3-3 泣きべそ光平と『うしろの風子』

 大好きな光平兄さんへ

 

 この手紙を兄さんが読んでいるとき、もしかしたら愛はもう神さまのところへ召されているかもしれません。

 ずっとずっと、愛を大切にしてくれてありがとう。

 愛は兄さんが大好きです。

 どんなに学校で嫌なことがあって気持ちが落ち込んでいても、絶対に愛には笑顔で接してくれた兄さん。

 兄さんの笑顔は、本当に素敵です。

 愛は、兄さんの妹としてこの世に遣わしてくださった神さまに、心から感謝しています。

 ただ、愛は少しだけ兄さんのことが心配です。

 それは、兄さんのその素敵な笑顔が愛だけにしか向けられていないこと。

 兄さんの笑顔を待っている人は、もっともっとたくさん居ます。

 その素敵な笑顔を、ちゃんとその人たちに向けてあげてほしいな。

 そして、その心からの兄さんの笑顔を一番待っているのは、風子さんです。

 たぶん風子さんは、神さまがお遣わしになった兄さんにとって欠けがえのない人。

 でも、その風子さんはいま、どんなに兄さんのことを大切に思っても、自分ではどうすることもできないでいます。

 病院で寝ている風子さんと、兄さんの後ろにいる風子さんは、同じ風子さんです。

 どうか、兄さんが助けてあげてください。

 そのときが来たらきっと分かります。

 必ず、風子さんの名前を呼んであげてください。

 ちょっぴり寂しいけど、愛は少しだけ先に神さまのところへ行って、またみんなと会えるのを楽しみにして待っていますね。

 本当に、本当にありがとう。

                                        愛




 病院まであと少しというとき、重く雲が垂れ込めた空が生温かい雨を降らせ始めた。

 秋らしくない淀んだ雫が、制服のシャツにポツポツと吸い込まれる。

 愛の病院。

 この病院は、この地区で一番大きな総合病院だ。

 愛は一年の大半をここで過ごし、いつ突然やってくるか分からない神さまの遣いを、感謝しながら待っている。

 『病院の風子』が入院しているのも、この病院。

 エントランスへ入ると、以前、風子のお母さんに投げられた言葉が胸に蘇る。

 ここ数日、愛はベッドから起き上がれずにいた。

 先週から母さんが病室に泊まり込んでいる。

 その母さんが、今朝、愛の様子がおかしいことに気が付いたそうだ。

 いつもならどんなに辛くても、一度は目を覚まして母さんにおはようを言うのに、今日はずっと眠ったまま。

 呼び掛けにもまったく応じなかったらしい。

 大学で神学の講義をしていた父さんは、その連絡を受けてすぐ病院へ駆けつけ、お医者さまと話したあと僕へ連絡をくれたそうだ。

 ICU前の薄いグリーンの壁。

 待つ者の心を落ち着けるための色だけど、いまの僕にはそれがわざとらしい安い茶番のように思えて仕方がない。

 待機スペースのソファーで、僕のとなりに腰掛けている父さんが一通の手紙を僕に手渡した。

 真っ白な封筒。

 愛が、僕に宛てて書いてくれた手紙。

 表には、とても愛らしい文字で『光平兄さんへ』と書かれている。 

「父さん、これは?」

「この前、帰宅した日の晩、寝る前に愛が母さんに預けたそうだ。父さんと母さんにも一通ずつ」

「そう。愛はどうなの?」

「眠っているよ」 

「悠長な言い方だね」

 僕はそう無味に言って、愛の手紙を通学バッグへと大事にしまった。

「読まないのか?」

「いまは読みたくない。母さんは?」

「病室に居させている」

 チラリと腕時計へ目をやった父さん。

 それからしばらくの沈黙があって、父さんはなんとも淡々と僕へ言葉を投げた。

「ドクターの話では、この状態がいつまで続くのかは分からないそうだ」

「すぐには死んでしまわないってこと?」

「いや、そうじゃない。その死期の予測がつかないってことらしい。今夜、突然亡くなるかもしれないし、それが数か月後になるかもしれない……と、いうことだ」

 ソファーの背もたれに背中を預けて、長い通路の向こうへ目をやった父さん。

 なんだ?

