4-2 雅、その呪文の意味は

『……眠れない? 光平』

「まぁ、ちょっと考え事してて」

 薄暗い部屋の中、スマートフォンから漏れた風子の声。

『お布団に入ってから、ずっと溜息ついてるよ? 雅ちゃんが言ったこと……、やっぱり気になるよね』

「気になるっていうか、雅のヤツ、えらく極端なこと言いやがってって、ちょっと腹が立って。風子が生霊とか……、どうかしてる」

『でも、あたし、雅ちゃんが呪文みたいなの唱えたとき、急に寒くなって頭がぼーっとなったから……、もしかしたら雅ちゃんが言うとおりなのかも』



『その桜台風子は……、おそらく「生霊」……。それも……、「魂の通り道」の途中で道に迷っている、少々厄介な生霊ね』

『しかし、雅どの。生霊とは深い怨念によって人の魂が生きながらにして恨みの先に取り憑くものであろう? 風子どのが永岡に恨みを持っていたとでも言うのであるか?』



「だいたい、風子が僕に恨みを持っているかもなんて、どこをどう見ればそんな分析になるのさ。風子のことなんにも知らないくせに、勝手なこと言いやがって」

『光平……』

 そっと、枕元の風子のスマートフォンを手に取る。

 横たわった僕の向こう、後ろから顔を覗かせている風子は、僕の肩にぎゅっと頬を寄せていた。

『そんなふうに言ってくれるんだ。あたし、嬉しい』

「……それに、雅がどうにかするって言ってたけど、そのせいで風子が完全に元に戻れなくなってしまうんじゃないかって、そのことも少し心配で」

 放課後の物理室で雅が霊視した『うしろの風子』は、雅いわく、『病院の風子』から抜け出て来た風子の霊が、『なんらかの怨念を持って』、僕に取り憑いているものなんだそうだ。

 その『怨念』というワードが出た時点で、もう雅の言うことはまったく信じられないんだが、肉体から抜け出て来た魂が僕のところへやって来ているっていう分析についてだけは、まぁ、一定の説得力を持っていると感じた。

 愛は、風子のことを『神さまが遣わしになった、兄さんにとって欠けがえのない人』だと言っていた。

 愛が言うように、本当に神さまがわざわざ遣わしたんだとしたら、風子はこれからもずっと僕のそばに居てくれるはずだ。

 怨念を持った生霊だとか、そんなものであるはずがない。

『あたし、せっかく雅ちゃんがどうにかするって言ってくれてるんだから、雅ちゃんを信じる』

「……うん。でも、少しでもおかしいと感じたらやめさせるからな」

『あたしね? もう、決めてるんだ。もし雅ちゃんがなにか失敗して、たとえば……、その、あたしが死んじゃうことになったとしても……、それはそれで構わないって。このままずっと光平の後ろで迷惑掛けっぱなしってわけにもいかないから』

