、なに? その「リアル」とか「バーチャル」とか。なんかエッチくない?』

「そんな想像するほうがエッチなのである。しかし、永岡よ。よくそのスマートフォンを委員長の御父上が貸してくれたな」

「ファイルのコピーをしたいと言ったら貸してくれたんだ」

「システムファイルだな?」

「うん。今度こそ、『うしろの風子』の謎を解かないと」

 意外にも、風子のお父さんはこのスマートフォンを快く貸してくれた。

 特に期限も言わず、「キミが持っていてくれれば、きっと風子も喜ぶと思う」と言って。

「そうだ、風子。一応、見られたら嫌なとこ教えといて。そこは除外してコピーするから」

『え? ぜんぶ見ていいけど』

「でも、その……、女子的にマズイものだってあるだろ」

『ううん。ハルダには嫌だけどぉ、光平にはぜーんぶ見せちゃう♡』

「んんっ、ばか。変な言い方するな」

『うふっ』

「なんなのだ? この意外に高い破壊力はっ!」

『ハルダ、顔が真っ赤』

「うるさいっ、男の純情をもてあそぶでないっ! とにかく、永岡はとりあえずは物理室に来るのである」

『あっ、先生来たよ』

 文化祭まで、約三週間。

 今日のロングホームルームは、因縁の『文化祭のクラス参加』の話合いだ。

 副委員長の僕が司会では話合いにならないのは目に見えているけど、とりあえず役職なので仕方ない。

 それに、今日はみんなに話したいことがある。

 それを話すだけ話して、あとは文化委員長に司会を代わってもらおう。

 しんとした教室。

 僕は、ゆっくりと壇上へ上がった。

「みなさん、九月始めのホームルームではうまく話ができなくてすみませんでした」

 僕のひと言めを聞いて、ざわりと揺らいだみんな。

「あのとき、桜台委員長の演劇の意見に賛同した人もたくさん居たようですが、今日はそれも含めて、もう一度、みんなで話し合いたいと思います。協力をお願いします」

 ひそひそと話す声と、なにか稀有なものを見るような目が一斉に僕に向けられたあと、まだ意見を求めてもいないのに誰とは無く声が上がった。

「リーダーの風子ちゃんが入院しているのに、クラス参加もなにもないような気がするけど」

「気分のらないよねー」

「やるにしても誰がリーダーやんの? アンタ?」

 先生は教室の一番後ろに椅子を据えて、僕らの様子をじっとうかがっていた。

 敢えて、なにも介入しないつもりらしい。

「そのことなんだけど……、僕は……、クラス参加はやったほうがいいと思う」

 はぁ? という、みんなの顔。

 そうだろう。

 こんなこと、いままでの僕なら絶対に言わないことだろうから。

 でも……、仕方ない。

 すべて、いままでの積み重ね。

 自分勝手な価値観で他人を値踏みして、その真の姿を知ろうともせずに断罪してきたことへの罰だ。

 いつか、風子が教えてくれた。

 人でも、物でも、ただ表面に見えるものだけでは真の姿なんて分からない。

 そして、本当になにかを大切に思う気持ちも、うわだけでは絶対に伝わらない。

 風子のためにできること。

 僕のことを分かってもらえるように、ちゃんと心を込めて話すこと。

 想いが正しく伝わるように、みんなの想いを正しく理解できるように。

 僕のことを大切に思ってくれていた風子のために、いま僕ができることはこれしかない。

「みんな、ごめん。上手く伝わらないかも知れないけど、ちょっと聞いて」

 僕の呼び掛けに、喧騒が次第に収まる。

「風子は、演劇やりたいって言ってたよね。あと三週間くらいしかないから、演劇をやるとなると、正直、準備するのはすごく大変だと思う」

 そこまで言ったところで、僕はじわりと教壇から下りた。