 その他人事のような顔は。

 実の娘の命の灯火がいつ消えてもおかしくないってときなのに。

「父さん……、ずいぶん落ち着いてるけどさ、宗教家ってみんなそうなの? なんともないの?」

 すこしだけ肩に力を込めた父さんは小さな溜息をひとつついて、それからゆっくりと僕へ瞳を向けた。

「いいか? 光平。すべて……、神のおぼしだ」

 また神さまか……。

 神さまが僕らのためにいったいなにをしてくれたっていうんだ。

 僕だって、頭では分かっている。

 それがどうしようもないことで、ここで嘆いても、憤ってもなんの解決にもならないことを、僕だってちゃんと分かっている。

 でも……、それが娘の死を前にした父親の言うことか。

 牧師だって、神に仕える者である前にひとりの人間じゃないのか。

 僕はどうしても我慢できなくて、小さく舌打ちをして立ち上がった。

「神さまがどうしたって? 本当に神さまなんてヤツが居るんなら、僕はそいつを恨むよ。こんな人間の感情すらちゃんと持てない父親の息子として遣わしたんだから」

「光平」

 低い声。

 振り返り、父さんを見下ろす。

 思わず息が止まった。

 僕を見上げ、真っ直ぐに僕へ向けられた父さんの瞳。

 生まれて初めて見た、烈火のように激しい怒りをはらんだ、その瞳。

 父さんの肩は小刻みに震えていた。

 そして雫をいっぱいに湛えた父さんの瞳が、さらに鋭く僕を捉えた。

「神を罵倒することは許さん。神を恨む気持ちを易々と口にできるお前に、私の信仰など理解できるものか。私がこれを耐えねば、愛は幸せに神さまのもとへ旅立てないのだ」

 そう言って、ぎゅっと口を結んでうな垂れた父さん。

 待機スペースの端に置かれた大きなホールクロックが、かすかに針の音を立てていた。

 そうだ。

 父さんも人間だ。

 自分の娘の命がこの世から消えようとしているのに、平然としていられるはずがない。

 人は見かけだけでは分からない。

 それは、ついこの前、風子から教えてもらったじゃないか。

 父さんは、神さまを恨みたくなる気持ちを、いまにもその口を突いて出そうな罵りを、聖書の言葉を伝える牧師として必死に耐えているんだ。

「ごめん……、父さん」

 僕のその言葉が、父さんに聞こえたかどうかは分からない。

 でも、僕はもうどうしてもそこに居られなくなって、それからぎゅっと肩を上げて駆け出した。

 流れ去る、通路の窓。

 その窓越しにのしかかる、無言の鉛色の空。

 窓ガラスには、幾条もの雨の斜線が走っていた。

 僕は、いったいなにをしているんだ。

 父さん母さんの打ちひしがれた気持ちを一番理解して、それを少しでも和らげてあげなければいけない立場なのに。

 本当に情けない。

 ふと、風子の笑顔が脳裏に浮かんだ。

 たくさんの非難にさらされている僕を、ずっと気遣ってくれていた風子。

 その風子の気持ちを、僕は少しでも理解しようとしただろうか。

 僕はこんな思いを、無意識のうちにいろんな人にさせてしまっていたんだ。

 風子に会いたい。

 会ってちゃんと謝りたい。

