15.王子様を怒らせてはいけません

 裏口に用意した馬に二人で跨がり、凸凹した道を抜けて第二城砦へ戻ったときには太陽が高く昇っていた。日差しの強さに暑さをおぼえるほどだった。

 イグナーツの手を借りて馬を降りると、アリーセはたまらずフードを上げて外套を脱いだ。

 目立つ赤髪を隠すためのものだが、おかげでお仕着せの中がすっかり蒸れてしまった。化粧が乱れていないか心配になりつつ、イグナーツに礼を伝える。


「私のわがままを聞いてくださってありがとうございました。おかげで有意義な時間が過ごせましたわ」

「とんでもない。あまり面白いところでなくて申し訳ないくらいです」

「そんなことはありませんわ。それに……」


 アリーセは少し迷ってから、ひそかに思っていたことを口にする。


「お恥ずかしい話ですが、私はいままで魔物の湧き出る場所で戦う人々がいることを、どこかおとぎ話のように感じていました……ですが、こうして現実を目にする機会をいただけたことで、ここで戦う方々に心から感謝したいと思えました。本当にありがとうございます」


 もし《奈落》のことを知らないままだったら、恥知らずのまま一生を終えるところだった。そうならなくて本当によかったと思う。


「……そんなことを言ってくれた人は――王侯貴族ではあなたがはじめてです」


 イグナーツが嬉しそうに、だが少し悲しそうに相好を崩した。


「父上や兄上も、あなたと同じくらいここに目を向けてくださればよかったのですが」

「……人手不足の件ですか?」

「もともと流刑地だったのを金銭で雇う制度に変えさせたのは俺なので、あまり強くは言えないところはありますが……その点は近々解決する予定ですので、ご心配なく」


 ではまた昼食で、と言ってイグナーツは離れていった。

 入れ違いにミアがやってきて外套を引き取り、ハンカチで汗を拭ってくれた。


「お疲れさまでございました。どうでしたか? 危なくありませんでしたか?」

「全然、いいところだったわ」


 半分嘘をつく。

 魔物に襲われた話をしたらミアは卒倒するかもしれない。


「そういえば、お嬢様。公爵様からお手紙が届いておりましたよ」

「本当? すぐに読みたいわ」


 父の動向はずっと気になっていた。イグナーツが父に何か要求しそうだったからだ。

 アリーセはミアを引き連れて部屋へ戻った。

 すぐさま机の上に銀のトレイごと置かれた手紙を見つけた。封蝋にはヴェルマー家の紋章が刻まれている。父からだ。ペーパーナイフで封を切り、挨拶もなくいきなり本題からはじまる文面を夢中で読んだ。

 傍らで固唾を呑んでいるミアへ、内容を端的に告げる。


「お父様ったら、殿下から婚約破棄の慰謝料を請求されているみたい」

「いい気味でございますね!」

「まったくだわ」


 ふん、と鼻息を荒らげる侍女に同意しつつも、イグナーツが要求したものが気にかかった。

 彼は余命が短いこともあって財産を必要としておらず、ゴルヴァーナ城砦で役立てられる農地と農産物、人材等での支払いを求めているという。責任感の強い彼らしいとは思えたが、父が素直に応じるとは思えなかった。最悪の場合、クラーラを中絶させてでも婚約破棄をなかったことにしようと画策するかもしれない。


(そうなったら私も困るし、ちょっとだけ助け船を出してあげようかしら)


***


 国王への謁見を終えたヴェルマー公爵が王都にある屋敷に戻ると、エントランスの階段を愛娘が駆け下りてきた。待ち構えていたらしい。


「お父様っ! 陛下はなんて?」

 クラーラがおかえりの挨拶もなしにせっついてくる。


「これ、はしたないぞクラーラ」

「こんなときにじっとしていられませんわ。イグナーツ殿下の要求はあんまりなんですもの……それで、陛下はなんておっしゃっていたんです? もちろん、殿下を諫めてくださるんですのよね?」


 ぐっ、とヴェルマー公爵は言いよどんだ。国王からはあまりありがたくない言葉を賜ったが、聞かれたからには答えねばなるまい。


「……陛下は、殿下の要求に従うようにとおっしゃった」

「どうしてですの!? いくら息子が可愛いからってあんまりじゃありませんの。『婚約破棄の慰謝料としてダーストンの土地を譲渡しろ』だなんて!」

 愛娘が甲高い声を叫ぶように張りあげる。


「あそこはヒルヴィスの穀物庫として名高い穀倉地帯ですのよ? 公爵家の大事な収入源の一つじゃありませんの。ファビアン様もこれから小麦事業に関わる予定ですのに……」


 爵位を継承できない花婿が職まで失うと思ったのか、クラーラは必死だ。ただ、そこは彼女の勘違いもあるのでヴェルマー公爵はしっかりと否定する。


「大丈夫だ、クラーラ。領地を奪われたとしても事業までは失うことはない。いままでより少し、余分に経費が発生するだけだ」


 そして農民からの地代が入らなくなる。つまり、実入りが激減する。

 経営的には大打撃だが、身重の娘にこれ以上心労をかけたくないので黙っておく。


「それにしたって、お父様は既にお姉様の要求を飲んでおられますのに。イグナーツ殿下を説得させるのはお姉様の役目ではありませんの? 身代わりがバレたのだって、お姉様がしくじったに違いありませんわ!」

