3-2 笑顔になった訳、笑顔を捨てた訳

『SSS』

 それは、大切な友人が犯人とされた事件の真相をあばくべく、神社、教会、寺の三つのレリジョンパワーを集結して立ち上がった、愛と友情の秘密チームであるっ!

 なんだか、そんなナレーションが聞こえてきそうなネーミング。

 もしかしたら、雅ちゃんってオタクなのかな。

 だとしたら、ちょっとかわいい。

 あの巫女さんのお仕事も、「家業の手伝いよっ? 仕方ないじゃないっ!」なぁんて言いながら、本当はとっても巫女装束がお気に入りでやっているのかも。

「それで、雅。なんなんだ? その『SSS』って」

「そうであるぞ? 雅どの。そんなにも大々的に言い放ったのだから、ネーミングの理由はよほど秀逸なのであろうな?」

「こうちゃん、ハルダ、聞いて驚きなさい? 『SSS』は――」 

 えすえすえすはっ?

「『SSS』はっ、『桜台風子の階段落ち事件の真相を探る秘密チーム』よっ!」


 『S』akuradai huko no kaidanochi-jiken no sinsou wo

 『S』aguru

 『S』ecret team.


 え?

 雅ちゃん、それって……?

「はぁ……、なんで最後だけ英語の頭文字なんだよ。『秘密』ってするんなら『H』だろ」

「うむ。ただそうすると『SSH』になって、ハルダはリモートコンピューターのシェルにログインしたくなってしまうのである。しかるにこのネーミングでは――」

「おだまりなさいっ!」

 

 結局、今日も光平の顔を見られないまま夕暮れを迎えた。

 部屋の天井から降るLEDの真っ白な光が、なんだかとっても冷たく感じる。

 机に向かう光平の後ろ姿を見ながら、ちょっとだけひらめいた。

 愛ちゃんにあたしの口を読んでもらって、それを伝えてもらえば光平と話ができるかも。 

 でも……、それもちょっとムリだってことが、今日、分かった。

 愛ちゃん、とっても具合が悪いらしい。

 来週までお家に居られるはずだったのに、お医者さんと相談して明日の午前中に病院へ戻ることになったんだって。

 もう……、神さまのところへ行っちゃうってことなの?

 そんなの嫌だ。

 せっかく仲良しになれたのに……。

 光平も、ずいぶん塞ぎ込んでいる。

 慰めてあげたいのに、なんにもしてあげられないなんて……、本当に悔しい。

 さっきから、机の上の青い代替スマートフォンの呼び出し音が、鳴っては切れて、また鳴っては切れてを繰り返している。

 椅子に腰掛けた光平は、ベッドに足を投げだしたまま、ずっと電話を取ろうとしない。

 まぁ……、誰からの電話か、だいたい予想がつくけど。

 四度目の呼び出し音。

 チラリとスマートフォンを見た光平が、大きな溜息をついてそれを手に取った。

「はぁ……、なんだ? 雅」

 やっぱり。

『こうちゃん? ハルダと電話で話したのだけど、明日、さっそく「SSS」の第一回ミーティングを実施するわ。絶対来るのよ?』

 え?

 雅ちゃん、ハルダと夜電する仲になったの?