 目に見えるものだけですべてを分かった気になっていた、自分の愚かさを。

 気づくと、僕は救急棟の通路を走り切って、一番奥の病棟の誰も居ない自動販売機コーナーにたどり着いていた。

 ここは、『病院の風子』の病室がある病棟だ。

 切れた息が徐々に戻る。

 自動販売機に手をついてがりりと奥歯を噛んだあと、小さく頭を振って冷たい缶コーヒーを一本買った。

 ごくごくと喉を通るコーヒー。

 一気に飲み干して、僕はその硬いスチール缶をめいっぱい握り込んだ。

 愛のところへ戻ろう。

 そして、もう一度きちんと父さんに謝ろう。

 そう思いながら、そのスチール缶をそっとダストボックスへ差し入れたとき、通路の向こうで声がした。

 男性ふたりが話す声。

 だんだんとその声が近くなると、その片方の声に異様な深い感を覚えた。

 聞き覚えのある、その野太い粗野な口調。

 すぐにその声は、通路の角から真っ直ぐに僕へ届いた。

「あ? お前、なんでここに居るんだ?」

 くたびれたベージュ色のスーツ。

 への字の口がぽかんと開いて、眉根が寄ったその目が僕を睨んだ。

 下見警部補だ。

 相変わらずの下品な物言い。

 もうひとりの男性は知らない。

「はぁ、こんなところでお前に会うとはなぁ」

「なんか用ですか? 特に用がないのなら話し掛けないでもらえますか」

「相変わらずナメた物の言い方だな。お前、妹が死にかけてるんだってな。まぁ、ぜんぶお前のせいなんだから、しっかり後悔するんだな」

「僕のせい? どういう意味ですか?」

「お前がなんでもちゃんと正直に言わないから、バチが当たってるんだ」

 グッと拳を握って、僕は思わず出そうになった大声を飲み込んだ。

 こんなヤツになにを言っても無駄だ。

 変に絡んで、また諸田さんに迷惑を掛けてもいけないし。

 下見警部補へ向けた鋭い眼光をすっと外すと、僕はゆっくりと背中を向けた。 

「お? なんだ、逃げるのか。まぁ、図星を言われて――」

 そう言って下見警部補が前傾姿勢になって踏み出そうとしたとき、それまで黙っていた後ろの紳士が突然声を上げた。

「下見さん、相手は少年ですよ? そんな言い方はいかがなものですかね」

 思わず振り返る。

 僕の父さんと同じくらいの年齢。

 質のいい紺色のカッターシャツに、グレーのスラックスを履いている。

 そして、やや怪訝な瞳を下見警部補へ向けたその紳士は、それから真っ直ぐに僕へとその澄んだ瞳を向けた。

 目が合う。

 一秒、二秒と向かい合った無言が過ぎると、その紳士は僕から目を離さずに、横の下見警部補にその問いを投げた。

「係長さん、この子は誰です?」

「あ、そういえば、顔はご存知なかったんですよね。これが……、『あの』永岡光平です」

「ほう……、この子が、『あの』永岡くん……」

 さらに紳士の瞳がじっと僕を見つめた。

 その顔を見てニヤリと笑った下見警部補が、ぐっと前のめりになって言い放つ。

「おい、永岡。この人はな、桜台風子さんのお父さんだ。しっかり頭を下げろ!」

 風子の……、お父さん?