「その点については論じても意味はないのだ……アリーセとの取引については、陛下はあくまで家庭内の問題だとおっしゃった。婚約破棄の慰謝料はまた別だとな」


 実際、そのとおりなので反論の余地はなかった。

 謁見の間での、国王からの冷めた眼差しを思い出す。


『そもそも、そなたが愛娘を管理できなかったのが原因であろう』

『で、ですが、アリーセをクラーラの代わりに輿入れさせることで陛下もご了承くださったはずでは……』

『はて? わしはイグナーツが納得するならとも言ったはずだが』

『…………』


 絶対に言っていない。

 だが、言った言わないを争うには相手が悪すぎるので、ヴェルマー公爵は押し黙るしかなかった。


『イグナーツはクラーラに婚約破棄されたに等しい。よいか、公爵令嬢が王子に婚約破棄を突きつけたのだ。あまりにも分をわきまえない、無礼な行いだとは思わんか?』

 これには同意せざるをえない。王室侮辱罪に問われてもおかしくないのだ。


『矜持を傷つけられたあやつがそれに見合うだけの金品を要求するのも当然であろう。それが今回、領地の一部だったというだけではないか』

『しかし……!』

『不服があるならば、裁判でも起こせばよかろう。まっとうな裁判官ならば「婚約破棄の慰謝料は金銭で支払うべき」と結論づけるはずだ』


 裁判など起こせるわけがないとわかった上で言ってくるのだからタチが悪い。


「どうにかして回避する方法はありませんの?」


 クラーラが美しい双眸をうるうるさせながら見上げてくる。

 母親似で、本当に可愛い娘だ。なんとしてでも言うことを聞いてやりたいと思うが、相手が強大すぎた。ヴェルマー公爵は力なくかぶりを振る。


「難しいな。不服があるなら裁判を起こせと陛下はおっしゃったが……」

「なっ……冗談ではありませんわ! 裁判なんてしたら見世物になるだけではありませんの! わたくし、絶対に嫌ですわ!」


 世間から白い目で見られるような、恥ずべき行いをしたという自覚はあったようだ。ここ最近、夜会や茶会の誘いが急激に減ったことがこたえているのかもしれない。


(……少し、わがままに育てすぎたかもしれんな)


 そう後悔してももう遅い。

 ヴェルマー公爵はこっそりと嘆息しつつ、国王からされた別の話を思い出していた。


『イグナーツを怒らせるな。領地を魔物に蹂躙されたくなければな』

『魔物に……? どういう意味でしょうか?』

『言葉通りの意味だ……わしが《奈落》を流刑地とする制度を三年前に廃止したことは存じておるな? あれはイグナーツの要望だった』


 囚人兵ばかりでは国を守る意思が弱く、魔物に対する恐怖心や自由への欲望から脱走しようとする者が後を絶たず、統率が取れないのだという。戦死者も多かった。

 それらの問題の打開策として、イグナーツは囚人を強制的に戦わせるのをやめて、正当な報酬で兵を雇うべきだと主張した。

 命を賭してでも高額な報酬を求める者には、必ず守るべき何かがある。そういう者たちは目的を達成するために協力しあい、命を大切にしながらも決して逃げ出すことはないだろう、と。


『わしは最初、制度の変更には反対だった。国内の監獄はどこも満杯で、罪人の処分場として《奈落》は絶好の場所だったからな。だがわしが突っぱねたら、イグナーツはどうしたと思う?――あやつめ、王家の直轄領に《奈落》で研究用に捕らえた魔物を解き放つと脅してきよった』

『……さすがにそれは』

『わしも口先だけだと思った。あやつは心優しい子だったし、民に犠牲が出るような真似はせんだろうと。そう高をくくった結果……ガリウ大河の島に魔物を放たれた』

『……は?』


 王都の南を流れるガリウ大河は竜の住まう神聖な場所とも、あるいは川を流れる水自体が竜そのものだとも言い伝えられている。

 そこに浮かぶ島は王家の直轄領で、別荘代わりの離宮もあった。


『もちろん管理人や使用人を逃がした上で、ではあったがな。送り込まれた魔物が空を飛べず泳ぐこともできぬ種だったおかげで島外への流出は避けられておるが、いまだに近寄ることすら叶わん。気に入りの別荘地だったというのに』

『…………』


(気に入りとか、そういう問題ではないような……)

 と思ったが、相手が相手なのでツッコめなかった。

 ヴェルマー公爵は領地を魔物の群れが蹂躙する様子を想像した。

 魔物は聖剣がなければ絶命させることはできない。しかしその魔物を放ってくるのが、よりにもよって国で唯一の討ち手なのだ。


(くそっ、イグナーツ殿下は自己犠牲精神のある心優しい方ではなかったのか?)

 前評判と全然違うではないか。


「――お父様?」


 愛娘からの再度の呼びかけに、ヴェルマー公爵は追想を切り上げた。クラーラの美しいかんばぜをつとめて優しい眼差しで見つめ、言い諭す。


「とにかく、我々は殿下の要求を飲むしかなさそうだ」

「そんなぁ……!」


 はあ、とヴェルマー公爵の唇から今日何度目かのため息がこぼれる。

 どうしてこんなことになってしまったのだろう。

 間違いなく元凶は目の前で瞳を潤ませている愛娘にあることは、ヴェルマー公爵もわかっていた。


(そうだ。元はと言えばクラーラが妊娠したのが悪いのだ。ならば、妊娠をなかったことにすれば……)


 ヴェルマー公爵の脳裏に残酷な考えが浮かびかけたとき、執事が銀盆の上に封書を載せてやってきた。


「旦那様。アリーセ様よりお手紙が届いております」

「アリーセからだと?」


 もう一人の娘には手紙で現状を伝えてある。

 イグナーツを説得しろと命じつつも、あの娘が言うとおりに動くかどうかは疑問だった。それが、おそらくは三速の伝書鷹まで使って返事を寄越してくるとは。

 ヴェルマー公爵は不審に思いながらも、封蝋をめくって書面に目を落とした。

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