「なに言ってんだ? もし元に戻れないんなら、このままずっと僕の後ろに居ればいいだろ」

『……光平?』

「別に物理的に邪魔になってるわけでもないし、その……、居たいなら……、ずっと居ればいい」

『……あー、だめ、光平。あたし、泣いちゃう』

 愛は、『そのときが来たらきっと分かる』と言っていた。

 もしかして、雅の『なんとかする』が、そのことなんだろうか。

『もしっ、もしちゃんと元に戻れたら、あたしっ、思いきり光平に抱きついちゃうからっ』

「うわ、それはあまりにも恥ずかし……、えっと……、そうだな。……分かった」

『えへへ。おやすみ、光平』

「うん、おやすみ……」




「こうちゃん? 明日の夜、ここを集合場所にするわ。夏忘れ祭の最中だけど、この時間、この場所が一番、場の力が高まることが分かったから」

 放課後の物理室。

 スマートフォンの画面を覗き込んで、雅が小さな手でその場所を指さした。

 そこは、雅の神社の境内。

 拝殿の後ろにある本殿の、さらに後ろ。

 そこはちょっとした森になっていて、小さいころは雅と一緒に遊んだこともある場所だけど、ここ数年はまったく足を踏み入れたことがない。

 ちょうどいまごろは、紅葉が見ごろになっていることだろう。

 明日の夕方には、長い参道の両側に色とりどりの露店が軒を連ねて、秋の夜に夏の忘れ物のような風景を作り出す。

 とても幻想的だ。

 でも僕は、今年はお祭りには行かないつもりだった。

 愛の昏睡状態が続いているというのに、祭どころじゃない。

 それなのに、雅が『処置』を行う場所は、その『夏忘れ祭』の最中、その会場の中だとは。

「こうちゃん? ずいぶん上の空だけど、ちゃんと聞いているのかしら」

「あ? えーっと、なんだっけ、『魂の通り道』だよね」

「そうよ? このことをきちんと理解しておかなければ桜台風子は救えないわ」

 例のごとく、机の上に腰掛けた雅。

 ハルダは一度やって来たが、「どうしても寺の手伝いをしなければならぬのだ」と言って、雅にコーヒーを淹れるとすぐに退散した。

 それから小一時間。

 雅はいろいろと熱心に話してくれたけど、魂だの天界だの、僕にとってはもう、SFを通り過ぎてホラ話の域。

 雅いわく、人が人としてこの世に生れることとは、天界にある魂と、物質界にある肉体とが『えん』によって結ばれた結果なのだそうだ。

 そして、その魂と肉体との結びつきが解けるときが、物質界でいうところの『死』ということらしい。

 そして、その天界と物質界との間を魂が行き来するときに通るのが、『魂の通り道』。

 目に見えないその『道』は、名のある霊山や神社仏閣、沢や岩、霊木などが網の目のように結ばれたネットワークで、我々の世界とは別次元として普遍的に重なって存在しているものらしい。

