19.今日、殿下の妻になります

 ――ゴォォォォーン――


 もの悲しい響音がゴルヴァーナの地に鳴り渡いた。

 これから東棟の礼拝堂ではじまろうとしている儀式を予告するような音色だが、祝福の鐘の音などではない。魔物の湧き出る《奈落》から響く自然音だ。

 冥響として恐れられる音色も、アリーセの心には響かない。純白の花嫁衣装をまとい、長い裾を引きずって廊下を突き進む足取りに迷いはなかった。

 もっとも、長いヴェールの裾を持って後ろを歩く侍女は怯えている様子だが、これはいつものことなのでアリーセは構わなかった。


(今日、私は《奈落》の花嫁になる。イグナーツ殿下の妻に……)


 ザクロのような赤い髪は侍女のミアの手によってまとめ上げられ、その上から繊細な刺繍の施されたシフォンのヴェールをかぶせられている。

 耳飾りや首飾りなどの宝石は真珠で統一され、必要最低限にとどめられている。これは何も父がケチったからではなく、花嫁衣装の清廉さや無垢さを邪魔しないように極力控えめにするのが最近の流行だった。

 途中、モップを握ったファビアンを見かけた。貴族らしい上着は羽織らず、シャツの袖を腕まくりしている。

 彼はアリーセを見るなり手を止めてぽかんとしたものの、すぐに一礼し、壁際に背を寄せて道を空けた。


(真面目に働いているようね)


 ミアに探りを入れてもらった範囲では、特に不満も言わず清掃業務に従事しているらしい。イグナーツを恐れているからかもしれないが、頑張ってほしいと思う。


 礼拝堂の前まで来ると、イグナーツの侍従たちが両開きの扉を開けてアリーセを迎え入れた。警備の兵士たちが目を丸くする中、アリーセは堂々と扉をくぐった。

 礼拝堂は天井が高く、面積以上に広く感じられた。通路を挟んで左右に並ぶ木製の席に列席者の姿がないせいでもあるかもしれない。とはいえいたるところに三叉の燭台が置かれ、無数の火に照らし出された堂内にはおごそかな空気が漂っていた。


 正面の通路の奥にある聖壇の前で、イグナーツと黒髪の男性が立ち話をしているのが見えた。二人は扉の音に気づいて振り返り、アリーセを見て目をみはる。

 アリーセもまた、イグナーツの姿を見て息を呑んだ。

 彼は鈍色の上着に白いシャツとタイ、脚衣、金の刺繍をあしらったアイボリーの胴着をまとっていた。美しい銀髪も相まって儚げになりそうなところだが、鍛えられた長身と意志の強そうな蒼い眼差しのおかげで引き締まった印象になっている。


(そういえば私、殿下の正装姿を見るのは初めてだわ……)


 まさに童話の世界の王子様だ。彼の異母兄である第一王子オスヴァルトにも会ったことはあるが、彼は高慢そうで常に女性を値踏みするような目つきをしており、アリーセの抱く「王子様」のイメージではなかった。

 と、咳払いが聞こえてアリーセは我に返った。

 イグナーツと話していた黒髪の男性、副官のエトガルだ。今回の結婚式で証人をつとめてくれることになっている彼は、


「殿下」


 と何かをうながすように、眼鏡の奥から冷めたような目を向ける。

 ハッとしたイグナーツが目を逸らせ、左眼の下の傷跡を掻いた。


「……失礼。あまりにもきれいなので思わず呼吸も忘れて魅入ってしまいました。なんだか現実味がなくて、また夢か幻覚でも見ているのかと……」


 照れているのがあきらかなので、アリーセでもお世辞ではないことはわかった。かあっと顔面が熱くなってくる。


(殿下に褒めていただけるなんて、こっちが夢のようです……)


 嬉しくて顔面が崩壊しそうになるのを必死にこらえる。ミアがいつも以上に気合いを入れて化粧を施してくれたのだから、崩すわけにはいかない。

 ぐっと噛みしめて、「殿下もとても素敵ですわ」と言おうとしたとき、


「五十点」


 と辛辣な声が響き、ぎょっとする。

 またもエトガルだった。鋭いを通り過ぎて刺すような目をイグナーツに向ける。


「なんですかその賛辞は。あなたに輿入れするためにはるばるやってきた令嬢の花嫁衣装姿を見て、第一声がそれ? 信じられません。宮廷教育で培ったはずの教養はいったいどこへ? 《奈落》に語彙を落っことしましたか?」


 どうやらイグナーツの褒め言葉に対する評価だったらしい。上手く言えなかったという自覚があるらしいイグナーツがぐっと鼻白む。


「……そこまで言うか」

「むしろ言い足りないくらいですよ。まったく、嘆かわしい。紳士のたしなみというものがまったく身についていないようですね。こういうときは妖精や、花や宝石の化身にたとえるのが最近の流行でしょうに」