「あのさ、僕はそんなチームのメンバーにはならないってハッキリ言っただろ?」

『そんな勝手なことは認めないってハッキリ言ったのが分からなかったのかしら。明日の放課後、ハルダ率いる物理科学部の根城、物理室に集合よ?』

「部員たちにつまみ出されるぞ? ハルダの困った顔が目に浮かぶよ」

『ハルダはノリノリだったわ。わたくしのためにコーヒーを淹れてくれるそうよ?』

「へぇ……、ハルダは幼くて大人しい感じが好きだって思ってたのに、気が強いのも好きなのか」

『なにを訳の分からないことを言っているのかしら。とにかくっ! 明日の放課後、物理室に来るのよっ!』

 たぶん、雅ちゃんは光平のことを心配しているんだと思う。

 クラスメイトからも警察からも悪意いっぱいの目を向けられている光平が、お家でひとりっきりになっていろいろ悩むのを放っておけないんだろう。

 でも、あの雅ちゃん発案のチームが本当に光平の無実を証明できたらいいな。

 もしかしたら、あたしが階段から落ちた原因も分かるかもしれないし……。

 ベッドに入る光平。

 部屋の灯りがふわりと消えた。

 しばらくして、光平の寝息が聞こえ始めると、真っ暗な部屋のドアの向こうで柔らかな足音がした。

 開くドア。

 暗がりの中、その足音はゆっくりと近づいて来て、光平のベッドの横で静かに止まった。

「風子さん、そこに居るよね?」

 聞こえた、かわいい声。

 愛ちゃんだ。

「愛ね? 明日、病院に戻るの。そしてね……、もう、たぶんここへは帰って来られないと思う」

 え? 

 どういうこと?

 愛ちゃん、あたしのこと、見えないの?

「風子さん、よく聞いてね。いま兄さんの後ろに居る『うしろの風子』さんが愛が思っているとおりの存在なら、道を間違わなければ、ちゃんと元どおりに戻れると思うの」

 どういう意味?

「風子さんはいま、ちょっと道に迷っているだけ。たぶんもう少ししたら、風子さんにもまた道が見えるようになると思う」

 元に戻れるって、またスマートフォンを通して光平と話ができるようになるってこと?

「そのときは……、選ぶ道を絶対に間違わないでね? そして、ちゃんと元に戻って、愛が神さまのもとへ行ったあとは、風子さんがずっと兄さんのそばに居てあげて」

 愛ちゃん、道を間違わないようにって、どうしたらいいの?

「あのときも、ちゃんと道を間違わずに来られたでしょう? 兄さんが風子さんに、『神さまは笑顔でいる子に幸せを運んでくださる』って言ったとき」

 あ……、どうして愛ちゃんが知ってるの?