 人が『死』を迎えると、その魂は記憶を宿した『霊』として肉体から離れ、この『魂の通り道』を通って天界へと戻るんだそうだ。

 そして、天界において浄化され、無垢の『魂』となって、またいつかこの我々の世界との『縁』が結ばれる機会を待っている……ということらしい。

「で? 風子はどういう状態なんだ?」

『で? あたしはどういう状態なの?』

 一瞬、肩をすくめた雅。

 小さく咳払いをして、僕のほうへ目をやる。

「そのサラウンド効果、どうにかならないかしら。桜台風子、会話に入るならもう少しまろやかになさいっ」

『えー? ごめーん。雅ちゃん、ずっとあたしが見えているのかと思った』

「見えていないわ。あなた、やはり普通の霊とは少々違うようね。しかし、この感触は間違いなく生霊だと思うのだけど」

『でも、あたし、光平に恨みなんかないもん』

 ぐっと唇を一文字に結んだ雅が、背筋を伸ばしながら長い黒髪を後ろへ払う。

「そんなはずはないわ。なにか大きな力が、あなたをこうちゃんの後ろから動けなくしている。それは『怨念』しか考えられないの」

「雅、そんなはずないって、さっきも言っただろ」

『そうよー。あたし、光平のこと大好きだもーん』

「桜台風子っ、女性がそんなことを軽々しく口にしてはダメよっ? あなた、ほんとに軽いわね。その品性ではきっとお尻も軽いのでしょうね」

『なんですとー? あたし、尻軽じゃないもんっ。たっ……、体重はちょっと重いかもしれないけど』

「あーら、ちょっとどころか、ずいぶん重そうに見えるけど。わたくしは最近やっと四十キロ台になったばかりよ」

『ううう、それはチビだからでしょー? あたしはちゃんと出るとこ出てるもんっ』

「なんですってっ? あなたは幼児体型がそのまま大きくなっただけじゃない」

『ぐぬぬ、か……、返す言葉が無い』

「風子、雅、もういいか? 話が進まないから」

 突き詰めてみれば、結局、雅もこの『うしろの風子』がなんなのか、よく分かっていないってことだ。

 『肉体から抜け出て来た魂』であることは間違いなく、それがまだ現世の記憶を保っているから『霊』だと言っているんだろうが、どうも腑に落ちない。

 そして、僕の後ろに留まっている理由が『怨念』だとする説明は、明らかに合理性を欠いている。

「こうちゃんっ、桜台風子っ、とにかく、明日の午後七時、わたくしの神社の本殿の裏へ来るのよっ!」

 そう言ってほんの少し目を泳がせたあと、雅は急に笑顔になって「ごきげんよう」と祓串を振りつつ、そそくさと物理室を出て行った。




 雅の足音が聞こえなくなったあと、物理科学部の連中に詫びを言って僕も物理室を出た。

 自転車置き場へと向かいながらかける、ハルダへの電話。

 まぁ、ハルダにはずいぶん仲良しになった雅が連絡するだろうけど、一応。

『なにっ? 明日の午後七時に雅どのの神社とな。あい分かった。諸田メンバーには小生が連絡しておこう……っと、あっ、たぁーくんっ、それ引っ張ったらダメっ!』

 急にガチャガチャと雑音が入って、オフマイク気味になったハルダの声の向こうで、ワイワイと騒ぐ子どもたちの声がした。

『ハルにいっ、こっちこっち!』

『ハルにいちゃんっ、ヨシくんがコケたー』

 そうか。

 寺の手伝い中だったな。

『なっ、永岡よっ、小生はちょっと取り込み中なのである。用件は諒解だっ! また、明日の夜……、あーっ、まーくんっ、それはダメっ――』

 プツリと切れた通話。

 思わず苦笑いが出た。

 イヤホンの奥で、風子もケラケラと笑っている。

 ハルダとは半年ほど付き合ってきたが、あんな声は初めて聞いた。

 幼稚園の園庭で、エプロンをして、たくさんの子どもたちに囲まれているハルダの姿が目に浮かぶ。

 僕の知らないハルダ。

 やっぱり、人って見た目だけでは分からない。

 分かったつもりでも、実際は分かっていない。

 見上げれば、抜けるような秋空。

 漕ぎだした自転車。

 正門までの長い坂道を下りながら、僕は背中にずっと、『うしろの風子』を感じていた。

 そのときふと、風子の歌声が聞こえた。 

 かわいい声だ。

 気分が軽くなる。

 そうか。

 僕のこの塞いだ気持ちを……、愛のことでずっと澄み渡ることがなかったこの胸の淀みを……、いつも風子が軽くしてくれていたんだな。

 橋を渡る。

『あっ、あたしの中学校だ』

 見えたのは、隣町の中学校。

 風子が卒業した、僕が知らなかったころの風子が通っていたその校舎を見て、何度も見たことがある風景のはずなのに、なんだかとても胸が締め付けられた。

 たしか、ハルダも風子と同じこの中学校の卒業生だ。

 でも、ふたりはお互いにまったく知らなかったらしい。

 三年間も同じ学年で過ごしたのに、一度も互いを認識し合う機会がなかったなんて。

 そう思えば、人同士が『知り合える』機会ってすごく限定的で、さらに『理解し合う』関係になるまでに費やせる時間となればもっともっと少なくて、真に人を理解するって本当に難しいことなんだって思い知らされる。