 そして、みんなと同じ高さに立って、それから真っ直ぐに下ろした拳にギュッと力を込めた。

「でも、風子が元気になってここに戻って来たとき、風子のことを気遣ってクラス参加をやらなかったって聞いたら……、たぶん風子はすごく悲しむと思う」

「風子?」

「ちょっと、なに馴れ馴れしく呼び捨てしてんのよ」

 眉根を寄せる女子集団。

 少し視線を外すと、ハルダだけがニヤニヤと笑っている。

「だから、演劇でなくてもいい。合唱でも、作文展でも、なんでもいい。この文化祭のクラス参加は、ちゃんと風子に喜んでもらえるものにしたいんだ」

 いよいよ、はぁ? となったみんな。

『ええーっと、光平? あの、あたし、ちょっと嬉しいかも』

 じんわりと聞こえた、イヤホンの中の風子のつぶやき。

 みんなが顔を見合わせている中、一番後ろで腕組みをしていた先生が立ち上がった。

「永岡、それじゃあ――」

「あのっ、困ります! いまホームルーム中ですっ!」

「ホームルームっ? いいですねぇ、ちょっと話させてくださいっ!」

 先生の声に重なって突然響いた、なにやら言い争うような声。

 みんなが一斉に廊下のほうへ目をやった。

 僕も思わず顔を向ける。

「おおー! 居た居た! こーへいくーん!」

 うわ、諸田さんっ?

 事務の先生に引き留められながら現れたのは、グレーのパンツスーツ姿の、二日市警察署生活安全課少年係、諸田桃子巡査部長。

 なぜか満面の笑みで「よっ!」と手を挙げている。

 来るのは放課後じゃなかったのか?

「ど……、どうしたんですか? 諸田さん」

「もうねー、嬉しくて我慢できなかったのよぉ! ちょっとー、みんなも聞いて聞いてぇー!」

 僕のとなりまでドカドカと教室に入って来た諸田さんを見て、完全にみんなドン引きしている。

「あのねぇ? 桜台さんのお父さんがね、うちの課長宛てに手紙を送ってくれてさー。例の件で!」

「風子のお父さんが?」

「そうなのよぉ! また、その手紙の内容が素晴らしくってねっ? 『風子の彼氏はそんなことをする子じゃないっ!』って感じで」

「彼氏?」

「そうそう!」

「誰が?」

「光平くんが」

 は?

 なんのことだか、さっぱり分からない。

「でね? だから下見係長に言ってやったのよ! ほらねっ? 桜台さんのこと大好きな光平くんが、あんなことするわけ無いって最初から言ってたでしょー? って」

 ドサッ。

 どこかで誰かの通学カバンがフックから落ちる音がした。

 固まる教室。

 若宮先生も教室の一番後ろで立ったまま、なにやら保健体育の骨格標本みたいになっている。

 どういうことだ?

 なんか、話がずいぶん飛躍している……。

 すると突然、耳の奥でその静寂を破るガリガリという音が響いた。

『な、な、なんですとぉぉぉー? 光平があたしのかかか、彼氏ぃーっ?』

「うわっ! 風子、突然叫ぶなっ」

『おっ、お父さん、光平のこと気に入ってくれたんだぁぁぁー! 嬉しいーっ!』

 ニヤリと笑う諸田さん。

「そうしたらね? 嫌がらせみたいに光平くんにしつこくしてたことがバレて、係長がめっちゃ課長から怒られてねぇー。てへっ」

 てへっ、じゃないですよ、諸田さん。

 もしかして、なにか風子のお父さんに吹き込んだでしょ。

 ふふんっと鼻を鳴らしたあと、両手を頬に当ててもっとニコニコ顔になった諸田さんは超ゴキゲンの様子。

「光平くん、桜台さんのお父さんの手紙に書いてあったわ。『なんであんな優しい子を疑うんだ。しかもその永岡くんが階段から落とされるなんて許せない。もうそんな目に遭うのは風子だけでたくさんだ』ってね」