 あのときの、あの公園。

 もう無くなってしまった砂場で、その言葉を掛けてもらったから、あたしはそれからずっと笑顔で居られた。

 真っ赤に染まった空。

 吐く息が白くて、幼稚園の先生が巻いてくれたマフラーが取れて、すごくすごく寒かった。

 丘の上の幼稚園。

 園庭で空を見上げて遅いお迎えを待っていたとき、いつも意地悪をする男の子たちに囲まれた。

『たいふうおんな』

『ふうこはかぜのこ』

『かぜがつめたいからあっちいけ』 

 物理学者のレオン・フーコーから名づけられた、『風子』という名前。

 あたしは、この名前が嫌いだった。

 どこへ行っても、誰と会っても、ちょっと苦笑いしながら「いい名前だね」と言われる。

 みんな、なんか少し変った名前だなって思っているくせに。

 そのときもおんなじ。

 あたしの名前が変だからって、囲まれて、寒いのはあたしのせいだって、たくさんたくさん嫌なことを言われた。

 そうしたら涙が止まらなくなって、あたしはそのまま幼稚園を飛び出した。

 坂を下って、道路の下のトンネルをくぐって、息が続かなくなるまで、いっぱい走った。

 気が付くと、そこはあの『まちかど広場公園』。

 幼稚園の先生に連れられて何度か来たことがあったけど、ひとりで来たのは初めてだった。

 それからあたしは砂場の一番すみっこに座って、ずっとずっと泣いていた。

『どうしたの?』

 しばらくして、とっても優しい声が聞こえて、あたしは顔を上げた。

 声を掛けてくれたのは、同じ年くらいの男の子。

 優しい目、優しい言葉遣い。

 幼稚園の男の子たちとはまったく違う。

 その男の子はあたしの頭にそっと手を乗せて、それから優しく優しくあたしに言葉をくれた。

『ないちゃだめ。ぼくのおとうさんがいつもいってるよ? 「かみさまは、えがおでいるこに、しあわせをはこんでくださる」って』

 そうして柔らかくあたしの頭をなでてくれて、ずっと横に座っていてくれた。

 その子がとなりに居てくれると、ほっぺを痛くしていた冷たい風がなんだかとっても暖かく感じた。

『神さまは笑顔でいる子に幸せを運んでくださる』

 いまでもその男の子の声をはっきり覚えている。

 そうしていると、もう空が暗くなり始めたころに、すごく慌てた様子で先生とお母さんが探しに来て、あたしを見つけてくれた。

 お母さんに手を引かれて立ち上がったとき、その男の子がくれた満面の笑顔。

 そう、笑顔だ。

 あの男の子に教えてもらった笑顔。

 あたしの一生の宝物。

 またいつか、あの男の子に会えるまで、ずっとずっと笑顔でいよう、そう思った。

 それから何度かあの公園に連れて行ってもらったけど、あの男の子とはずっと会えないまま。

 そして春が来て、幼稚園を卒園しても結局会えなくて、そのまま我が家は隣町へ引っ越したから、あの公園にも行けなくなった。

 それから……、九年と少し。

 高校生になって、同じクラスになった永岡光平くんを見て、ハッとした。

 あのときの、あの公園の男の子にすごく似ている。

 目つきや態度はぜんぜん違うけど、なぜかすぐにそう思った。

 そして、夏休みになる少し前、永岡くんの家がキリスト教の教会であることを知った。

 その教会のすぐ近くに、あの公園はある。

 間違いない、そう思った。 

『ないちゃだめ。ぼくのおとうさんがいつもいってるよ? 「かみさまは、えがおでいるこに、しあわせをはこんでくださる」って』

 永岡くんのお父さんは牧師さま。

 だから、あの言葉は『おとうさんがいつもいっている』だったんだ。

 思ってもみなかった再会。

 本当に、本当に嬉しかった。

 そしてそれから、あたしはずっと永岡くんの姿を追うようになった。

 ただ、いまの永岡くんはあのときとは少し違っていた。

 ちょっと冷たく感じる言葉、笑顔のない淡々とした態度。

 だから、みんな永岡くんを誤解した。

 でも、違う。

 本当は、彼はとっても優しい、人を心から思いやる男の子。

 みんなは知らない。

 あたしを助けてくれた、永岡くんに掛けてもらった、あの言葉。

 どんなに辛いことがあっても、どんなに悲しいことがあっても、永岡くんのあの言葉のおかげで、あたしはいつも笑顔を絶やさずに居られた。

 永岡くんに再会できて、あっという間に過ぎた一年。

 交わせた言葉はほんの片手。

 二年生になるとき、クラス替えが本当に嫌だった。

 でも、新学期の最初の朝、昇降口前に張り出された新しいクラスの名簿を見て、あたしは嬉しくて飛び上がった。

 永岡くんと同じクラス。

 また一年、永岡くんの顔を教室で見て居られる。

 そして、思った。

 今度はあたしが救う番。

 それで、クラス委員長になった特権で指名した副委員長。

 彼が一生懸命に委員の仕事に取り組む姿を見れば、みんな分かってくれるはず……、そう思った。

 でも、なぜかぜんぶが裏目。

 永岡くんがあたしを助けてくれるたびに、逆に永岡くんの風評は悪くなっていった。

 この九年……、小学生、中学生の間になにがあったんだろう。

 あんなに素敵だった笑顔は隠れてしまって、永岡くんは心のうちを他人に見せない人になっていた。

 あたしはどうにかして彼の心を開いて、もう一度、彼に笑顔を取り戻させたい。

 そんなことを思っていたとき、どうしたことか、階段から落ちて変な現象に巻き込まれて、突然、永岡くんとすごく親しくなれた。

 永岡くんと、とっても近い距離で話す毎日。

 やっぱり、彼は優しい。

 それはいまも、まったく変っていない。

 ある日、勇気を出して『光平』って呼んだ。

 ちょっと恥ずかしかったけど、おかげで光平もいつの間にか、あたしのことを『風子』って呼んでくれるようになった。

 いまも、あたしはその光平の後ろに居る。

 静かに寝息を立てている光平。

 こうしていると、一緒のお布団で寝ているみたい。

 初めて光平の後ろで夜を迎えたときは、ずっとドキドキが止まらなかった。

「風子さん、そのときが来たら分かるから。絶対に道を間違わないで……」

 あたしに聞こえていると信じながら、愛ちゃんがゆっくりと離れていく。

 聞こえているよ? 

