第三章
17.元婚約者が窮地です(1)
状況が状況なので書類上だけの結婚になるだろうとアリーセは踏んでいたが、意外にもイグナーツはごく少数での結婚式を行いたいと希望してきた。
彼はアリーセが自分に嫁がざるをえなくなったことに罪悪感を抱いている様子で、せめてかたちだけでも式を挙げ、花嫁衣装を着せてやりたいと思ったようだ。
(お気になさらなくてもいいのに。花嫁衣装だって、もともとはクラーラのために作られたものだし……)
とはいえ、イグナーツの残された時間からしてアリーセが最初で最後の結婚相手になる。それはとても光栄なことだ。
(殿下のためにも精いっぱい、きれいな花嫁にならないとね。こんな女が最初で最後の妻か、なんて絶対に思われたくないし)
いつまでもメソメソ泣いていても事態は何も好転しない。
残された時間が少ないのなら、一分一秒だって無駄にできない。
アリーセ・ヴェルマーと結婚してよかったと、彼が最期の瞬間に思えるような立派な妻になろう。そう決意する。
必要な書類や物品の準備や手続きなどが進められる中、アリーセは花嫁衣装の調整をして過ごした。
輿入れ前にアリーセの体型に合わせて直してはあったが、クラーラ好みのゴテゴテしたフリルや自己主張の強いビジューがアリーセにはあまり似合わなかったのだ。他人のために作られたのが丸わかりの衣装を着るわけにはいかない。
それでミアと相談して、あちらのフリルを取ってこちらに付け足して、いらないビジューを取り外して、といった作業を二人がかりで行った。
テーブルに花嫁衣装を広げ、二人でチクチクとフリルを縫い付けていると、換気のために開け放した窓から外の声が響いてきた。結構、いやかなり騒がしい。作業に集中できず、アリーセはいったん針を裁縫具箱の針山へ戻した。
「ちょっと休憩にしましょう」
「では、お茶をお淹れしますね」
ミアはささっと花嫁衣装を片付けると、使用人用の扉に消えていった。
(何かあったのかしら)
アリーセは気になって窓辺へ移動し、そっと階下の様子を見下ろした。アプローチに馬車が何台も停まっており、使用人らしき人々が荷物を運び出している。
目を引いたのは、馬車に描かれた二頭の馬と剣の紋章だ。元婚約者ファビアンの生家であるエルケンス辺境伯家の紋章だった。
「例の慰謝料たちかしら」
イグナーツは婚約破棄の慰謝料としてエルケンス家にゴルヴァーナ城砦で働く兵士や使用人、医務官たちの派遣を要請した。人材は三回にわけて送られてくる予定で、その第一陣が近々到着するとは聞いていたから、たぶんそれだろう。
異常に対応が早いのは、エルケンス辺境伯家がヴェルマー公爵家ほど王家と親密な関係を築けていないからに違いない。
(少人数でもできるだけ早く要求に応えて、誠意を見せようということかしらね)
求められたものが違うとはいえ、ゴネまくった父とは大違いだ。
馬車のそばで名簿の確認をされている人々をなんとなく眺めていると、ふと、その中に見覚えのある背格好の青年を見つけた。
(あら? いやまさか、そんなわけないわよね)
きっと他人の空似だろう。中肉中背で黒髪の貴公子なんていくらでもいる。
アリーセが自分にそう言い聞かせようとしているとき、紅茶を淹れに行っていたミアが銀盆にティーセットを載せて戻ってきた。
「ミア、ちょっとあれを見てくれる?」
テーブルで紅茶の準備をはじめた侍女を手招きし、窓越しに青年を指差してみせる。
「あらまあ、ファビアン様でいらっしゃいますね」
「……やっぱり本人よね」
アリーセの見間違いでもなんでもなく、本物のファビアン・エルケンス辺境伯令息だったようだ。
妹を妊娠させた、アリーセの元婚約者。
「どうして彼がここに? うちに婿入りしたんじゃなかったのかしら」
「気にかかるのでしたら、お呼びしてまいりましょうか?」
エルケンスの家門の者たちはアリーセとファビアンの関係を知っているはずで、直接出向けば好奇の目にさらされるのは必至だ。
「そうね。お願いできる?」
かしこまりました、と良い返事をしてミアが退室していった。その間に、淹れ立ての紅茶を味わう。せっかく淹れてくれたのに無駄にするわけにはいかない。
しばらくして、ミアがファビアンをともなって戻ってきた。