 もし、この『うしろの風子』と出会えなかったら、僕は一生、桜台風子という女の子を理解できないままだったと思う。

 渡る橋から見下ろすと、河川敷に咲く名もない花たちが秋風に揺れていた。

 夕暮れの川沿いの道。

 風子の歌声はまだ聞こえている。

 誰よりも、いつも正しく人を見てきた風子。

 八方美人なんじゃない。

 その人の正しい姿を知るために、誰にでも同じように、なんのわだかまりもなく接していたんだ。

 の『フーコーの振り子』は、ただひとり黙々と振れていた。

 周りから見れば、時間が経つにつれて振り子の振れる方向がひとりでに変っていったように見えたかも知れないが、実は回っているのは地面のほうだった。

 宇宙の大法則である慣性に従って、誰からの影響も受けずに、ただひたすら正しく振れ続けていた『フーコーの振り子』。

 風子は、その『フーコーの振り子』と同じだ。

 どんな邪念や憶測を聞かされようとそれにとらわれないで、その相手を正しく在りのままの姿で受け止めて、そして理解して真心を注ぐ。

 まさにその名前の由来のとおり、風子はいつも誰にも流されずに、正しくいろんなものを見続けてきたんだ。

 僕のことも、同じように。

 心から信じて、心から大切に想って。

 だから僕も……、僕も正直に風子へ向き合いたい。

 この、気が付いてしまった正直な気持ちを、ちゃんと風子に伝えたい。

 もしも……、もしも明日の夜、雅のおかげで風子が元に戻れたら……、真っ先にこの気持ちを風子へ伝えよう。

 そして、風子から抱きしめられる前に、僕が風子を抱きしめるんだ。

『ねぇ、光平……、あの……、明日のことなんだけどさ』

「どうした?」

『あのー……、雅ちゃんの神社、夜祭……なんだよね?』

「あー……、そうだな。少し早く出て、ふたりで夜店を回るか」

『えっ? いっ、いいのっ?』

「愛のこと気にしてるんだろ? たぶん愛は『風子ちゃんを楽しませてあげて』って言うと思う。だから」

『うっ、うっ、嬉しいっ! あー、でも、できれば、そのー……、ハルダ抜きのほうがいいなぁ』

「あはは、分かったよ」

 ちょっとだけ肌寒くなった夕暮れの空気。

 でも、背中はなんだかあったかい。

 その暖かさでずいぶん軽くなった気持ちがさらにぺダルへと伝わると、柔らかな秋風が、まるで母さんのように優しく頬を撫でてくれた。




 日が暮れて間もない参道。

 その両側に、ふわりと浮かびあがる露店の灯り。

 参道の入口から境内の楼門まで、見渡す限り柔らかな露店の灯りが続いているこの光景は、まるでなにかの絵本の一ページのよう。

 分かってはいたが、やはり少々肌寒い。

 かわいらしい浴衣を着ている女の子も居るけど、みんなちょっと寒そうだ。

「だいたい夏祭りを秋にやるなど、非常識であるっ」

「だから、『夏忘れ祭り』って書いてあるだろ。楽しかった夏を忘れるんじゃなくて、夏にやるのを忘れたからいまやるって祭りなんだ」

「なにっ? そうなのか。知らなかった」

「そんなわけないだろ」

「なーがーおーかぁー」

『ちょっとぉー。 なんでハルダが一緒なのよ。せっかく光平とふたりで早く来たのにぃ』

 一気にご機嫌ナナメになった風子。

 少々イヤな予感はしていたが、まさかこんなにもタイミング良く……、いや、この場合は『悪く』、コイツが現れるとは。

「約束したわけではないぞっ? 土曜保育の送りのバスがこの近くを通るので、ちょっと早いが乗って来ただけなのであるっ」

『ほんっと、おジャマ虫なんだから。ねぇ光平? 来年はふたりで来ようねー? あたし、浴衣着るもーん』

「うん? 風子の浴衣姿は見てみたいけど、ずいぶん寒いからなー。無理しなくていいよ」

『手もつなぐー』

「それは来年までの風子の頑張り次第だな」

『頑張るもーん』

「なんと、一緒に来ること自体は決定なのか。もうお腹いっぱいなのである」

『あはは』

 独特の夏の雰囲気。

 僕は小さいころ、この風景があまり好きじゃなかった。

 露店が並んでいる参道は賑やかでとっても楽しい雰囲気なんだけど、その背後にある暗がりがなんとも不気味に思えて。

 暗黒の世界の中でその参道だけが煌々と光を放っていて、まるで現実から逃避した夢の中のような……、誰もが暗黒を知っているのにことさら目を背けているような……、そんな強烈な孤独感を覚える風景。

 聖書、『ユダの手紙』の第六節。

 選ばれた民をかどわかす偽の教師に対する警告として、旧約聖書にある神の戒めを解説する、その一説。

 ずいぶん小さいころ聞いたのであんまりよく覚えていないけど、その中にあった『不徳な天使をしばりつけたまま閉じ込めた暗闇』という言葉だけは、いまも鮮明に記憶している。