 愛ちゃん、ありがとう。

 光平の背中。

 ずっと、光平のそばに居たい。

 あたしの声が聞こえなくても、あたしの姿が見えなくても、それでもいい。

 あたしはずっと……、ずっと光平のそばに居たい……。






 風子の声が聞けなくなって、約二週間。

 縫った側頭部の傷はまだ少し痛いけど、後頭部や首に残っていたズキズキという痛みはもう感じなくなった。

 通院は来週までで終わりそうだ。

 愛が病院に戻って、我が家はまたクールな雰囲気に戻った。

 なんだか、あの『うしろの風子』の賑やかさを懐かしく感じる。

 まぁ、不可解なことばかりだったけど、やはりあの『うしろの風子』はスマートフォンの中のプログラムだったんだろう。

 どういった経緯で僕のスマートフォンに入り込んだのか分からないが、そうとしか考えられない。

 もっと綿密に検証したかったけど、今回の修理で完全に工場出荷時の状態に戻ってしまうので、もうそれも不可能だ。

 学校では風子と僕の階段落ちがモチーフになって、変な怪談話みたいなのが流行っている。

 モノが階段なだけに。

 雅のところにも、この謎を解いてくれという依頼が寄せられているらしい。

「よかったわね。犯人扱いが薄れて。わたくしの霊力のお陰だわ。感謝しなさい?」

「霊力? 雅はただものものしく『桜台風子も永岡光平も被害者だ』って答えただけじゃないか」

「わたくしは嘘は言っていないわ。いまのところ桜台風子は不可抗力の被害者だし、そしてこうちゃんは風評被害の被害者なのだから」

 机の上にちょこんと腰掛けた雅。

 足をぷらぷらさせて、なにやらハルダからカップを受け取っている。

「雅どの、ハルダ自慢のコーヒーですぞ? それで、永岡よ。いまだ下見警部補は己の非を認めておらぬのか?」

「あの調子で認めるわけないだろ。諸田部長にだっていろいろ喋るなって圧力掛けてるくらいなんだから」

「ハルダ、コーヒーがぬるいわ」

「雅どの、それは日光を集める手作り温水器で淹れたのだから致し方ないのである」

「はぁ……、コーヒーメーカーも置いていないなんて情けないわ。ここは『SSS』の拠点だというのに」

「……いや、雅、ここは物理室だ」

 放課後の物理室。

 物理科学部が活動しているその横で、僕と雅、ふたりの部外者を含む謎チームの三人が、なぜか偉そうに座ってダボラを吹いている。

 夏の科学コンテストで三年生が引退したので、いまは二年生であるハルダが部長を務めているのだが、部長特権と言ってもさすがにこれはやり過ぎだ。

「わたくし、さっきから見ていたのだけど、そこに群れる物理科学部の面々も活動らしい活動はなにもしていないのではなくて? ちょっとっ、あなたたちっ! 今日の活動内容を言ってごらんなさいっ?」

「おい、ケンカ売るな。こっちが部外者なんだから」

 雅は相変わらずだ。

 しかし最近、ふとしたときに曇った顔を見せる。

『ところで……、桜台風子の容態はどうなのかしら』

 なにを思ってのことか知らないが、そんな感じで『病院の風子』のことを尋ねる雅。

 たしかに、僕がこれ以上の憂き目に遭わないためには、『病院の風子』の早期回復が望まれる。

 たぶん、それを思って雅は風子のことを気にしているんだろう。

 風子が入院している病院。

 そこは、愛が命を預けている病院でもある。

 僕は昨日も愛に会いに行ったけど、風子の病室へは行く勇気がなかった。

「ところで永岡よ。愛さまはどうしておられるのだ?」

「え? お前、雅が本命じゃなかったのか? 残念だが、愛はついこの前、また病院へ戻ったんだ」

「雅どのが本命だと? お主、どこに目を付けておるのだ。この恐怖におののくハルダの心情が読み取れぬのかっ? ……で? 愛さまは今度はいつお戻りになるのだ?」

「はぁ……、今度は」

 今度? 

