16.大きな決断をするときが来たようです
数日後、父からまた返事が届いた。
アリーセはすぐさま文面に目を通すと、それをミアへ預け、急ぎイグナーツの部屋へ向かった。彼の元へも似たような内容の手紙が届いているはずだった。
はやる気持ちを抑えきれず、つい早足になってしまう。
(お父様を丸め込むことは成功したわ。あとは殿下ね。お父様と結託したと思われたくはないけれど……殿下ならきっと許してくださるわ)
イグナーツはきっとアリーセの立場を考えた上で、双方にとってよりよいかたちに落ち着くよう判断を下してくれるはずだ。彼はとても優しい人だから。
扉にノックをし、用件を告げる。
「アリーセです。お話ししたいことがあってまいりました」
「……どうぞ」
入室の許可が下り、中へ通される。
イグナーツの私室に足を踏み入れたのははじめてだった。
濃青色を基調とした品の良い一室で、広々としているが必要最低限の家具調度品しかない。王族らしからぬこざっぱりとした部屋ながら、それが主の性格をよく示しているように感じられた。
浮かない顔で出迎えてくれたイグナーツに促されるまま、アリーセは応接セットの長椅子に腰を下ろした。彼もまたテーブルを挟んで向かいの長椅子に腰を下ろし、腕を組む。
「ちょうど、そちらにうかがおうと思っていたところでした」
「殿下のもとにも、父から手紙が届いたのですね」
「ええ」
「……なら、お話は早いですわ」
アリーセは胸に手を当ててすうっと呼吸を落ち着けた。
緊張で鼓動が速まっていく。ここからが勝負だ。舌がもつれたり声が震えたりしないよう、慎重に口を開いた。
「殿下。私をあなたの正式な妻にしてください」
まっすぐにイグナーツの目を見つめて告げる。
彼の蒼い双眸は
「父は私が殿下の正式な妻となることを条件に、穀倉地帯の領地を慰謝料の代わりに献上すると申しております。そうすれば私が将来……言い方は悪いですが遺産を受け継ぐことになり、領地がヴェルマー家に戻ってくる可能性が残るから……もちろんこれは私が殿下よりも一秒でも長生きすることが前提ですが」
「その前提が崩れることはないでしょう。しかし、婚約破棄の慰謝料に条件をつけてくるというのは……」
「殿下のお怒りはごもっともですわ。本来ならば条件などつけられる立場ではないことは、重々承知しております。ですが殿下、どうかこのあたりで折れていただけませんか。父は怒りっぽい人です。追い詰められればどこへ牙を剥くかわかりません。その相手が私ならばまだマシです。殿下ならばご自分で撃退できるでしょうが……クラーラのお腹の赤ちゃんに向けられでもしたら……」
最悪の場合、父は領地を守るためにクラーラを堕胎させてでも婚約を履行しようとしてくるかもしれない。クラーラがイグナーツを裏切ったことなどお構いなしに。
彼の手紙からはそんな危うさを感じられたのだ。
おそらく、アリーセが思っている以上に父は追い詰められている。
イグナーツが重たいため息をついた。
「ここらが折り合いをつける妥当な線だと?」
「私はそう思います」
「確かに。この条件ならばあなたが将来的に穀倉地帯の領主になるわけですから、少なくとも路頭に迷わせてしまう心配はしなくてすみそうです」
思っていたとおり、やはり彼はアリーセの今後の処遇も気にかけてくれている。彼の優しさを利用しているようで心が痛んだ。
とはいえイグナーツも思うところはあるらしく、アリーセにあきれの交じった眼差しを向けてきた。
「それにしても意外ですね。あなたが父親の肩を持つとは。妹の身代わりにされたことといい、てっきりあなたはヴェルマー家であまりいい扱いを受けていないのではないかと思っていました」
大当たりだ。だがアリーセは敢えて苦笑を返した。
「育てていただいた恩があります。それなりに不自由のない暮らしをさせていただきましたし……かつては愛情もありました。それに、赤子に罪はありませんわ」
「俺だって、中絶してまでクラーラ嬢に嫁いでこられても困ります」
イグナーツがむっとした顔になる。
いくら容姿が美しかろうと、浮気をした挙げ句、子まで孕んだ娘と結婚する気になんてなれないだろう。だが、アリーセは念のため確認する。
「クラーラに未練があるわけではないのですね?」
「当たり前です。そもそも会ったこともないのですから。美しいという噂を聞いただけで執着などしませんよ」
「それを聞いて少し安心しました。実を言いますと、少し責任も感じておりますの」
「責任?」
「殿下には、私がお父様にやり返した話を面白おかしく語ってしまったので……」
イグナーツはここではじめて思い当たったらしい。焦った様子で長椅子から腰を浮かせ、テーブルに手をついて身を乗り出した。
「あなたのせいではありません! 乗っかったのは認めますが……もとより食料の備蓄と人材の確保に懸念があったので、あわよくば程度のつもりでヴェルマー公爵とエルケンス辺境伯を利用しただけです」
ちなみに元婚約者ファビアンの生家であるエルケンス伯爵家には、領地ではなく人材を求めたという。