 風子のお父さんが、そんなことを言ってくれるなんて。 

 ふと見ると、さっきまでニヤニヤ顔だったハルダが、今度は満面のニヤケづらで肩を震わせている。

「永岡よ。ついにお主らのラブラブぶりがバレてしまったな。愛する彼女を突き落したりするはずないと、もっと早く公言すればよかったのであるっ!」

「ちょっと待てハラダ」

「私はハラダではな――」

 その瞬間、突然、さらに教室が固まった。

「……ええっ? それって……」

「……ということは、あの桜台さんに対する悪態は……」

「……ツン……デレ……」

 へんなどよめきとともに、みんなが顔を見合わせている。

 そして、数秒の沈黙のあと……。

「きゃぁぁぁぁーーーっ!」

 一斉に立ち上がったみんな。

 教室がひっくり返るほどの絶叫が、廊下へ飛び出て校舎じゅうに響き渡った。

「おおお、お父さんにも認められている仲なのっ?」

「もう! あんたの言い方って、風子を嫌っているようにしか見えなかったじゃん!」

「ごめんねっ? 辛かったよねっ? 愛する彼女が大ケガとか」

「そっかぁー。それで風子ちゃん、永岡くんを副委員長に指名したんだぁー」

「いやー、永岡がそんなことするはずないって思ってたんだよ。いやマジでっ」

 なんなんだ。

 となりを見ると、そこにはちょっと舌を出してウインクする諸田さん。

【永岡光平は、実はその父親にも認められている桜台風子の彼氏だった!】

 その大スクープはあっという間に燎原の火のごとく学校じゅうに拡がった。

 そして、まあ、なんということでしょう。

 永岡光平犯人説は、まるでウソのようにあっという間に収束してしまったのです。

 ほんと、笑うに笑えない。

 こんな上辺の情報だけであれだけの非難や蔑視が解消してしまうってことは、それを口にしていたヤツらからすれば、もともとその程度のバブルなゴシップだったってことだ。

 でも本当に怖いのは、そのバブルなゴシップが、ときにその渦中の人を再起不能にしてしまうこと。

 大衆の風評や上辺だけの評価なんて蓋を開ければその程度のものが大半なのに、その評価はときとしてコントロール不能の濁流みたいになって、その人を徹底的に痛めつけてしまうことがある。

 僕は、本当に僕のことを理解してくれている人たちに助けられたんだ。

 もし彼らが居なかったら……、もし『うしろの風子』が居なかったら……、いま僕はここでこうして居られなかったかもしれない。 

 そして、心から人を理解することの難しさと大切さを、一生知ることができずに居たかもしれない。




 結局、文化祭のクラス参加は、『参加する』という結論で終わった。

 そして、週明けまでに、なんの発表や展示をやるか、それぞれが考えてくるということに。

 諸田さんの乱入のお陰で悪意ある噂は落ち着いたけど、簡単には落ち着いてくれないヤツが若干一名……。

「こうちゃんっ? どうしてこうちゃんが桜台風子と婚約しているって話がでて来たのかしらっ? 火のないところに煙は立たないというでしょうっ? 正直に話しなさいっ」

「婚約? どこからどう伝わればそうなるんだ」

 放課後の物理室。

 机の上に腰掛けた雅は、なにやらものすごくご機嫌ナナメの様子。

「ハルダっ、コーヒーっ!」

「今日は曇っておるので、無理なのである」

 ハルダが眉根を寄せると、雅のとなりで同じように机に座っている彼女がふにゃりとかわいい声を上げた。

「あー、ハルダくん、私もー。お砂糖入れてねー」

「今日は無理だと言っておるであろう。だいたい、なぜ諸田女史がここに居るのだ」

「いやー、今日は当直明けで昼にはもう仕事終わってたしー」

「そういうことではないのである」

 教室で爆弾を投下した諸田さんは、なぜかそのまま居座り、その後、この放課後の物理室にまでついて来てしまった。

 よほどヒマらしい。

「まあよい。しかしな、諸田女史。本日のハルダコーヒーは悪天候のため閉店中なのである。ちなみにシュガーの買い置きもない」

「あら、コーヒー淹れるのにお天気が関係あるのね。それならお姉さんがお金出してあげるから、みんなのぶんも一緒に自販機で買っておいで?」

「なんと、さすがは社会人である! 資金潤沢!」

 軍資金を受け取り、なぜかホクホク顔で物理室を出てゆくハルダ。

 日ごろから雅のパシリを喜んでやっているせいか、どうやら自分が使われていることに気が付いていないらしい。

「ところで、こうちゃん? 桜台風子との仲は本当のところどうなのかしら」

「しつこいな。さっき諸田さんが説明しただろ。だいたい、風子とはクラス委員の仕事以外で接点はなかったんだ」

「そう……」

 その雅の怪訝な顔を、諸田さんがニヤリと覗き見上げる。

「ところで御笠さん、どうしてそんなに気になるの? 光平くんはただの幼馴染みだって言ってなかったっけ?」

「諸田巡査部長、あなたは一体なにを期待しているのかしら。わたくしはそんな安い色恋沙汰で心を惑わされるような未熟者ではないわ。ただ、わたくしは――」

「ただ……、なに?」

「そっ、そんな顔で見つめないでくださるっ? わたくしはただ、小さいころから面倒をみてきたこうちゃんが、そのっ……、桜台風子のワガママに振り回されているのが、我慢できなくて……」

「ふうん」

 さらにニヤリと口角を上げた諸田さんが、ゆっくりと雅の頭に手を置いた。

 そして、その手が柔らかく長い髪を撫でる。

「御笠さん、本当に光平くんが好きなのね」

「ちょっ……、子どものように頭を撫でないでくださるっ? 好きとか、そういう話ではないと言っているでしょうっ? わたくしが面倒をみてきたこうちゃんが――」

 なんだって?