 黒く、深く、冷たい、その暗闇。

 夏祭りに足を運ぶたびに、僕にはこの露店の向こうに広がる暗黒の空間が、まさにその聖書が謳う恐ろしい暗闇に見えていた。

 警告を受けた、上辺だけしか見ることができずにいろいろなものを見誤ってきた、『偽の教師にかどわかされる民』。

 それはまさに、僕自身のことだ。

 だからこそ僕は、この風景に不安を覚えずにはいられなかったんだ。

 参道を行き交う人の波。

 お祭りが始まってまだそんなに経っていないのに、その波はもう幾重にもなってずっと向こうの境内まで続いている。

 イヤホンの奥では、ずっと風子がはしゃいでいた。

 僕はその声を聞くのが嬉しくて、いくつもの露店に立ち止まりながらゆっくりと参道を進んだ。

 参道の終わり、厳然と構える楼門。

 そこから境内を覗くと、そこは参道のしっとりした雰囲気とはずいぶん違って、いかにもお祭りらしい賑やかさ。

 仮設ステージではお爺ちゃんが自慢ののどを披露していて、手水舎の付近では大ビンゴ大会が行われていた。

 その賑やかさを横目に、境内の外縁を奥へと進む。

「ところでハルダ。 その背中のバックパックにはなにが入っているんだ? やけにデカいな」

「うむ。本日のイベントを物理科学部の校外活動とするのである」

「計測機器か」

「そのとおり。騒音計、照度計、震度計、サーモセンサー、磁力計測器……、ガイガーカウンターまで揃っておるぞ? 霊媒術とやらを科学的見地から検証するのである!」

「そういえば、人は死の瞬間に二十一グラム軽くなるって研究があったな。意外に面白いかもしれない」

「そうであろう? おっ、あそこではないか? 雅どのが指示した場所は」

 ハルダが指さした先、拝殿の裏、本殿のさらに後ろ。

 うっそうとした森の中に、ポツンと小さな灯りが見えている。

「なんだろう。焚火かな」

「うむ。なかなかに不気味なのである」

 拝殿の横を過ぎると、途端に足元が真っ暗になった。

 徐々に遠ざかる背後の賑やかさ。

 進む先は、まさに、あの聖書の暗闇のような静寂な空間。

 ハルダがスマートフォンのLEDライトで足元を照らしている。

 辺りに響くのは、その足元から聞こえる枯葉を踏む音だけだ。

 本殿の背後へ回ったところで、森の中の灯りが、そこに浮かぶ小さなかがり火だと分かった。

 三本の棒が互いにもたれあうように組まれた台座の上で、炭の炎が煌々と輝いている。

 少しだけ、背筋に悪寒が走る。

 風子も黙っている。

 近づくと、その横に誰かが居るのが見えた。

「こうちゃん、ハルダ、よく来てくれたわ」

 雅だ。

 いつもの巫女装束とは違う、テレビでたまに見る『陰陽師』の格好をしている雅。

 真っ白な上下、肩口の隙間からは中着の真紅が覗いている。

 頭に載せている真っ黒な縦長の烏帽子が、かがり火の灯りを受けて暗がりでゆらりとしていた。

「雅……、えっと、僕らはどうしたらいい?」

「そこで止まりなさい。まだこの円の中へ入ってはいけないわ」

 雅に制止されてハッと足元を見ると、落ち葉がキレイに取り除かれた地面に、大きな円に囲まれた星のような図形が描かれていた。

 どうやら、なにか重要な意味があるらしい。

「ほう。雅どの、これは六芒星ですな」

「そうよ。それ以上近寄るとあなたも巻き添えになるわ。そこで大人しく見ていなさい」

「うむ。では、この辺りに機器を設置するのである」

 そう言ってドサリとバックパックを土の上に下ろしたハルダ。

 雅は着物の衿をぎゅっと締めている。

 ずいぶん物々しい。

 しかし、本当にこんなもので風子が元に戻るんだろうか。

「さぁ、こうちゃん。『処置』を始めるわ。そのスマートフォンを持ったまま、ゆっくりとこの星の真ん中へ入るのよ」



『そのときが来たらきっと分かります。必ず、風子さんの名前を呼んであげてください』



 愛の手紙には、風子の名前を呼べと書かれていた。

 愛の言う『そのとき』が、ちゃんと僕に分かるだろうか。

「風子、頑張れよ?」

 イヤホンに手をやりながら、囁いたその言葉。

 しかし、なぜか返事がない。