ゴルヴァーナ城砦で働けるメイドを十名、医務官または助手を五名、その他使用人を十名、兵士として戦える十八歳から三十五歳までの男を三十名。それぞれを家門および領地から出すよう要請し、了承を得たらしい。これで近いうちに人手不足も解消される見込みだ。
イグナーツが二度目のため息をついた。
「……わかりました。条件を飲みましょう」
「寛大なお心に感謝いたしますわ」
「しかし、あなたはよろしいのですか? 俺と結婚するということは……」
「私はもとより殿下の妻になるためにまいりましたので。不満なんてありませんわ」
(それどころかあなたに恋をしてしまったので、大好きな殿下と結婚できるのは身に余る幸せなんです……なんて、まだ言えないけれど)
なんと言っても、出会ってから日が浅いのだ。
イグナーツほどの見目ならば、女性から一目惚れされた経験は腐るほどあるだろう。出会って間もないうちに好意が知られれば、一目惚れだとバレる可能性が高い。
さすがに全裸で出会ったときに惚れたなどと、たとえ半分以上事実であっても思われたくはなかった。乙女心は複雑なのだ。
「……そうですか。しかし、あなたの知らない事実もまだありますので、それを聞いてから判断した方がいいと思います」
アリーセは目をしばたたいた。
「私の知らないことですか?」
ええ、とイグナーツはうなずいた。
よほど言いにくいことなのか、彼の秀麗な顔がみるみる曇っていく。
そうして一呼吸おいてから、神妙な声音で切り出してくる。
「俺はあと一年しか生きられません」
何を言われたのか、すぐには理解できなかった。
向かいの席で淡々と語るイグナーツの姿が一瞬、ぐらりと歪んで遠のいたようにすら感じた。脳が認識も理解も拒んでいる――
「聖剣を持っていると《奈落》の状態がなんとなくわかるんです。次に魔物が湧くのはいつか、人柱になるべきときはいつごろか……正確に日時までわかるわけではないですが、おそらく一年後には人柱として《奈落》に沈むことになるでしょう」
一息ついてから、あらためてイグナーツは言い放った。
「アリーセ・ヴェルマー公爵令嬢。あなたは、そんな男の妻になれますか?」
「はい」
即答できたのは反射的な行動だった。
なんと言われようと、どんな条件をつけられようと、その問いには必ず「はい」と答えようと決めていたからだ。
ただ、いましがた言われたことへの理解が追いつかないだけで。
驚いたように目を見開くイグナーツを、目の前がくらくらしそうな気分になりながらもまっすぐに見つめる。
「なんとおっしゃられようと、私の意志は変わりません。殿下の残された時間がよりよいものになるよう、妻として全力でお支えさせ、て……いただ……」
――そこで、理解が追いついてしまった。
ポロリと涙がこぼれ落ちてしまい、アリーセはおのれを恥じた。
(私が泣いてどうするの。殿下はとっくに運命を受け入れているのに、ほんの数日前に出会ったばかりの私が泣くなんて、失礼だわ)
頭の中ではそう冷静に考えられるのに、生理的な反応をこらえられなかった。ぽろぽろと涙をこぼす自分を、他人のように見下ろしている自分がもう一人いる、そんな感覚だった。
涙よ、止まって。早く止まって。お願い、早く。
とめどなくこぼれる涙をどうもできずにいると、不意に優しく頭を撫でられた。
はっとして顔を上げると、いつの間にか長椅子の隣に腰掛けたイグナーツがこちらを申し訳なさそうな顔で見つめている。
「あんな人たちのために、あなたが無理をする必要はありません。嫌なら逃げていいんです。そのための力ならいくらでも――」
「ち、違います、これはそういう意味じゃなくて……!」
アリーセがふるふるとかぶりを振ってみせると、もういいからと言わんばかりにイグナーツが何度も何度も撫でてくれる。
まだ誤解されている。余命の短い男性と結婚することが嫌で泣いているわけではないのに。
(聞いてない……あと一年しかなかったなんて……!)
人柱になる運命だといっても、三、四年は残されていると推測していた。逆に言えばあと数年はあるのだからと、前向きに受け取ろうとしていた。なのに。
「殿下が、あまりにもあっさりおっしゃるから……!」
「……すみません」
「あ、謝らないでください。殿下は何も悪くないのに、こんなの、理不尽……」
急に抱き寄せられてイグナーツの胸元に顔を押しつけさせられたため、最後の方は言葉にならなかった。あるいは、それ以上は言わせたくなかった、聞きたくなかったのかもしれない。
(ご自分でも思ってらっしゃるんだわ。理不尽だって……)
イグナーツはアリーセを強く抱きしめながら、泣く幼子にそうするように背中をさすってくれた。
その優しさが嬉しくもあり、悔しくも悲しくもあった。
泣くべきではないと思うほどたくさんの感情で頭も心もあふれかえって、ぐちゃぐちゃになっていく。もはや自分ではどうすることもできず、アリーセは涙が枯れるまで幼子のように彼の胸に顔をうずめて泣きつづけた。
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