 それは聞き捨てならない。

「雅、ちょっと待て。いつ雅が僕の面倒をみてたっていうんだ?」

「はぁ? 小さいときからずっとじゃない! わたくしは――」

「勝手なこと言うな。確かに小さいころから仲良くはしていたけど、僕がずっと雅の加護を受けてきたような言い方はおかしいだろ。事実に反する!」

「なんですって? わたくしはずっとこうちゃんを――」

 そのときだ。

 バチバチバチっ!

 あ、これはいつもの……。

『こーうへーい……、そんな言い方は……、雅ちゃんが……』

 ポケットの中の風子のスマートフォン。

 突然、強烈に熱を持って、勝手にスピーカーから音が……。

「風子、落ち着け。まだ、ふたりには話してないんだから、ちゃんと説明をしてから――」

『そんな言い方はっ、雅ちゃんがっ、かわいそうっ!』

 ガリガリガリとスマートフォンが唸る音とともに、ドドンと響いた『うしろの風子』の大きな声。

「熱っ、うわっ」

 あまりの熱さに、思わずスマートフォンをポケットから取り出した。

『光平っ? 雅ちゃんは、光平のことを本当に大切に想ってくれてるんだよっ? そりゃー、あたしが迷惑掛けたのが一番悪かったかもしれないけどぉ』

「いや、雅は僕のことを暇つぶしの道具みたいに思ってるんだ。風子のことだって、自分の所有物を勝手に使われたって感じの――」

 自撮りになったスマートフォンに向かって喋る僕。

 ハッ!

