14.奈落は危険がいっぱいです(2)
たくましい体に勢いよく引き寄せられたせいで肩の痣が少し痛んだが、それどころではない。
イグナーツの熱い体温に包まれて、嬉しいより先に混乱してしまって微動だにできなくなる。
「ああアリーセ、無事でよかった……!」
耳元で心情を吐き出すように紡がれた言葉は甘く、せつない。
心底ほっとしたような声音から、彼が本気で心配してくれていたのが伝わってくる。
イグナーツは安堵を噛みしめるように一度ぎゅっとアリーセを強く抱きしめてから、身を離した。ここでやっと、彼の表情が雨が降り出す前の空のように曇り、蒼の眼差しが沈痛に細められていることが見て取れた。
「俺のせいです。ここが危険なところだとわかっていたはずなのに、あなたを一人にさせてしまうなんて……なんて愚かなんだ。自分が信じられない。怖い思いをさせてしまって申し訳ありませんでした。どうか許してください」
イグナーツは身を屈めてアリーセの手を取り、その甲へ許しを請うように口づける。
ここでようやくアリーセの頭が活動を再開したらしく、かあっと頬が熱くなった。
「わ、私は大丈夫ですから、どうかお気になさらないでくださいませ! 助けていただいたおかげで怪我もありませんし……本当にありがとうございます」
「礼など……それより本当に怪我はありませんか? どこか痛いところは?」
「どちらもありませんわ」
「……本当ですか? あなたは怪我を隠そうとするから……本当にどこにも傷一つついていませんか? 確認させてください」
「そ、それは……!」
また空き部屋でのやりとりが繰り返されるのかとアリーセが身構えかけたとき、イグナーツの背後から伸びてきた腕が彼の襟首を引っ張って制止した。
エトガルだ。イグナーツのふるまいを黙って観察していたらしい彼は、あきれたような半眼を王子に向けている。
「殿下、僭越ながらありていに申しますと破廉恥です」
王子に対するものとは思えない、容赦も遠慮もない一言だ。
だがそれでイグナーツは我に返ったらしく、はっとした顔で身を離した。
「す、すみません。そういうつもりではなくて、その、本当に心配で……」
蒼の眼差しを居心地悪そうにそらし、恥ずかしそうに頬を染めて言い訳してくる。
そのしどろもどろ具合がなんとも初々しくて可愛らしいと思ってしまい、アリーセは胸の奥からこみあげてくる感情を理性で押し殺した。
「わかっておりますわ。でも本当になんともありませんの。殿下が守ってくださったおかげですわ」
にっこりと、毅然とした笑顔で答える。
顔は熱いままなのでおそらく自分も真っ赤になっているだろうが、そこは恰好つかなくてもお互いさまというものだ。
アリーセはこの話題を終わりにしたくて、さきほどから気になっている人物に目を向ける。
「ところで、そちらの方……エトガル卿とおっしゃいましたか」
エトガルがやっとそこに触れてくれたかと言わんばかりにうやうやしく一礼した。
「当騎士団の副官をつとめております、エトガル・マイヤーと申します。以後お見知りおきを」
「こちらこそよろしくお願いいたします。ええと……」
「ああ、ヴェルマー公爵令嬢の事情については殿下よりうかがっております。知っているのはいまのところ私のみです。決して口外いたしませんので、どうかご安心めされますよう」
「ありがとう、エトガル卿。助かりますわ」
「彼はここでは珍しいことに男爵家出身の騎士で、《奈落》には志願してきた変わり者です。口は悪いですが、信用できる男です。口は悪いですが」
イグナーツが補足する。
口は悪いを二度言うあたりに多少の恨みがましさを感じるが、軽口を許しているのは深い信頼関係があってのものだろう。
「それにしてもツイていませんでしたね」
とエトガルは話題を魔物に戻した。
「さきほどヴェルマー公爵令嬢が遭遇したのは、幻覚・幻聴作用の息を吐く魔物です。幻覚と幻聴はその息を吸った者にしか見えませんし聞こえません」
アリーセは知らないうちに幻覚作用を起こす魔物の吐息を吸ってしまっていたようだ。
とりあえず、あの幻覚が二人には見えていなかったとわかってほっとする。とはいえ疑問は残った。
「最近、殿下が魔物の群れの長を討伐されたとうかがっております。長を倒すと魔物は出なくなるのではなかったのですか?」
療養所でゲルトがしばらくは魔物は出ないと自信満々に言っていた。
エトガルは「お詳しいですね」と眼鏡の奥の眼差しをやわらげる。
「ええ。ですが、長を倒してもごくまれに《奈落》へ戻らず、地上に残る魔物がいるんです。我々はそれを〝ハグレ〟と呼んでいるのですが……前回、長を倒したのが深夜だったせいで、ハグレが逃げたことを見過ごしたようです。我々の落ち度です。申し訳ありません」
「謝罪は不要ですわ。さきほど殿下からじゅうぶんいただきましたし……」
ちらりとイグナーツに目を向けると、彼は恥ずかしそうに左目の下の傷跡を掻いた。
「でも、それならお二人はなぜ幻覚にかからなかったのでしょうか?」
「それは慣れですね」
とイグナーツが肩をすくめて苦笑した。
「ここにいる者はだいたいの魔物の吐息に耐性がついているので、幻術にかかりにくいんです。だから魔物がいることに気づくのが遅くなってしまいました。すみません。あなたを危険な目に遭わせてしまうなんて……」
「でも助けていただきましたわ。それに、ここに来たいとわがままを言ったのは私ですから……それが、お手を煩わせるようなことになってしまって、こちらこそ申し訳ないです」
「そんなことはありません。それに、あなたがいなければ魔物が地上に残っていることに気づけなかったでしょう。逃がしていたら、近隣の町村に被害が出るところでした」
イグナーツはアリーセが自分を責めないよう、言葉を選んで言ってくれる。本当に優しい人だ。アリーセがなんとも言えない気持ちになっていると、
「殿下、その言い方ですと彼女を探知犬代わりにしたように聞こえます」
とエトガルが余計な横やりを入れてきた。イグナーツがぎょっとする。
「なっ、そんなわけあるか!……誤解しないでください、アリーセ。そういう意味で言ったわけではありませんから」
「わかっておりますわ」
アリーセは思わず笑みをこぼした。
エトガルがイグナーツの揚げ足を取ったのも、それに対してイグナーツが子どもっぽい反応を見せたのも、きっと自分を安心させるためだろう。彼らの優しさや気遣いに胸の奥があたたかくなってくる。
(なんだか私、領地での暮らしより、《奈落》での暮らしのが好きになれそう)
アリーセは生まれてはじめて、イグナーツを裏切った妹に感謝したくなった。
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