 今度が……あるんだろうか。

 いつ帰るかどころか、帰って来られるかどうかすら分からない。

 少しずつ小さくなっている、愛の命のともし

 その愛の命がこの世に灯ったとき、僕は本当に嬉しかった。

 その日、保育園に迎えに来てくれたのは、笑顔いっぱいの父さん。

 僕の手をとってすぐに、「妹が生まれたよ」って教えてくれた。

『名前はね? 「まな」だ』

 とっても素敵な名前。

 神さまがくださったこの出会いに、僕は本当に心から感謝した。

 でも、それからしばらくして、愛が長く生きられない病気であることが分かった。

 世界的にも症例が少ない、手の施しようがない難病。

 愛は、どんなに頑張っても高校生になることはできない。

 その前に、必ず神さまが天にお召しになるらしい。

 僕は、怒りに震えた。

 では、なんでこの世に遣わせたんだ。 

 そんなに早く呼び戻すのなら、この世に遣わせなければよかったんだ。

『これは神が私に与えたもうた試練だ。神のこころに感謝しなくてはならない』

 愛の儚い命のことを知って、父さんはそう言った。

 狂気だ。

 狂気以外のなにものでもない。

 神さまは、道を示して人を幸福に導いてくれるんじゃないのか?

 いつも父さんはそう話していたじゃないか!

 愛の命は……、愛のものだ。

 神なんてものの所有物じゃない。

 命は、この世界を活き活きと生きるすべての生命体の、それ自身のものだ。

 僕は、神なんて信じない。

 愛の命を、そんなものがやすくどうこうするなんて絶対に許さない。

 聖書が説く神の博愛は理解不能だ。

 神を信じて、笑顔で隣人を愛せば人は幸せになるのか。

 そうすれば、人は苦しまずに済むのか。

 それではなぜ、愛の命を奪うんだ。

 愛の笑顔を奪うんだ。

 神が笑顔の者に幸せをもたらすというのなら、僕に笑顔は要らない。

 そんなものがなくても、自分の力で幸福になってみせる。

 たくさんの科学技術や経済効果で、人間はどんどん幸せになれる。

 神から幸せをもらわなくても結構だ。 

 神に見てもらうための笑顔なんて、僕には要らない。

「……うちゃん? こうちゃん?」

「え?」

「あなた、ずっとさっきからわたくしの胸のあたりを眺めているけど、なにか不満でも?」

「いや、ちょっと考え事をしていただけで――」

「永岡よ。この胸を見て考えることはみな同じだ。賛同するぞ?」

「なんですってっ? セクハラダっ! いま『この女、もう少し胸と同じように慎ましやかにしておれっ!』などと脳内罵倒したわねっ?」

「なぬっ? なぜ分かったのだっ?」

「そこに正座しなさいっ!」

 このふたり、もう夫婦漫才だな。

 他愛もない日常。

 でも、この日常を愛はあと何日過ごすことができるのだろう。

 風子の意識もまだ戻らないまま。

 やりきれない。

 そうして僕が小さく溜息をついたとき、まるでそれが合図だったかのようにスマートフォンの呼び出し音が鳴った。

 ハッとした。

 父さんからだ。

 突然、背中に冷たいものが走って、肩がずんと重くなる。

「ハルダ、雅、ちょっとうるさい。えっと……、もしもし? 父さん、どうしたの?」

『光平、いまお医者さまから連絡があってね。落ち着いて聞くんだよ?』

「え? えっと……、そっか。うん。大丈夫だよ?」

 ついにこの日がやって来た。

 愛の命の期限を知ってから九年。

 ずっと笑わずに神さまに背を向けて覚悟していたその日が、ついにやって来てしまった。

「分かった。今から病院へ行く」

 僕はそう言って電話を切ると大きく息を吸い込んで、それからふたりに先に帰ると告げて物理室を出たんだ。

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