 ふと、窓の外の雨音が少し和らぎ、後ろのずっと遠くで外来受付の女性が誰かの名前を呼ぶ声が聞こえた。

 紳士は、まだじっと僕を見ている。

 思わず、無言で小さく頭を下げた。

 すると、どうしたことだろう。

 風子のお父さんは、睨みもせず、罵倒もせず、一度ゆっくりと瞼を閉じて、それから再びじわりとその瞳を僕へ向けた。

 ゆっくりと、その口角が上がる。

「そうか……。キミが、『あの』永岡光平くんだったのか。そうかそうか」

 まるでケラケラと笑い出すかのような、その表情。

 どうしたんだ。

「下見係長さん……、あなたがずっと話している容疑者は、『この子』のことですか?」

「え? あ、そんな、本人の前で――」

「――そうだとしたら……、彼は違います」

「え?」

「あなたが仰る、風子を階段から突き落とした犯人が『この子』だというのなら、彼は犯人じゃないと申し上げているんです」

「あの……、でも桜台さんは、いま永岡のことは知らないと……」

「はい。実は、私は『永岡光平』という生徒がどんな顔をしているかは知りませんが、『この子』については、その顔も、そしてどんな子かも、とてもよく知っているんです」

「は?」

 どういうことだろう。

 目を白黒させている下見警部補を横目に、風子のお父さんがゆっくりと歩み出て僕のとなりに並んだ。

 そして、僕の後ろから両肩に手を置くと、お父さんはなんとも優しい声で僕に話し掛けた。

「キミ、真っ白なスマートフォンを持っているだろう?」

「え? あ、はい。いまは修理に出してますけど……」

「じゃぁ、間違いない。下見係長さん、とにかく、あなたが追っている犯人は、『この子』ではないですよ? 私が保証します」

「いや……、あのっ、桜台さんっ?」

「永岡くん、妹さん大丈夫かい? 少しの間、離れても構わないのなら、ちょっと一緒に来てほしいんだが」

「え? は、はい」

 僕はなにが起こったのか分からないまま、ただその言葉に同意を返した。

 下見警部補は僕を睨みながら、ギュッと下唇を噛んでいる。

「下見さん、間違いなく、『この子』は違います。もう一度よく捜査をして頂けませんか? すみませんが、今日はこれで」

 そう言って、風子のお父さんは下見警部補から視線をはずして、そっと僕の背中を押した。

 下見警部補の横を通り過ぎて、数歩進んだところで背後で響いた激しいドアの音。

「私について来てくれるかい?」

 下見警部補のことなどまったく意に介さず、先へと歩み始めた風子のお父さん。

 病院の長い通路。

 ただ靴音だけが響くその通路を、僕はただただ風子のお父さんの後ろについて歩いた。

 たどり着いたのは、いつか、風子のお母さんから辛い言葉を投げられた、あの病棟。

 外を見ると、もう日が暮れて、雨の夜景がガラスに滲んでいた。

 前を行くお父さんが、顔半分振り返る。

「永岡くん、なにか飲むかい? そこに自販機があるんだが」

「い……、いえ、結構です。でも……、どうして僕のこと」

「そうだな……。何から話そうか。とりあえず、風子の顔を見てあげてくれないかい?」

 その言葉と同時に、立ち止まったお父さん。

 ドアの横には、柔らかな照明に照らされた『桜台風子』のネームプレート。

 あのときは面会謝絶で会えなくて、それからあとも風子のお母さんの一件で訪れることができなかった、この場所。

 ゆっくりとドアを開けながら、お父さんが声を投げた。

「風子? 永岡くんが来てくれたよ」

 静かな個室。

 奥の大きな窓は、まだカーテンが開いたままで、ずっと向こうまで続く窓灯りたちがプラネタリウムのように浮かび上がっていた。

「どうぞ? 入って」

 促されて足を踏み入れると、部屋の一番奥に、真っ白なシーツのベッドが見えた。

 ベッドの脇には、血圧や心拍数を測る機器。

 口につけられた透明な酸素マスクの内側を曇らせる吐息が、女の子の命がちゃんと続いていることを教えてくれていた。

 風子だ。

 スマートフォン越しでない、現実の風子。

 なにか楽しい夢でも見ているかのように、とても優しい顔をして瞳を閉じている。

「遠慮は要らない。そこに腰掛けて」

 そう言われ、僕はベッドのすぐ横に置かれた椅子にゆっくりと腰を下ろした。

 続けて、お父さんが床頭台を開けて、そこからなんとも見覚えのあるそれを取り出した。

「永岡くん、このスマートフォン、見覚えないかな」

 真っ白な、とても馴染みのあるスマートフォン。

 なぜか、ついこの前まで『うしろの風子』の笑顔を見せてくれていた、あの壊れてしまった僕のスマートフォンとまったく同じ機種、まったく同じ色のそれが、いまそこにあった。

「あの……、これは」

「これはね? 風子が使っていたスマートフォンだ。見たことないかな」

「えっと……、はい。一度も」

「そうかい? 実は、風子が高校生になってすぐどうしてもこの機種にしたいって、風子らしくないワガママを言い出してね」

 風子が使っていたスマートフォンなんて、まったく気にしたことがなかった。

 でも、どうして……。

「それで、なぜこの機種がいいのかと風子に聞いたら、『大好きな男の子とお揃いだから』と、まぁ、父親としてはとても複雑な答えが返ってきてね」

 思わず、ベッドの上の風子へ目をやった。

 お父さんは苦笑いのまま続ける。

「少し前の機種でなかなかこの色がなくて……、色違いではダメだと言うんで、ずいぶん探してやっと機種変更したんだ」

 思わず、ぎゅっと握りしめた膝の上の拳。

 ベッドの上の風子がほんの少し笑っているように見えた。

「このスマートフォンに変えた日の夜、風子はずっとニコニコしててね。ちょっと手間がかかったけど、その笑顔を見てワガママをきいてあげてよかったと、すごく親バカなことを思って……」