「……こんなところにいて流行などわかるか。正直に思ったことを伝えて何が悪い」

「そんなだからクラーラ嬢に逃げられるんですよ」

「あのっ」


 アリーセは慌てて会話に割って入った。不作法だが、誤解されたままではイグナーツが気の毒だ。


「妹は決して、殿下に愛想を尽かしたわけではありません。単純に《奈落》に来るのが怖くて、輿入れできない状況を作るために……その」


 エトガルがどこまで事情を知っているのかわからなかったので、適当な相手をたぶらかして妊娠したことまでは言えなかった。


「……なので殿下にはまったく否がありませんし、一度でもお目にかかってお人柄に触れていたら、妹も殿下を裏切ろうなどと浅ましい考えにはならなかったと思います」

 イグナーツが苦く微笑む。


「ありがとうアリーセ。あなたは本当に優しい人ですね」

「そ、そんなことは……それに私は、殿下の気持ちのこもった言葉が嬉しかったです」


 するとイグナーツは急に得意顔になってエトガルを睨みつけた。


「聞いたか、エトガル! アリーセは俺の言い方で喜んでくれたぞ!」

「それこそ世辞ですよ殿下。アリーセ嬢、殿下をあまり甘やかさないでください。しつけ上よろしくありません」

「はあ……」

「なんだ、しつけって! せめて教育と言ってくれ!」


 イグナーツが猛然と抗議したそのとき、扉が勢いよく開かれる音が鳴り響いた。


「さあ、そろそろはじめますよ御三方!」


 豪快な声に振り向くと、声どおりの姿をした大柄な男が近づいてきていた。

 三十代半ばほどの、短い金髪に色黒の肌をした男性だ。ゆったりとした白い長衣に紫の貫頭衣という司祭服に身を包んでいても、筋肉質の体がまったく隠せておらず、生地のあちこちが内側からの隆起で盛り上がっている。

 彼はアリーセの前までたどり着くと、胸に手を当ててにっかと白い歯を見せた。


「第一守備隊長のヘンドリック・カペルです。どうぞよしなに」

「……アリーセ・ヴェルマーですわ。どうぞお見知りおきを」


 アリーセは目を白黒させながらなんとか挨拶した。司祭と名乗るかと思ったら、見た目どおりの守備隊長と紹介されたので脳が追いつかない。

 どう受け止めていいのかわからずにいると、ヘンドリックはわははと笑った。


「こんななりをしておりますが、司祭の資格はちゃあんと持っていますんで、どうぞご心配なく!」

「そんな説明では逆に不安になるだけでしょう。まったく……」


 エトガルがあきれた声を漏らし、眼鏡のリムを押し上げた。


「よくある話ですよ。彼はカペル子爵家の三男坊で、爵位を継承できなかったので出家したんです。ここには教会から正式に司祭として派遣されました。騎士団には司祭以上の聖職者が一人以上従軍する決まりがありますから」

「そういうことだったのですね。でも、司祭が隊長になれるものなんですか?」

「そこは殿下が根気強く説得して、かけもちしてもらうことになりました。ヘンドリックの強さは司祭にしておくにはもったいなかったので。適材適所です」

「出家前は領地で騎士の真似事をしていましたんでね。給金も倍もらえると聞いたんで、喜んで拝命しました。ねえ旦那……旦那?」


 男性陣の視線を追って顔を向けると、イグナーツと目が合った。

 こちらを見つめてぼうっとしている様子だった彼が、またハッとして我に返る。エトガルが半眼になって眉を寄せた。


「殿下、花嫁に見とれすぎです。いまからそんなことでどうするんですか」

「そーですよ旦那、結婚式のメインは夜ですよ? そんなんで一晩戦えます? また聖剣から体力を前借りするんですか?」

「な……アリーセの前で品のない冗談を言うな!」


 イグナーツが全力で抗議する。頬が赤い。

 そんな彼にエトガルは露骨にあきれた表情を作り、ヘンドリックがわははと笑って花婿の背中をバシバシと叩いた。

 ふだんは大人びて見えるイグナーツがこの二人に挟まれると歳の離れた弟のようだ。タイプの異なる兄二人にいじられて、ろくな反撃ができずにいるような。


(愛されていますのね)


 アリーセは三人のやりとりが微笑ましくもあり、うらやましくもあった。

 イグナーツはいつもアリーセに対して丁重でいて、反面とても他人行儀だ。気を遣ってくれているのは感じるが、常に線を引かれているのがわかるのだ。

 自分もいつか彼らのように、イグナーツと他愛のないやりとりをできるような関係になれるだろうか。

 そんな将来を思い描くには、残された時間はあまりにも短い気がした。

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