 急に我に返って周りを見回すと、目が点になっている雅と諸田さん。

 その向こうの廊下を、数本の缶コーヒーを抱えたハルダが鼻歌を歌いながら戻ってきている。

「あの……、光平くん、それ、誰と話しているの? いま『風子』って……」

「これは、その……、なんというか」

『光平っ、雅ちゃんに謝って! あたしも光平を振り回したこと雅ちゃんに謝るからっ』

「風子っ、ちょっと静かにしてろ」

 再び僕が『風子』と言う名前を口にしたのを聞いて、バッと立ち上がった諸田さんが横から画面を覗き込んだ。

「え? これ、どういうこと?」

「えっと……、その、これは」

『あっ、諸田部長さん、初めまして!』

「桜台さんが映ってる。すごい! CG?」

『諸田さん! まちかど広場公園で光平を庇ってくれてありがとっ! あたしっ、とっても嬉しかったっ!』

「へっ?」

 そのときだ。

 ハッとした雅。

 突然、机から飛び降りて荒々しくサブバッグに手を突っ込んだかと思うと、雅はすぐにそれをバサリと振りかざした。

 取り出したのは、お祓いに使う『祓串』。

「ちょっとっ、こうちゃん! そこにお座りなさいっ!」

「どうしたんだ? なにを慌てて……」

「いいからっ! その椅子に座るのよっ!」

 雅は、目をくるくるさせながら、握りしめた祓串を震わせている。

「どうして……、どうしてなにも感じなかったのかしら……」

『えーっと、雅……ちゃん? あたし、桜台風子。初めてお話するよね』

 スマートフォンから漏れる風子の声に眉を寄せながら、雅が椅子に座った僕にゆっくりと祓串を向けた。

「ハルダ、あなたの仏道の力を借りるわっ。わたくしの背中に手を添えなさいっ!」

「なんなのだ。人を追加電力のように言いおって……と、これは、その……、ブラのフォックでは……。なんとっ、雅どのに必要なのかっ?」

「お黙りなさいっ!」

 ハルダが背中を支えると、雅はバサッと祓串を上下に振って、それからムニョムニョと呪文のようなものを唱え始めた。

 僕はまったく信じていないんだけど。

「おお、永岡よ。これは……すごいぞ? 諸田女史にも見えますかな?」

「え、ええ……。見えるわ……。御笠さん、これって、どういうことなの?」

 雅は諸田さんの問いにすぐには答えず、「しーっ」っと唇の前に人差し指を立てて、それからゆっくりと祓串を水平に突き出した。

 大きく吸い込まれる息。

 次にその息を吐きながら、じわりと雅が僕に近づく。

 僕の顔に向けられた祓串。

 そして、それがゆっくりと僕の顔の前を通り過ぎて、僕の左後ろの空間へと突きつけられた。

「桜台風子……、あなたはそんなところでなにをしているのかしら」

 画面の中の風子が、ハッと目を大きくした。

『み、雅ちゃん、あたしが見えるのっ?』

「馴れ馴れしく呼ばないでほしいわ。それにしても、このわたくしでさえ意識を集中して心の眼を凝らさなければ見えないなんて……」

『えっと……、その……、雅ちゃん、ごめんなさいっ……。あたしが光平を振り回してばかりいたから、怒ってるんだよね』

「桜台風子、あなた、道に迷っているわね?」

『えっとー、そうなのかも。おんなじことを愛ちゃんも言ってた』

「愛が同じことを? そう……、愛にもあなたが見えたということならば、やはりあなたは……」

 スマートフォンの画面には、僕越しの雅に瞳を向けている風子。

 僕の前には、僕の左後ろへ睨みを利かせている雅。

 そして、その背後には、あんぐりと口を開けているハルダと諸田さん。

 どうしたんだ。

 三人に『うしろの風子』が見えているのか?

「雅、どういうことだ?」

「こうちゃん、あなた、その後ろに居る桜台風子とずっと話をしていたのね」

「永岡よ。ハルダにも見えるぞ? お主の左後ろでモヤに映るように浮かび上がっている『バーチャル風子』が」

『もうっ、また「バーチャル」って言ったっ!』

「ちょっと御笠さん、なにがどうなってるの? 私には意味が……」

 溜息をつきながら、ゆっくりと瞼を閉じた雅。

 続けて、なにやら呪文のようなものを唱えるその声がかすかに聞こえ始めた。

『あー、あれ? あー』 

 なにやら、突然、ふらふらし始めた画面の中の風子。

「風子、どうした?」

『光平……、なんか……急に寒くなって、頭がぼーっと……』

 雅がゆっくりと目を開ける。

「あまり反応はよくないけど……、呪文は少し効くみたいだわ。やはり……、そのこうちゃんの後ろの桜台風子は……」

『あー、こーへーい、もうだめー』

「雅、その変な呪文やめてくれ。風子の様子が変だ」

「こうちゃん……、あなた、その後ろの桜台風子が何者なのか、まだ分かっていないのね。ハルダ、もう手を離していいわ」

 そう言って、小さく祓串を振った雅。

 すると同時にハルダと諸田さんが目を丸くした。

「おお、見えなくなったのである」

「桜台さんが、消えた……」

 雅は祓串をサブバッグに戻すと、それからハルダに「コーヒー」と言ってその小さな手を差し出した。

 放心していたハルダが、我に返って抱えていた缶コーヒーの一本を雅に手渡す。

「こうちゃん、よくお聞きなさい。いまあなたの後ろに居る桜台風子は……」

 もう一度、机に腰掛けた雅が、やや瞳を泳がせながら僕らにその事実を告げた。

「その桜台風子は……、おそらく『いきりょう』……」

 生霊?

 まったく以って予想していなかった言葉。

「それも……、『魂の通り道』の途中で道に迷っている、少々厄介な生霊ね」

「しかし、雅どの。生霊とは深い怨念によって人の魂が生きながらにして恨みの先に取り憑くものであろう? 風子どのが永岡に恨みを持っていたとでも言うのであるか?」

「人は見かけでは分からないものよ? 桜台風子が心の奥底ではこうちゃんに深い恨みを持っていたとしても、それはおかしいことではないわ」

 風子が、僕に恨みを?

 そんなことあるか。

「ただ、間違いなく言えるのは、いまこうちゃんの後ろに居る桜台風子は、病院の桜台風子から魂が抜け出て来たもの……、ということよ。おそらくはその魂が死の世界へと至る途中、何らかの理由で道に迷い……、そしてこうちゃんの後ろへ……」

 物理科学信奉者の僕には、まったく理解できないとんでもない荒唐無稽さ。

 しかし、雅の目は真剣そのものだ。

 じゃあ、どうすればいいんだ。

 死へ向かう途中ということは、無理やり僕の後ろから離したら、風子は死んでしまうっていうのか?

 なぜか、雅は下を向いていた。

 みんな、ひと言も発しない。

 窓の外では、色づき始めた木々に囲まれた校庭に、やや生気を失くした夕暮れがじわりと広がっていた。

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