18.元婚約者が窮地です(2)
アリーセはまたもぽかんと眺めるしかなかった。
なんの因果か、ゴルヴァーナ城砦に来てから土下座をする男を見るのは二回目だ。
同じ土下座にも個人差があるようで、イグナーツと違いファビアンはそのまま床に這いつくばりそうなほど体を折り曲げ、ぶるぶると震えている。
イグナーツは殺気を凍てつかせたような眼差しでそれを見下ろす。
「人の婚約者の部屋で何をやっている。また寝取りに来たのか?
「と、とんでもございません……!」
ファビアンが絨毯に額をこすりつけて否定する。必死だ。
「殿下、私がお呼びしたんです。なぜゴルヴァーナにいらっしゃるのか直接聞きたかったので……」
元婚約者の情けない姿を見続けるには忍びなく、アリーセは助け船を出した。
しかしイグナーツは珍しくじろりと疑わしげな目を向けてくる。
「そのわりには手を握っていたようですが?」
「命乞いをされていただけですわ」
たぶん間違っていないだろう。あのままイグナーツが現れなかったら、ファビアンは彼に斬り殺されそうになったら助けてくれと言い出していたと思うから。
イグナーツはしばらく訝しげな眼差しをしていたが、いちおうは納得してくれたらしく、ふうと吐息をついた。
「そういうことなら、まあ、いいでしょう」
その言葉を聞いてファビアンが顔を上げるが、
「誰が顔を上げていいと言った?」
「ヒィッ!」
じろりと睨まれ、また突っ伏す。
許すかどうかはイグナーツが決めることなので、アリーセが口出しできることではない。ただ、彼の怒り具合を見るかぎりではファビアンはもうしばらく頭を下げていた方が賢明なように思えた。
(それにしても、温厚な殿下がこんなにお怒りになるなんて……軽んじられて
イグナーツがふんと鼻を鳴らす。
「名簿におまえの名を見つけたときは驚いたよ、ファビアン卿。よく俺の前に顔をさらせたものだな。エルケンス辺境伯は
「…………っ」
息を呑む音が聞こえてきた。ファビアンも察したのだろう。エルケンス辺境伯は家門の名誉のためならば息子を切り捨てる覚悟だと。
「何か申し開きはあるか?」
「……っ、ございません……すべて、ぼ……私の不徳のいたすところでございます」
「そうだな」
イグナーツはさらっと認めた。いつ彼の手が腰の剣に伸びるか気が気ではなく、アリーセはもう一度口を挟むことにした。
「殿下、どうか彼に寛大な処置をお願いします。悪いのはファビアン様だけではありません。妹も同罪です。彼だけが処罰を受けるのは不公平ですわ」
ほぼ本心だったが、より正確に言うならば妹が主導の可能性が高い。それなのにファビアンだけ罰せられるのは、身内として申し訳ない気がした。
蒼の双眸があきれの色をはらむ。
「人が良いですね。彼はあなたを裏切ったのですよ? 腹が立たないのですか?」
「もちろん、腹が立ちましたわ。ですが以前にも申し上げたように罰は与えましたから。恨みもありません」
と答えてから、ふと思う。
もしかしてイグナーツがファビアンにこれほど怒っているのは、クラーラを盗られたからでも矜持を傷つけられたからでもなく……
「あなたという人は本当に……そこまでおっしゃるなら、しかたがないですね」
びくっとファビアンの肩が揺れたが、さすがに学んだらしく、許可が下りていないので顔を上げなかった。
「猫の手も借りたい状況なのは確かですから、使用人として雇いましょう。そのために連れてこられたわけですし」
「ありがとうございます」
「……寛大なご処置をたまわり、感謝の言葉もございません……!」
完全に絨毯へ突っ伏しているらしく、ファビアンの声がくぐもっている。
その脳天を怒るのも疲れたという目で見下ろして、イグナーツは嘆息した。
もういいから顔を上げろとぞんざいに告げて、今度こそファビアンに顔を上げさせる。彼の額はうっすらと汚れ、目元と頬は濡れて埃がくっついている。恐怖で泣いていたらしい。
(少し可哀想な気もするけれど、王族の婚約者に手を出したのだものね)
首が繋がっているだけでも万々歳だろう。
ファビアンは立ち上がっていいと言われていないので床にひざまずいたままだが、イグナーツはわざとなのか気づいていないのか、それ以上の許可は出さなかった。
「ファビアン・エルケンス。おまえにはひとまず第二城砦の掃除を命じる」
えっ、とファビアンは虚を突かれたように目を見開いた。
「そ、掃除でございますか!?」
まるで想定もしていなかったと言わんばかりの反応だ。イグナーツが眉をひそめる。
「不服か?」
「いえっ、とんでもございません!」