ファビアンは身内の葬式を挙げている最中であるかのような、悲壮感たっぷりの顔をして部屋に入ってきた。気安く話せる間柄だったアリーセがどう声をかけたものか一瞬迷うほどだった。笑顔を取り繕い、つとめて明るく話しかける。
「おひさしぶりですわね、ファビアン様。お元気にしてらした?」
「…………ああ。君も……元気そうでよかったよ……」
声が重い。表情が暗い。
心なしか部屋の中の空気も重くどんよりしてきた気がする。
(そういえばここって死地って言われているんだったわね……)
しかも数年前まで罪人の流刑地だった。彼も罪人の気分になっているのだろうか。
とはいえ、実際はそこまでひどい場所ではない。アリーセは恋するイグナーツがいることもあってここでの生活を気に入っている。
「どうしてこちらへ? クラーラと結婚するのではなかったのですか?」
「もちろんそのつもりだよ。でも、さすがに君より……というか、イグナーツ殿下より先に結婚するわけにはいかないだろう?」
それもそうだ。世間体というものがある。
「正確な時期は決まっていないけれど、式を挙げるのはクラーラが無事に出産を終えた頃になると思う」
「そう……」
式に呼んでほしいとも思わなかったので、この話題はこれ以上広げないことにする。
「それはわかりましたけど、こちらには何をしにいらっしゃったのですか?」
「父上が自分の尻拭いは自分でしろとおっしゃって。式までまだだいぶ時間があるから、それまで殿下に誠心誠意つかえてお許し願うように、と」
「……それはまた」
筋は通っているとはいえ、実の子を死地と呼ばれる場所へ送り込むとは、エルケンス辺境伯は息子の愚行によほど腹を立てているようだ。
ファビアンもまさか父親にここまでされるとは思っていなかったようで、すっかり肩が落ちている。
「アリーセ……僕は殺されるのかな」
「は?」
思わず変な声で聞き返してしまった。
ファビアンは自分で言っておきながらぞっとしたらしく、両肩を抱えるようにしてぶるりと身を震わせた。
「……父上から、イグナーツ殿下はふだんは温厚だけれど、怒らせるととてもおそろしい人だと聞いたんだ。目的のためならば手段を選ばない人だと。だから国王陛下ですら殿下には強く出られないって……」
それは初耳だ。
(殿下がおそろしい? 聖剣の王子だし、お強い方ではあるけれど……)
アリーセにとってイグナーツは謙虚で礼儀正しく、気遣いにあふれたとても優しい人だ。おそろしいと言われても、誰かと間違えているのではと疑いたくなる。
「屋敷を出るときに遺書を書かされたよ。司祭の前で告解もしてきた……不慮の死を遂げたとしても天の国へ行けるように! ねえアリーセ、君はどう思う? 僕はやっぱりイグナーツ殿下に殺されるのかな!」
ファビアンは思い詰めた顔で近づいてくると、アリーセの手をギュッと両手で包むように握りしめた。手袋越しにじっとりとした冷や汗と震えが伝わる。
こんなに動揺した彼ははじめて見た。アリーセは唖然としてしまって、なんと言ってなだめたらいいのかとっさには思い浮かばなかった。
そのときだった。
がちゃり、とノックもなしに扉が開いたのは。
銀の髪をした長身の青年がぬっと現れ、扉をくぐる。
無論イグナーツだ。
いつもの穏やかな雰囲気はなりを潜めていた。秀麗な顔からは感情が消え失せており、その反面殺気のようなものをはらんだ蒼の双眸は鋭さを増している。
さらに見慣れた軽装の腰に剣を佩いているのを見とめて、アリーセはぎょっとした。
彼は第二城砦では基本的に剣を持ち歩かない。第一城砦へ向かうときですら、剣帯にぶら下がっていたのは鞘だけだった。
第一城砦で魔物に襲われたとき、イグナーツが聖剣をどこから持ち出したのかはわからない。だが少なくとも現在鞘には剣が収まっており、隙間からはあのとき見た聖剣と同じ青白い光が漏れ出している。
臨戦態勢――そんな言葉がアリーセの脳裏に浮かんだ。
「おまえがファビアン・エルケンスか」
煮えたぎる怒りを押しつぶして噛み殺したような、低い声音だった。
イグナーツのこんな声を、アリーセははじめて聞いた。
「ヒッ――」
ファビアンは喉の奥でか細い音を漏らすと、慌ててアリーセの手を離して飛び退いた。その場にしゃがみ、床に両手両膝をついて頭を打ちつけそうな勢いで平伏する。
「申し訳ございませんでしたっ……!」
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