 イヤホンのペアリングが切れてしまったのかと思ってスマートフォンを覗くと、接続中のアイコンはちゃんと表示されていた。

「風子?」

「こうちゃん? なにをしているの? ちゃんと真ん中まで進みなさい」

「あ、ちょっと待って」

 立ち止まり、スマートフォンのカメラのアイコンに触れる。

 しかし、何度触れても画面が切り替わらない。

「おかしいな。おい、風子?」

 そのときだ。

 突然、画面が光った。

 着信だ。

「うわ、びっくりした。諸田さんからだ。雅、もうちょっと待って」

「早くしてちょうだい。もう気が集まり始めているわ。手短に」

「うん。もしもし? 永岡です」

『こっ、光平くん?  私っ、いま、参道、走ってそっちに向かってるっ。ちょっとっ、御笠さんを止めてっ!』

「え? そんなに急がなくても大丈夫ですよ? ハルダもやることなくて見学なんで」

『違うのっ! そのっ、変な儀式っ、やめさせてっ! 桜台さん、ほんとに死んじゃう!』

「えっと、どういうことです?」

『桜台さんにもっ、気をしっかりって、言ってっ!』

 一方的に切れた電話。

 雅はゆっくりと両手を上げて、なにやら小さな声で呪文を唱えている。

「えっと……、雅? よく分からないけど、諸田さんがこの儀式を中断しろって言ってる」

「それはできない相談ね。たったいま結界が閉じたの。いま術を止めると大変なことになってしまうわ」

「結界?」

「いま、この神社の境内ぜんぶが四方水晶の結界の中にあるわ。だから、あなたの後ろの桜台風子も大人しくしているでしょう?」

 それで風子がまったく喋らない……、いや、喋れないのか。

「大丈夫なのか? なにをしようとしているんだ」

「桜台風子の魂に道筋を示すわ。あとは……、彼女次第ね」

 次の瞬間、ガサガサと聞こえた木々の音。

 振り返ると、本殿の横を駆けて来る女性の姿が目に入った。

 声が聞こえる。

「光平くーんっ! ダメよっ! すぐやめさせてーっ!」

 諸田さんだ。

 ハッとして雅が手のひらを諸田さんへ向けた。

「それ以上近づかないでっ! 死にたいのっ?」

「ああっ!」

 突然もつれた、諸田さんの脚。

 ザザッと響く乾いた音とともに、諸田さんが寄せられた枯れ葉の山に倒れ込んだ。

「あっ、諸田さんっ!」

 思わず駆け寄ろうと足を踏み出すと、いきなり肩に岩でも乗せられたかのような重みが掛かった。

 膝が崩れて、地面に押し付けられる。

「みっ、雅っ?」

「こうちゃんっ! 大人しくしていなさいっ! いま術を中断すると――」

 息ができない。

 さらに背中に力が加わり、星型の中心へとねじ伏せられる。

 イヤホンが抜け落ちて、地面に転がった。

 チラリと見ると、ハルダが機器の画面を見比べながら目を白黒させていた。

 遠ざかる意識。

 どこからか、キーンという甲高い金属音が聞こえる。

 その音と重なった、諸田さんの叫ぶ声。

「御笠さんっ! やめるのよっ! あなた、人殺しになりたいのっ?」

「あなたはなにを言っているのかしらっ! 私の術の邪魔をしないでちょうだいっ!」

 円のすぐ外で、顔を地面につけて僕を覗き見上げる諸田さん。

「光平くんっ! すぐにそこから出てっ! このままこの儀式を続けさせたら、御笠さんは桜台さんを二度と帰れなくしてしまうわ!」

 さらに顔が地面に押し付けられる。

 思い切り力を込めて首を捻じると、そこに見えた雅は涙いっぱいの瞳で僕を見下ろしていた。

「こうちゃん、動かないでっ!」

 諸田さんがさらに叫ぶ。

「光平くんっ! よく聞いてっ! 桜台さんを……、桜台さんを階段から突き落としたのはっ――」

 ハッとした雅。

 ザワザワと音を立て始めた森の木々たち。

 そして、その絶叫は森が揺れる音に重なって、そこに響き渡った。

「桜台さんを突き落としたのはっ、御笠さんよっ!」

 なんだってっ?

 雅の瞳から、溢れ落ちた雫。

 そして、かがり火を受けて煌めいたその雫は雅の頬を伝い、響き渡った諸田さんの叫びの向こうでゆらりとした。

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