ファビアンは慌てて頭を下げた。とはいえまた絨毯に額を押しつけるでもなく、機嫌をうかがうようにチラリと下からのぞき見ながら、おそるおそる口を開いた。
「ですがそのぅ、父からは侍従か兵士としてつとめるよう言いつけられておりまして……」
イグナーツの蒼の双眸にあきれの色が濃くなった。
「ならば聞くが、剣の心得があるのか?」
ファビアンが少し嬉しそうにぱっと顔を上げる。
「はい、少しではありますが」
「ほう。魔物を見ても怯まず立ち向かえる自信もあると?」
「……それは」
膨れ上がった期待がみるみるしぼんでいくのが見えた。
普通の人間は一度も魔物を見ずに人生を終えるのだ。見たこともないおそろしい生き物に対しても果敢に挑めるかと問われても、熟練の騎士でも難しいだろう。
「ならば医療の心得はどうだ? 薬学の知識は? 料理や炊事の経験は?」
「……ありません」
完全に希望を失ったファビアンはがっくりとうなだれてしまった。
はあ、とイグナーツが嘆息して腰に手を当て、黒髪のつむじを見下ろした。
「なら、やはり掃除だな」
「……おそれながら、殿下。なぜ侍従の選択肢を除外なさるのでしょうか」
(それ、聞いちゃうの……)
アリーセはあきれた。元婚約者はここまでの流れでイグナーツがあえて流した理由を察せられなかったらしい。
ようやく溜飲を下げたと思われたイグナーツの双眸に、再び刺すような鋭さが戻る。
「人の婚約者に手を出す男に侍従をまかせるやつがどこにいる! そんなに俺の従者になりたいなら、《奈落》の上で盾持ちでもやってみるか!?」
鼓膜が震えるほどの大音声だった。
アリーセも思わずびくりと肩をすくめてしまう。穏やかで落ち着いた王子様だと思っていたが、彼は紛れもなく《奈落》から国を守る騎士団の長なのだ。
「ヒッ! つ、つつしんで掃除をさせていただきますっ!」
一喝されたファビアンがまた全力で突っ伏す。
(愚かな人……)
とうに婚約は解消しているとはいえ、かつては一生連れ添うつもりでいた相手だ。少なからず落胆はしてしまう。
アリーセは少し前まで、特にクラーラとの仲が発覚するまでは彼に悪感情は抱いていなかった。だがいまはこの男と結婚しなくてすんで本当によかったとすら思う。
イグナーツは苛々した様子で、部屋の隅にある呼び鈴を鳴らすための紐を引いた。しばらくして、執事長のヤコブがあらわれて一礼する。
「お呼びでございますか?」
「彼を清掃主任に紹介してやってくれ。新しい掃除夫だ」
「……かしこまりました」
執事長はファビアンを見て、掃除係らしからぬ身なりの良さに困惑した様子だったが、余計なことは言わなかった。怯えた様子のファビアンを連れて退室していく。
扉が閉まるのを待ってから、イグナーツが謝罪した。
「声を荒らげてしまってすみませんでした。怖がらせたくはなかったのですが」
アリーセがびくりと震えたことに気づいていたらしい。少し恥ずかしくなる。
「構いませんわ。ちょっと驚きましたけれど……殿下はここの城主様でいらっしゃいますもの。おのれの分をわきまえない使用人に対して、あのくらいは当然の処置だと思いますわ」
「そう言っていただけると、助かります」
イグナーツが苦い微笑みを浮かべる。既に眼差しからは険が消え失せ、蒼い双眸は凪の湖ような優しい色をたたえている。
その目が、長椅子の上に避けられた花嫁衣装に向けられた。
「結婚が正式に認められたら、使用人に関する権限はあなたに移します」
使用人の管理は主人の妻のつとめだ。
アリーセはうなずいた。
「ご期待に応えられるよう、力を尽くしますわ」
「はは、そんなに肩肘張らなくても大丈夫ですよ。しばらくは執事長と相談しながらゆっくり執り行ってください。それと……さきほどのファビアンの処遇も、もっと適切な職務があると思えたらあなたの裁量で変えてくださって構いません」
いまはまだ内密に、とイグナーツが唇に人差し指を当てる。
さきほどの怒りっぷりはあくまでファビアンに反省させ、身の程をわきまえさせるためだったのだろう。一瞬おそろしく思えた彼の本質が優しいままだとわかって、アリーセは頬をほころばせる。
「お気遣い感謝いたしますわ。でも、私もファビアンにはお掃除をしていただきたいと思っておりますの。絨毯もだいぶ汚されてしまいましたし」
と、彼が額をこすりつけたせいで乱れた絨毯を一瞥して言うと、イグナーツは違いないですねと言って大笑いした。
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