 そう言いながら、お父さんはそのスマートフォンの電源を入れると、小さな子どもに微笑むような柔らかな笑みを浮かべて、ゆっくりと僕へその画面を向けた。

「ちょっと、これを見てくれるかい?」

 手渡された白いスマートフォン。

 画面には、日常を写した無数の写真たち。

 そして……、そのどれにも、なぜか、なんとも無表情な僕の顔が写っていた。

「実は、風子はその大好きな男の子の話を毎日のようにしてくれていたんだ。物理で満点を獲っただとか、教室の鍵を掛け忘れたのを庇ってくれただとか」

 僕は思わずハッと顔を上げた。

 お父さんが瞳をゆらりとさせる。

「とっても優しくて、とっても頼りがいがある男の子だって、毎日毎日、その子のことを話す風子は本当に楽しそうでね」

 僕の頬を、温かな雫が伝った。

 何も言葉が出ない。

「捜査に必要だと言われて仕方なくショップでロックを解除してもらって、その中に『風子が大好きな男の子』の写真がたくさんあるのを見つけたんだ」

 僕は本当にバカだった。

 なにも見えていない、なにも分かっていない愚か者だった。

「そしてその男の子は、いま私の目の前に居る。キミが永岡光平くんだというのなら、永岡光平という男の子が風子を突き落としたりするはずがない」

 頬を伝った雫が、握った手の甲にポツリと落ちた。

 もう一度、ゆっくりとベッドの上の風子へ目をやった。

 風子の想い。

 ずっとずっと、風子は僕を想ってくれていた。

 目の前でベッドに横たわる風子は、いまその想いを口にすることができない。

 もしかしたら、もう口にすることができないままかもしれない。

 僕はそんな彼女の想いを、いままでずっと踏みにじって……、ひとり涼しい顔をしていたんだ。

「……あの、すみません。少しの間だけ、風子とふたりきりにしてもらってもいいですか?」

「……うん。風子も、きっと喜ぶと思う」

 優しく微笑んだお父さん。

 そしてゆっくりと立ち上がると、お父さんは外で待っていると言って静かに部屋を後にした。

 しんと静まった病室。

 風子の枕元に真っ白なスマートフォンをそっと置くと、僕はシーツの上に出ている風子のその手にゆっくりと手を重ねた。

 温かい。

 風子はちゃんと生きている。

 その顔を覗き込むと、風子がなんだか笑っているように見えた。

 もっとたくさん、風子の笑顔を見ておけばよかった。

 もっとたくさん、風子の優しい声を聞いておけばよかった。

 こんなにも僕のそばに居てくれたのに。

 こんなにも僕のことを想ってくれていたのに。

 僕はなにひとつ風子に応えてあげられないまま、その想いを大切にしてあげられないまま、ただ彼女のことを誤解し続けていた。

 ぽろぽろとシーツに雫が落ちる。

「風子、お前、こんなかわいい顔してたんだな……」

 僕はゆっくりと風子の肩口に額をつけて、漏れ出る声を飲み込んだ。

「風子……、ごめん。本当に、ごめん……」

 届かない言葉だと分かっているのに、僕は何度も何度もそう呟いた。

 どれくらいそうしていただろう。

 ふと気づくと、窓の外の雨音がやんでいた。

 とても愛らしい寝顔。

 風子の寝顔を見て、正直にそう思った。

 そのときだ。

 どこからか、聞き覚えのある音がかすかに届いた。

 プチプチと、電気回路がショートするような雑音。

 思わず顔を上げる。

 すっと周りを見回すと、その音がとても近くで鳴っていることに気が付いた。

 風子の枕元。

 僕とお揃いの真っ白なスマートフォン。

 耳を澄ますと、そのスマートフォンのスピーカーがごくわずかに音を立てていた。

 その瞬間、消えていた画面がふわりと明るくなった。

 僕はなにも操作していない。

 ひとりでに画面がカメラに切り替わって、ガリガリとスピーカーから音が鳴っている。

 ハッとした。

「風子っ?」

 思わず手に取った。

 もしかして、もしかして……。

 風子に……、会いたい。

 自撮りモードのカメラには、LED照明が放つ真っ白な光がふわりと映っている。

 大粒の涙がぼろぼろと落ちた。

「神さま……、お願いします。風子に会わせてください……。風子と話せるのなら、なんでも……、なんでもいたします……」

 口元がくしゃくしゃになって、無意識にそんな言葉が口を突いた。

 温かなスマートフォン。

 そして僕は大きく息を吸って、それからゆっくりとそれを傾けた。

 僕の、後ろ。

『光平……?』

 居た。

 雫でぼやけた視界の先、画面にふわりと映った、その愛らしい顔。

 そこに映し出されていたのは、雫でいっぱいになった瞳をキラキラさせている、『うしろの風子』。

 思わず笑みが出た。

「風子? そんなとこで、なにしてるんだ?」

『なんですと? 泣きべそ光平のくせに』

 スピーカーから聞こえた優しい声。

 僕はこのとき、初めて神さまに感謝した。

 素直に、そして心から、その愛らしい風子の笑顔に再び会えたことに感謝したんだ。

「あはは。風子だって泣いてるじゃないか」

『いーの。だって嬉しいんだもん』

 心からこんなふうに笑ったのは、いったい何年ぶりだろう。

『光平の笑顔、とっても素敵だよ?』

「ありがとう。風子には負けるけどな」

『光平、あたしのこと「こんなかわいい顔してたんだな」って言ってくれたもんね?』

「え? 聞いてたのか?」

『ずーっと聞いてたよ?』

「忘れてくれ」

『忘れない。ぜーったい忘れてあげない』

 愛らしい笑顔、優しい声。

 神さまが僕に、もう一度会うことを許してくれた、『うしろの風子』。

 謎はまったく解けていないけど、これからどうしたらいいのかもまったく分からないけど、いまはそんなことどうでもいい。

 もう少し、この風子の笑顔を眺めていたい。

 そんな僕らしくないことを思いながら、僕はそれからしばらく、画面の中の風子の優しい笑顔をただただ眺めていた。

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